ISBN4-87728-357-9-C0095 1,600 円



 年末に理想の男性とめぐり逢ったという年上の友人からの年賀状は、こんな文面だった。「楽しく暮らしていると、いいことは近寄ってくるもんだなあと実感しました」
 楽しく、の部分が彼女らしくて笑ってしまった。普通は、つつましく暮らしていると、とか、真っ正直に生きていると、とかでしょうが。『生死同源』を読んで思い出したのが、美味しいものを食べ、ゴルフにショッピングにといつも全開、理想の恋人もゲットしちゃった彼女のことだった(ちなみに彼女はバツイチで今年五十歳)。
 著者は、膠原病、リウマチといった難病を専門に扱ってきた内科医である。けれど相当変わった医者だ。睡眠不足で頭が割れそう、と泣きつく患者には、「そんなの見たことない、割れたら見せてね」と茶化し、「先生、さっき血吐いてしもうたんや。どこが悪いんやろ」と不安がる患者には「そりゃあんた、頭が悪いんやわ」と突っ込みを入れる医者なのである。
 私はまあ健康な方だが、それでも年に二、三度は風邪をこじらせたりして病院に行く。何時間も待たされたあげく、「風邪じゃないかと思うんですが」、「風邪ですね。薬出しときます」というような不毛な会話の末、はい、次の方、となる。病院におけるこういった医者―患者の関係は、ごく一般的と言っていいのじゃないだろうか。(待たされることはまた別の問題としても)患者は医者に病名を宣告され薬をもらえば安心し、医者は患者の病気を根本から治そうとするよりは、問診と検査でどれだけ多くの病名をつけるかに血道をあげる。
 ところがこの先生は、医は仁術という姿勢でやっていたんじゃお金にならない、算術と割り切ってこそ患者は途切れなくやってくるという仕組みに疑問を持ち、新しい「仁術」の医者を目指す人なのであった。そしてたどり着くのが、
「形のないもの、理解できないもの、目に見えないものにこそ本当の価値はある」という確信。
 医者が、ですよ。難しい理科や数学のお勉強をして医学部に合格し、国家試験をパスし、最新の知識と機器とで人間の体を切った貼ったする医者が、ですよ。養老孟司がどこかで言っていた。今の医者は生身の体ではなく、数字(検査値)を見ている。そして検査値を正常値に戻すためにさまざまな治療を行うのだ、と。数値こそ絶対、が現代の医療だとしたら、その対局にこの医者はいる。
 彼がそのような確信を得るのが、そこはいささかドラマチックでさえあるが、先天性失語症の息子とそれがもとで心の病に冒された妻の存在だった。難病を治す医者でありながら、家族は不治の病という皮肉。その無力感、絶望。しかし妻と息子は、苦悩する自分の前でいつもニコニコと笑っているのだった。そのことが彼に、彼らは自分たちが病気とはつゆほども思っていない、彼らの病気に鬱々としていた自分自身の心こそが病気だった、と気づかせる。
 そして、病気は病人自身が「つくる」もの、本人が「治そう」と意識した病気しか治らないのだという、明快な真理に至る。それが彼の「気づきの医学」へとつながっていく。
「病気でもなんでも、ちょっとの間忘れて、楽しいことをしたらいいんです」
 というのがこの人の持論。こんな辛い病気を抱えてなんの楽しいことがあるか、と訴える患者にはキツイ一発をかます。
「今、楽しいことを考えられないのなら、明日もあさっても考えられませんよ。今、笑えなければ、永遠に笑えないですよ」
 ひやりとする一言だが、同時に、病を抱えている人にはどれほど前向きで、心強い後押しであることだろう。
 とにかくこの先生、好奇心旺盛というのか、研究熱心というのか、動き回り、突っ走る。サイババに会いにインドまで乗り込むかと思えば、未知のセラピーも果敢に治療に取り入れる。そうやって、実地で、肉体で、真実をつかんでいく人なのだろう。「体育会系医師」と呼びたい。
「病は気から」とは相当言い尽くされた言葉だけれど、その正しさを、論理的かつ具体的に証明したのがこの本である。やりたいことをやって楽しい間は、痛みや辛さは忘れている→ストレスも溜まらず心地よい→自然治癒力を活性化させ、症状を改善させる。この単純明瞭な図式があれば、病気なんかこわくない。冒頭で紹介した私の友人の精神を、病気になろうがなるまいが、持ち続けていればいいのだから。
 病気とは、健康の一つの断面にすぎないと知った瞬間から、病気を治すのではなく、命を取り戻すのだと確信した瞬間から、病気は逃げていくのだ。なんと心強い。
 ところでこれを書いているいま、どうも熱っぽくて体がだるいのだけれど、そうだ、楽しいことを考えよう。書き終えたら、冷蔵庫のチーズをつまみにお気に入りのワインを開け、寝転がってビデオでも観るとするか……。

「体育会系医師」の心強い治癒レシピ 書評家 広谷鏡子