物書きを生業としているわたしは、他の物書きを生業としている方の多くがそうであるように、常にノートを持ち歩いている。
愛用しているのは、小学校低学年用の学習帳だ。表紙には「じゆうノート」と書いてある。もうこのノート以外じゃ嫌だ仕事できない、というくらい愛用し続けているので、同じノートが家に何十冊もある。近所のスーパーマーケットにて購入しているのだが、一時期わたしの買い占めが原因なのかマーケットに学習帳が入荷されなくなったことがあり、そのときは本当に青ざめた。
そのノートに何を書いているのかと言えば、たいていは取るに足らないことばかりで、ふと頭に浮かんだ言葉や、設定や、感情やなんかの走り書きである。
忘れないように急いでささっと書いているので、字が汚い。字が汚いのはまあいいのだが、気になるのは、変換ミスをしていることである。
パソコンを打ったときに、「パソコンを討った朱鷺に」なんて残されてしまう、あの変換ミスである。
たとえば、今わたしの目の前に広げられているノートには、
「今に寝転ぶ男」
という走り書きがある。意味が分からない。もちろん「居間に寝転ぶ男」というシーンを書こうとしたのだと思うが、この文章では、男はまだ寝転んでいない。あるいは、現在という概念に寝転ぶってことか? 書いているときは「居間に寝転ぶ男」をイメージしているのに、手は「今」という文字を記している。まさに変換ミスだ。
そんなことが重なって気づいたのだが、わたしは、文章を書くときに「音」で書いているらしい。
以前、映画監督と漫画家と、三人で話したことがある。
彼らは二人とも世界を作るとき、
「ドールハウスみたいなものを頭に浮かべて、その中を動く人たちを俯瞰で眺める」
と言っていた。そうしてそれを画や絵に写すのだという。わたしはそれを聞いて、
「やっぱり天才たちは違うなあ。わたしの頭にはドールハウスなんか入ってない」
と羨ましく思った。
が、わたしは根本的に方法が彼らとは違うだけなのかもしれない。
わたしはきっと、頭の中をこだましている音を耳を澄ませ聞いて書き写しているのだ。ドールハウスの中の人々の動きを文字に起こしているわけではない。わたしが映画や漫画がつくれないのは、わたしの作る世界には絵や画はなく、音だけだからなのだと思い当たった。
なんだかその発見は、酷くわたしをわくわくさせた。他のものを作る人たちはどうなんだろう。聞いてみたい。
しかし、兎にも角にも、変換ミスするくらいなら平仮名で書けばいいのになあ、とは少し思う。
編集部よりお知らせ
このWebマガジンの連載「愛の病」をまとめたエッセイ集『 幸福病』(幻冬舎文庫)が好評発売中です! 前回の『 愛の病』より時間を経て、カバーも内容も少し大人な感じになったのではと思っております! みなさん是非、御一読ください。 |
|