最近、自分の仕事についてよく考える。

 わたしの仕事は「文章を書いて人に読んでもらう」というものだ。

 十年以上文章を書いているので、それはそれはたくさんの文字を書いた。

 消しゴムで消したりペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたりデリートキーで消去したり丸めてゴミ箱に投げ捨てた文字も含めたら、それは「わたしが人生で声に出した言葉数」と同じくらいあるかもしれない。

 そうしてたくさんの文字を書いたり消したり捨てたりすることが日常で仕事で趣味で生き甲斐であるわたしにも、やっぱり、書いて良かったと思うものと、何の思い入れもないものがある。

 本当は自分で書いた文字はひとつ残らず愛しているって大声で言えるのが一番いいんだろうけど、でもそんなの無理だと思う。大好きな友人と楽しくお喋りしたときだって、家に帰ってから「あああんなこと言わなきゃ良かった」って思うことがあるのと一緒だ。なんの後悔もせずに生きている人を除いたら、誰にだってふと口にしたことを悔やんだりすることはあるだろう。

 文字を書くということは研究発表ではない。わたしは、そのときに感じたこと思ったこと、自分の興味のある世界について書きたいだけなのだ。

 でも最近、それだけじゃ上手くいかないことも増えてきて、それで「自分の仕事についてよく考える」なんて事態に陥っているわけである。書く内容ではなく、書くという行為について考えるっていうのは、なんだか本末転倒だ。スケーターが、いかにすべるかということではなく、スケート靴の仕組みについて悩むような感じ。

 いままで、短編小説、長編小説、エッセイ、脚本、映画評、書評、詩、作詞、日記、旅行記、広告まがいの記事まで、いろんなものを書いた。インタビュー記事だって書いたことある。テープおこしもした。それらすべての仕事を愛しているかといったらやっぱりそんなことなくて、仕事としてやっている以上、割り切らねばならないこともいっぱいあった。そしてこれからもそういうことはいっぱいおこってくるんだと思う。

 今、ぼんやりと思うのは、「この仕事に関わったすべての人に自分の葬式に来て欲しい」と思うような仕事をしたいなあ、ということだ。

 なんで葬式なのだろうかと自分でも思うのだが、でもそう思う。

 結婚式みたいなお祝い事の席だったら、ちょっと嫌なやつがいても我慢できる気がするけど、自分の葬式には、嫌いな人には来て欲しくないからかなあ、と他人事みたいに考えてみた。

 自分の向きたい方向について考えるとき、自分の葬式について思うなんてこと、大人になって知った。面白い発見だ。


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