ある喫茶店で、マスターからこんな話を聞いた。
「常連さんがいたんです。まあうちはこんな地味なお店ですからね、常連しか来ないんですけれどね」
 神奈川県の小さな喫茶店だった。住宅街の真ん中にある、骨董品を飾りジャズを流す店だ。お店の脇には焙煎用の狭い小屋もあって、珈琲にとてもこだわっていることがすぐに分かった。
「俳句の先生をやってらっしゃる方で、俳句のお教室のあとに生徒さんたちといらっしゃってたんですね。毎週。けれどあるときから、先生も生徒さんもぴたりと来なくなったんです」
 マスターは五十代だろうか。六十代かも知れない。小説や映画に出てくる気むずかしいマスター、みたいに見えたけれど、はじめて会うわたしに人懐こく話しかけてきてくれた。他に話し相手になりそうな人がいなかったからかも知れない。白い糊のきいたシャツを着ていて、絶えず柔らかな微笑みを浮かべていた。
「どうして来なくなったんだろう、ずっと気にはなっていて。それから随分たったある日、生徒さんたちがね、先生を連れてうちの店に来てくれたんです。先生は車椅子に乗っていました。先生、認知症になられてしまって施設に入っていたんです」
 店内には、マスターのお母さんのお父さん、つまりおじいさんが描いたという絵が飾られていた。お母さんが嫁入りの時に、こっそり持ってきたものなのだそうだ。どうして「こっそり」だったんだろう、そう思ったけれど聞けなかった。その絵を眺めながら珈琲を飲んだはずなのに、どんな絵だったのかを、どうしてかわたしは少しも覚えていない。
「久しぶりに会う先生はぼんやりとしていて、わたしのことなんかまったく分からないみたいでした。けれど落としたての珈琲を飲み始めてからしばらくして、先生、みるみる表情が変わっていったんです。表情が戻った、っていった方が良いのかな。思い出したんですよ。この店のことを」
「へえ、すごい」
「店だけじゃなく、俳句のことも、俳句教室のことも生徒さんも、自分自身のことも。そうして、少しだけ先生は泣きましたよ。思い出したきっかけは、匂いだったらしいです。珈琲の匂い」
「匂い」
「映画みたいな話でしょう」
「そうですね」
「まあ、お店を出たらまたすぐに忘れちゃったそうですけれどね」
 マスターはそう言って、また柔らかな顔で笑った。
 マスターの淹れてくれた珈琲は、苦くも酸っぱくもなかった。柔らかくてブラックなのに甘くって、夢の中の完璧な珈琲みたいな味がした。



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