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 卵を割ったら、黄身に血がついていた。
 ニュ−スでは新潟の女性監禁事件の続報が流れている。「発見された時この少女は、もう家はないかもしれない、と心細げに語ったそうです……」とレポ−タ−が芝居がかった声でしゃべっていた。
 母親がそれを見ながら「かわいそうにねえ」と言った。兄の洋一が起きてきて新聞を広げながら「やっぱり男にヤラれちゃってんのかなあ」と呟いた。
 マキは黙ってリモコンでチャンネルを変えた。
 なぜか、この事件の報道を聞いていると寒気がしてくるのだ。怖い。あまりにも頻繁にテレビで報道されるからだろうか。昨晩も夢に出てきた。夢の中の恐怖が肌に残っている。現実に戻っても夢のリアルが体に残留している。たとえ夢がバ−チャルであっても、夢の中ではまぎれもない現実なのだ。

「行ってきます」
 と言って食卓を立つ。母が慌てて玄関先まで追ってきた。
「具合でも悪いの? 元気ないわね」
「別に」

 9歳の少女が拉致されて9年間監禁された。この事件は遠い新潟で起こった。東京に住んでいる14歳のマキには関係がない。それなのに、なぜか自分に起こったことのように感じる。それがなぜなのかマキにはわからない。自分と事件との境界が曖昧になる。事件が自分の中に漏れてくる。嫌な感じだ。

「おはよ」
 背中を叩かれた。同級生のアユミだった。
「どしたの、元気ないじゃん」
「なんかね」
 アユミはマキに歩調を合わせて並んで歩き出した。
「アタシもこのごろ寝覚め悪くてさ」
「へえ?」
「変な夢を見るんだよね」
「ふうん。どんな夢?」
「それがさ、はっきりとは思い出せないんだけど、ほら新潟で9年も部屋に閉じこめられてた女の子いるじゃん? あの子の夢みたいなんだよね」
 マキは思わず足を止めた。
「アユミもなの?」
 アユミが驚いてマキの顔を見る。マキの目が異様に見開かれている。
「私もなの。私もその夢、見るの」

 それが始まったのは、事件がテレビで報道されてからすぐだった。
 普段のように友達としゃべったり、家族で食事をしていたりする。そういうありきたりな日々のありきたりなひとコマのなかに、さっと、瞬間的な映像が挿入されてくる。
 最初はそれが何なのかわからなかった。気にとめもしなかった。浮かんでは消えるイメ−ジの断片のようだった。ところが、挿入されてくる異物がだんだんとはっきりしてきた。それは誰かの目を通して見たどこかの風景だ。
 もちろん、あまりにも瞬間的なのでその映像を追うことは難しい。だけど、自分の日常とは明らかに異質なものだ。だから、消えた後もどんよりとした不快感を残すのだ。
 暗い板張りの部屋、バリバリと不気味な音で火花を散らすスタンガン、饐えた臭いのする毛布……、その毛布の穴から見える薄汚れた天井。
 最初は無意味な映像だけがひらりと通り過ぎるだけだった。ところが、日を追うにつれてそれは夢に侵入してきて、よりリアルになった。
 明け方ふと目を覚ます。するとひどい絶望感が込み上げる。
「もう家に帰れない。もうお母さんに会えない」
 そんな思いが溢れてきて、マキは一人で泣いた。なぜこのような理不尽な感情を自分が抱いてしまうのか、まったく見当もつかなかった。
 その頃から、テレビで監禁事件の報道を聞くと気分が落ち込んだ。名状しがたいやるせない思いが体の芯を貫いていくのだ。
 いったい自分に何が起こっているのだろう、とマキは不思議に思った。でも、14歳のマキには、まだ自分の内面と社会で起こっていることの境界が曖昧で、それを客観的に見据えることが困難だった。

 マキとアユミは自分達の体験を語りあった。
 似てはいるけれどすべて同じではない。だが、それが新潟の監禁事件と関係があることは確かみたいだった。
「もっと他にも同じ体験をしてる子がいるかもしれない」
 携帯のEメ−ルを使って呼びかけると、思った通り、彼女たちの他にも似たような体験をしている少女たちが現れたのだ。みな13歳から15歳にかけての少女たちだった。
 その中の一人は訴える。
「苦しくて苦しくてたまらない。朝、目が覚めるといつも泣いているの。なぜ自分がここにいるのかわからない。家に帰りたい。お父さんやお母さんに会いたい。怖い。寒い。そう思って泣いているの。母親は驚いて私をお医者さんに連れて行くと言っている。私は頭が変なんだろうか。でも悲しいの。苦しくてたまらないの。涙が止まらないの」
「変なんかじゃないよ。会おうよ。みんなで会おうよ。みんな同じ体験をしてる。だから会おうよ。会って、そしていっしょに考えようよ」

