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 彼女は、今日も慎ましやかに僕の前に座っている。
 久しぶりに「もんじゃ焼きが食べたい」と呼びだされた。月島の小奇麗なもんじゃ焼き屋で、僕は彼女のために大汗をかいてもんじゃを焼いた。
「君って、こういうこと上手よね」
 その神々しくも眩い笑顔を見るたびに僕の胸は痛むのだ。彼女は僕が一番大好きな女友達だった。そして、彼女にとって僕は、たぶん一番ではない。二番でもない。三番でもないだろう。そのことを僕は何年も前から悲しく諦めていた。初めて大学のキャンパスで一つ年上の彼女を見つけた時から……諦めているつもりだった。

「赤ちゃんができたの……」
 そう言ってから、彼女はふうふうと熱いもんじゃを口に含んだ。
「え……?」
 一瞬僕は混乱する。赤ちゃん?犬に?猫に?それともまさか彼女に?。
「来月、大急ぎの結婚式。おなかの突き出た花嫁さんなんてかっこ悪いでしょ?」
 頭の中にあまりにもたくさんの考えが駆け回って、いろんな思いや、それから思い出なんかが一瞬のうちにフラッシュバックして、僕はその後ほとんど彼女の言葉を理解できなかった。こんなことがいつか訪れることはわかりきっていたのだけれど、それはたぶんまだ先で、僕はもう少しの間だけ、彼女とほのかな交流を持ちつづけることができるだろう……なんて自分勝手に考えていたのだ。
 結婚式でカメラマンをしてほしい、と彼女は照れ臭そうに僕に言う。もちろん、僕が彼女の頼みを断るわけはない。今までだって。そしてこれからも永遠に、僕は彼女の唯一の家来だから。
「結婚してからも話し相手でいてよね!」
 と、彼女は別れ際に言った。異存はなかったが心がずきんと傷んだ。確かにこれまでも僕は彼女の話相手で、困った時の助っ人で、それでしかなかった。彼女が結婚しようと、この関係にさしたる変化などあろうはずもない。
 だけど……彼女が僕を愛さなかったことを許せても、他の男を愛することに、僕は堪えていけるんだろうか。

 彼女が去った後の、やりきれない午後の日差し、ものうげな夕暮れ。僕は石になってしまいそうだった。結局、僕は彼女に何一つ告げず、一人で恋をして失恋したのだ。怖かった。彼女に気持ちを打ち明けたら、彼女は去って行ってしまうと思った。そして、その思いは今も消えていない。僕は彼女に愛される自信がまるでない。

 そして、僕を打ちのめしたのは、僕が、あんなに好きだった彼女を、今、少しだけ恨んでいることだった。なんてことだ。すべては僕の都合であるのに、僕は、逆恨みのように、彼女を恨めしく思っている。彼女はちっとも悪くないのに。僕は最低の男だ。

 

「お若い方、早まったことを考えちゃいけません」
 気がつくと僕は、運河の暗い流れを見つめていた。見たことのない場所、あたりは、東京とは思えないほど暗い。僕に声をかけたのは、那須紺の地に千鳥の型抜きのゆかたを着た小男だった。彼は右手に三味線を持ち、豆絞りの手ぬぐいでほっかぶりをしていた。

「たとえ死ぬ気はなくっても、そんなに川を見つめていると引き込まれてちまいますよ」
 そう言って男はへっへっへと笑った。男の口がほら穴のように黒く開いたので、僕はちょっと怖くなった。
「まあ、よかったらそのへんで一杯やりましょう」
 男はそう言って、ひたひたと歩いていく。僕は催眠術にかかったように彼の後をついて行った。
 湾岸の工業地帯のような場所だった。タンカー船のシルエットが水銀燈に照らしだされ、油臭い運河の水が月を映している。生暖かい夏の宵だ。かすかに潮のにおいがした。男は堤防の階段をひらりひらりと降りると、泊めてあった小さな釣り舟に飛び乗った。そしておいでおいでをして僕を呼んだ。
 僕がよろけながら舟に乗り腰を下ろすと、男は酒瓶を取り出して、湯のみ茶碗にあふれんばかりに酒をつぎ、僕に差し出した。湯飲みの茶碗の中に満月が揺れた。僕は月もろともいっきに酒を咽に流し込んだ。

