トラムの一番後ろの車両でゴロツキ氏と二人きりになったわたしは、どうしよう、と迷っていた。
 一旦降りて、違う車両に乗り換えようか。しかし、そんなことをしたらゴロツキ氏を傷つけるかもしれない。もじもじとしているうちに、ゴロツキ氏はわたしのほうへ顔と体を向けた。
 ゴロツキ氏が、わたしに向かって何か言った。からまれているのだろうか。彼は酔っぱらいすぎていてろれつが回っていない。いや、でもしかし、分かる。
「どこから来たの?」
 と、聞かれている。英語でだ。
 わたしはおずおずと、ジャパン、と答える。
「東京?」
「そうです」
 すると彼は、怒ったみたいな顔で何かの単語を繰り返した。
 なんだ? わたしは「パドン?」を繰り返す。けれど何度聞いても分からない。知らない単語なのか、フィンランド語なのか、それとも彼の廻らないろれつのせいなのか。
 彼は、スポーツスポーツ、フィエスティバル、トウキョウ、と言った。まだきょとんとした顔のわたしにペンと紙を出させ、五つの円を描いた。
「ああ、オリンピック!」
 わたしが声を上げると、彼は途端に顔をほころばせ、そうそう、トウキョウオリンピックコングラッチレーション、と言って握手を求めてきた。おー、サンキュウサンキュウと握手を返すわたし。ちなみにこの時点では、東京はオリンピック開催地には決まっていなかった。わたしは東京でオリンピックが行われることを特に望んでいたわけではなく、むしろちょっと面倒だなあ他にやらなきゃいけないこといっぱいあるよなあとなんて考えていたのだけれど、こんな遠くのフィンランドのゴロツキさんも、オリンピックのおかげで東京のことを知っていてくれるのか、だとするなら、開催も悪いことばかりじゃないな、と思った。
 名前を聞かれたので「キョウコ」と答えると、彼は、
「ジョン・レノン!」
 と歓喜の声を上げ、ばんばんとわたしの肩を叩いた。酔っぱらっているからちょっと痛かった。「イエスイエス、オノヨーコ、セイムネーム」わたしも答えた。日本人のヨーコ、に会えて彼は嬉しそうだった。本当は違うのだけれど。
 ゴロツキ氏はとても人懐こくていい人だった。ちょっと顔が怖いだけで。昼間っから酔っぱらっていただけで。ろれつが廻っていないせいで、半分くらい何を言っているか分からなかったけれど。
 ゴロツキ氏とわたしはトラムの最後尾で、随分長いこと肩をたたき合いながら談笑していた。
「ところでどこへ行くんだい?」
 と彼に問われたときには、遊園地駅はとっくに通り過ぎていた。



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フィンランド雑記 [3] カウリスマキ的ゴロツキ氏 -2狗飼恭子オフィシャルブログ