 都内の診療内科には、親に連れられた少女たちが押し寄せていた。
 症状はどれも同じだった。監禁事件の報道を聞いてから、自分が監禁されたような奇妙な幻覚に陥る。感情が昂ぶり、深い絶望感のために引きこもる子も出てきた。
 診療に当たった医師は「思春期の集団ヒステリ−」と診断した。
「思春期の感受性の鋭い少女たちは、まだ自我が確立していないため、ショックな出来事に触れるとあたかも自分に起こったことのように感じてしまうのです。それが連鎖反応を起こし、しまいには集団ヒステリ−状態になるわけです。一時的なものです」

 3月のとある日曜日。マキの呼びかけで少女たちは代々木公園に集まった。
 10人ほどの少女たちが来ていた。集まった少女たちは思い思いに自分の体験を語った。多少の違いはあるものの、ほぼ全員が監禁された少女の心象風景を追体験しているようだった。
「どうして、知らない映像が見えたり、それから自分では体験していないことで苦しんだり悲しんだりしてしまうんだろう」
 それが少女たちの疑問だった。
「私ね、思うんだけど。テレビで報道されているのを聞いて、それがあまりにショックだったから、まるで自分のことのように錯覚してしまったんじゃないだろうか。だって、私ね、テレビで聞いた部屋の様子は見えるけど、自分が知らない女の子の顔は出てこないんだよ」
 マキがそう言うと、他の少女たちも頷いた。
「私もそう。女の子の顔はわからない。まるで女の子の目を通して見えるみたいにしか、周りの様子が見えない」
「臭いとか、音も感じる時があるの。すごく嫌な臭い。おしっこみたいな。それから、音。人を殴っている音が床下から聞こえてくるの。とても怖い」
「眠ってて目が覚めると、ああよかった。あれは夢だったんだ、って思う。夢でよかったって。でも、夢の中では違うの。夢の中で目が覚めると、汚い毛布にくるまって寝てるの。暗い部屋で、いったい何時なのかもわからない。いつなのかもわからない。ああこれは夢ではなかったんだって思うの。がっかりするの。とても悲しいの」
「こんなにはっきりとした思いが、本当にただの錯覚なのかしら?」
 誰かの言葉に少女たちは黙った。
 ただの錯覚でないとしたら、いったい何なのか、わからない。自分たちの心が新潟の少女の心と繋がっているのだろうか。だとしたらそれは何のために?

「あの子、本当に怖かったんだね、辛かったんだね」
 アユミが呟いた。
「そうだね」
 それぞれに頷いた。それから、みなしくしくと泣いた。自分達がなぜ泣いているのかすらわからない。でも、無性に悲しかった。悲しくて悲しくてたまらなかった。苦しくて、せつなくて、どうしようもなかった。だから泣いた。いつしか抱きあって、お互いをいたわりながら泣いた。涙がとめどなく流れた。自分が壊れてしまいそうなほど悲しかった。だから必死で泣いた。
 泣くと、なんとかこの現実に留まっていられるような気がした。
「あたしが悲しんだら、あの子の悲しみは減るのかな」
 誰かが聞いた。そうならいいと思う。でも、そんなことは誰にもわからなかった。

 精神科医の言った通り、この現象は一過性のものだった。

 事件の記憶が薄らぐとともに、少女たちの不思議な悪夢も終わった。去来していた恐怖や悲しみも消えていく。ゴ−ルデンウィ−クが始まる頃には、マキもアユミも何事もなかったかのように普段の暮しを取り戻していた。

「早く、御飯を食べなさい」
 と母親がキッチンからせかしている。
 マキはコ−ンフレ−クを噛みながら、ぼんやりとテレビを観ている。テレビの向こうでは、保険金欲しさに子供を殺した女の裁判が報じていた。
「○○君は、母親の手によって何度も何度も冷たい海に顔を沈められたのです……」
 一瞬、視界が青くなる。冷たい冬の水底が脳裏をよぎる。

 あたしが悲しんだら、あの子の悲しみは減るのかな。
 ふと、マキはその言葉を思い出した。
 悲しみの意味を、誰も教えてはくれなかった。

 薄っぺらい鞄を抱いて立ち上がり、マキはぷつんとテレビを消した。

 END.