「舞え舞えかたつむり、舞わぬなら、殺してしまうぞ、殺してしまうぞ」

 男が三味線を弾いてなにやら歌い出した。
「なんですか、その歌は?」
「梁塵秘抄だよ」
 男が奇妙な節をつけておどけて歌うので、つられて僕も手拍子など打ってしまった。手を打つたびに舟がぎいぎいと揺れた。
「眉間の皴」
 と、男が歌を止めて言う。
「え?」
「その皴が、くせものだ」
 そう、僕は眉間に皴を寄せる癖があった。
「嘘つきの顔には皴が寄る」
 男はそう言って笑った。
 そんなことはない、と僕は心の中で思った。
「今、そんなことはない、と思ったろ?」
「え?!」
「でも、口に出して言わない。思ったことを飲み込むから皴になって不満が現われるんだよ」
 ぎいいと男は大きく櫂を振る。
「思ったことをなんでも言葉にしたら、世の中を生きていけないです」
 男は不思議そうな顔をした。
「そうなのか?」
「だって、そんな自分に都合のいいことばかり言っていたら、まわりから嫌われるじゃないですか」
「嫌われたら困るのか?」
「嫌われるのは、嫌だな。できれば誰とでもなかよくやっていきたいと思うよ」
 男はため息をついて、べべんと三味線をかき鳴らした。
「俺は三味線が好きだ。こいつを弾いているときは、嫌なことも、辛いことも思い出しもしねえ。三味線が俺になってしまう。俺はもっともっと三味線がうまくなりたい。それが俺だ。俺が三味線うまくなるのに、他人は関係ない。俺と三味線がいればいい」
 男は三味線を愛おしそうに撫でた。
「でも、それじゃあ寂しくないかなあ」
「寂しくない。三味線がひけなくなったら俺、死ぬ。今はひけるから寂しくない」
 妙に真に迫ってそう言うので、僕はなぜか反論できなかった。
「うらやましいよ、僕には三味線がないんだ……」
 僕には何があるのだろう。僕には彼女がいた。かつて彼女がいた。でも、僕はもう彼女には必要のない人間になったんだ。かつて必要だったのかどうかもわからない。僕は必要になる可能性すらなくなってしまったことがひどく悲しい。誰からも望まれずに生きている僕はなんだろう。
「僕には、もう何ひとつ残っていないよ……。それなのになんでここにいるんだろう……」
 ひどくせつない気分になって、ふいに涙がこぼれた。人前で泣くなんて情けないと思ったけど、彼女を失った悲しさが突然僕に襲いかかってきて、僕はその感情を理性で押しとどめることができなかったのだ。

 男は黙って舟を漕ぎはじめた。舟は泣いている僕を乗せて、滑るように流れていく。運河を下り、二つの橋をくぐると、海に出た。東京湾をさらに漕いでいくと、東京タワーの明かりが揺らいで見える。男はさらにさらに舟を漕ぎ、ずいぶんと沖まで出たようだった。

 月が頭の真上に出ていた。

 男は再び三味線を弾きだした。三味線の音色は力強く、舟を振動させ、僕の体にまで伝わってきた。それは空と海を越えて果てしなく世界を満たし、僕はただその音の中に翻弄され、音の中に身をゆだねた。月と夜と波、それらは完成された大いなるバランスだった。そこに存在する僕も、そのバランスのなかのひとつの小さな点だった。月の光がゆっくりと降りそそいできて、男の姿を銀色に照らし出す。旋律が変わって、もの悲しい静かな声で、男が三味線に合わせてなにか歌っている。僕は舟の上に寝そべって、男の顔を見上げながら、頭上にほの白く輝く月の光を全身に浴びた。月の光はひんやりと冷たかった。
「楽しいかい?」
 と男が僕に聞いた。
「うん」
 と僕が答えると、男は大変うれしそうにうなずいてこう言った。
「あんたは、ちゃんと、そこにいるよ」
 一瞬、男の頭上に、月の虹がかかったのを、僕は確かに見た。

 目が覚めると、僕は薄汚れた運河に浮かぶ、一艘の舟の上で眠っていた。小男の姿はなかった。湯飲み茶碗が二つ、船底に転がっていた。
 よろよろと起き上がってから、海沿いの工業道路をあてもなく歩いた。たぶん、明け方5時ごろなのだろう。はっか色の空気があたりを満たしていて、僕は思わず深呼吸した。
 僕は、歩きながら、さきほどまで見ていた夢について思いをめぐらせた。
 奇妙な夢なのだ。夢の中で、僕は彼女のおなかの中にいる赤ちゃんと出会うのだ。彼女の赤ちゃんはたいそう悲しんでいる。
「あなたは、私が生まれて来なければいいと思っているでしょう?私を望んでいない人がいるのが悲しいの」
 そう言って。小さな赤ちゃんは泣きじゃくるのだ。僕は困ってしまう。だって、赤ちゃんが出てこなかったら、彼女はたいそう悲しむだろうから。
 僕は赤ちゃんにいっしょうけんめい語りかけている。
「お願いだから、生まれてきておくれ」
 そして僕は夢の中で赤ちゃんに伝えている。脅えもなく、てらいもなく、ただ真っすぐに伝えている。
「生まれておいで。僕は、君のことが心から大好きだよ」

END