人生で一度だけ、腰を抜かしたことがある。
 それは、わたしがまだ高校生の頃のことだった。
 部活動の朝練のために、わたしは体育館に向かっていた。
 すると、反対側から、テニス部の男の子が白いユニフォーム姿で歩いてきたのだ。
 知っている子だった。
 わたしがいつも一緒に家に帰っていた女友達の、クラスで一番仲の良い女の子の、付き合っている男の子だった。まあ、ようするに友達の友達の恋人だ。帰るときに女友達のクラスへ迎えに行っていたりしたから、何度も顔を合わせていたし、会えば挨拶くらいする仲だった。
 だからこのときもわたしは、いつもどおり、
 「おはよう」
 と、言った。
 彼も、にっこりと笑って、
 「おはよう」
 と答えた。
 太陽が彼を照らし、白いテニスウェアと彼の白い歯が眩しかった。素敵な笑顔だった。
 そしてすれ違いニ、三歩前に進んだとき、あれ? と思った。
 腰が抜けたのだ。
 わたしは膝から崩れ落ちるようにして、すとん、とその場に倒れこんだ。
 なんだこれは?
 と、わたしは思った。意識はしっかりしている。立ちくらみではない。
 瞬間的に、頭の中に「ビートルズ来日により卒倒する女の子たちの図」が浮かんだ。
 そしてわたしは気づく。これは「腰が抜ける」だ。彼の笑顔があまりに素敵で、わたしは腰を抜かしたのだ。
 ああ、こういうこともあるんだ、と思ったら笑えた。腰を抜かし、地面に倒れこんだままくすくす笑った。恋ではない。確かに彼は非常に見た目がよく、腰を抜かすくらい素敵な笑顔の持ち主であったが、それは確かに恋のときめきとは違った。テレビの中や本の中の人に瞬間的にくらくらするのに似ていた。
 それから十何年も生きてるけど、腰を抜かすほど素敵な笑顔を見たことは、あれ以来ない。
 彼とは卒業後、一度だけ偶然出会った。
 居酒屋で酔っ払って「アイス食べよーアイス」なんて言いながら女友達と入ったアイスクリーム屋で、バイトしていたのだ。酔っ払っていたのであんまり覚えていないが、そのときも素敵な笑顔だった気がする。せめて酔っていなかったら口説けたのになあ、と、いまだに少し心残りだ。


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