隣の部屋で電話をしていた恋人が、わたしの元へやってきて突然わたしを抱きしめた。
 なんだろう、と思いながら数秒間黙って彼に抱擁されていた。
 彼はわたしから手を離したのち、
 「××が死んだ」
 と、静かに言った。
 「え」
 と、わたしは答えた。余りにも突然で驚いたけれど、驚いてもいいのか分からないほどにしかわたしはその人のことを知らなかった。
 彼女はわたしの恋人と同じ飲食店で、半年ほど一緒に働いていた人だった。料理人だった。ほんの数か月前にその仕事を彼女は辞め、少し休んだのちに他のお店で働くことになっていたのだという。でも彼女は、他の店で働くことなく、自分で死ぬことを選んだ。
 わたしは彼女のことを何も知らない。
 一度だけそのお店にご飯を食べに行って、こんにちは、と挨拶しただけだった。
 彼女がこの世界に存在しないということを悲しむ権利もないほどに、わたしは彼女を知らなかった。
 明日お通夜に行ってくる、とわたしの恋人は言った。
 喪服、冬用しか持っていないけれど大丈夫かなあ。
 彼女が何に悩みどうして死んでしまったのか、聞くこともはばかられた。真夏の葬式。黒尽くめの人たちは涙と一緒に汗もだらだらとかくだろう。明日は真夏日だというから汗のほうが多いかもしれない。
 わたしは彼女のことを何も知らない。名字も知らない。誕生日も血液型も家族構成も知らない。好きな色も知らない。顔だってよく覚えていない。声も。背丈も。
 でも。
 恋人の働いている飲食店へ行ったときに食べたトマトソースのスパゲティを作ったのは、彼女なのかもしれないと思った。
 なにも何にも知らないけれど、彼女の作った料理の味を、わたしは知っているのだ。
 そう思ったら、なんとも言えないような、きんとした悲しい気持ちに捉えられた。わたしは料理人であった彼女の、その味を知っているからという理由で、彼女の死を悼む権利を与えられたような気がした。


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