縁切り神社









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 京都の町をそぞろ歩いていたら、奇妙な神社に迷い込んだ。
「安井の縁切り神社」という看板が出ている。
 なんだろうと思い、赤い鳥居をくぐって境内に入っていくと、玉砂利を敷き詰めた細長い空間に、ぎっしりと無数の絵馬が並んでいた。

 絵馬を吊るす棚がずらりと奥まで続く。その木枠に鈴なりにさまざまな絵馬がくくり付けてある。たくさんありすぎてなんだか不気味だった。
 さらに近寄ってみる。
 神社によくある絵馬は、合格祈願や家内安全祈願がほとんどだ。書いてある文字も「○○大学に合格しますように」「家族が健康で長生きできますように」というありきたりなものである。
 ところが、ここ縁切神社の絵馬は様相が違った。

 最初に目についたのは、女子高校生の三人組がそれぞれに書いたらしい三枚の絵馬だった。同じような丸い文字で黒の太めのサインペンが使われていた。

『2年B組の秋山美佳との悪縁が切れますように』

 三人とも同じ文面だった。それが三枚並んで吊り下げられていたのだ。
「なに、これ?」
 私はぞっとして思わず唇を押さえた。陰湿だと思った。ひどい悪意を感じた。
 次の絵馬を見る。

『工藤麻衣子が村田芳樹と早く別れてくれますように』

 工藤麻衣子という文字にわざわざ赤の波線を引いている。その波線の乱暴な描き方に、彼女を憎々しく思う気持ちが表れていた。
 この子は村田芳樹に片思いしているのだろうか。そして、工藤麻衣子を恨んでいるのだろうか。
 いや、もしかしたら工藤麻衣子に村田芳樹を取られたのだ。恋人が心移りした腹いせに、縁切り神社に願をかけているのかもしれない。

『石田沙知代、俺と別れて幸せになれると思ったら大間違いだ! 堕ちろ』

 これは男名だった。こんなところに絵馬を奉納して恋人の不幸に願をかける男なんてロクでもない。沙知代さんは別れて正解だと思った。
 どの絵馬もどの絵馬も、すべて『縁切り』祈願だった。そこには男と女のどろどろの凄まじい執念が渦巻いているようだった。
 私は、どこか肌寒くなりながらも、端っこから丹念に絵馬を眺めていく。京都の整然として美しい町並みのど真ん中に、怨念の捨て場のような場所があるとは思いもよらなかった。嫌悪しているのに立ち去れない。このように大量の露骨な悪意に接したのは生まれて初めてだと思った。不気味だけれど、もっと覗きたいと思ってしまう。

 数枚のスナップ写真が絵馬といっしょに束ねられていた。生写真である。目だけが犯罪者のように黒線で消してあるが、知っている人が見ればもちろん本人を特定できるだろう。40歳くらいの女性の写真だ。構図がおかしいのは隠し撮りしたからかもしれない。

『どうか篠田ミキと泰彦の悪縁をお切り下さい』

 写真の女性が篠田ミキなのだろうか。泰彦とは自分の夫に違いない。不倫している夫の縁切り祈願をしているのだ。わざわざ写真付きである。これでは神様も人違いできないだろう。

『息子が佐代子との悪縁を切れますように』
『三沢かずこと田中雅司の悪縁が切れて早く結婚できますように』
『ジュンとチカの縁を切ってください』
 
 絵馬に書かれた文字を読みながら、だんだんと私は重たい気持ちになっていった。人の悪意に触れると体は重くなるのだと知った。恨む心の波動がしっかりとこの絵馬に込められている。
 この境内全体が「縁切り」を望む念でぐわんぐわんと歪んでいるのだと思った。
 
 なんだか眩暈を感じた。もう帰ろうと絵馬の棚から離れかけた時に、ふと一枚の絵馬が目の端をかすめた。季実子……と書いてあったのだ。どきんとした。まさかね、と思いながらも好奇心から歩み寄って、顔を近づけた。

『水野季実子と深田拓也の悪縁が切れますように』

 背筋に悪寒が走る。心臓の鼓動が一気に高まった。水野季実子とは、まさしく私のことだ。深田拓也とは、私が1ヶ月前まで付きあっていた男の名前だった。血管が収縮し、顔が火照ってくる。膝が震えて足下から崩れ落ちてしまいそうだ。
 なぜ、と思った。いったい誰がこんなことを、と思った。
 恐る恐る、木の絵馬を手に取ってみる。祈願者の名前は書いていない。ただ、右下にM.Oというイニシャルが記してあった。右上がりの冷たい感じのする文字だ。きっちりときれいにマジックで書いてある。

『水野季実子と深田拓也の悪縁が切れますように』

 深田拓也と別れたことに特別の理由はなかった。
 拓也とはアスレチッククラブのテニスサークルで知りあった。私より一つ年下だったけれどガタイが大きく、少し老け顔だったからいつも年上に見られた。食品会社に勤務している、ごくごく普通の男だった。1年半ほどつきあって、何度かセックスもしたけれど、なんとなく相手が自分の恋人だという実感に乏しかった。
 燃え上がるような恋愛ではなかったのだ。とはいえ拓也に不満をもっていたわけでもなく、いっしょにいれば楽しかった。もしかしたら結婚というのはこういう状態の継続をいうのだろうか、とも思った。
 2ヶ月前から、拓也が私に会いたがらなくなった。誘っても理由をつけて断られることが多くなったのだ。盛り上がっていない相手とはいえ、拒否されるとなんだかざわざわとした気持ちになった。黙って去られるのは嫌だなと思った。別れるのならそうはっきり伝えてほしい。自然消滅というのは今一つ納得いかなかった。
 拓也を呼び出して「もし、もう付き合いたくないのなら、別れましょう」と言うと、拓也は素直に「わかった」と言った。何がわかったのかわからない。とにかく男は別れることに合意らしい。別れたいのは男のはずなのに、切り出したのは私だった。結果的には私が振ったような形になってしまった。
 拓也と別れたからといって、私の日常に大きな変化があったわけではなかったが、なんとなく春先から気分が塞いでしまった。こんなことでショックを受けている自分が情けないような気がした。
 季節の変り目に風邪を引いて、それが治らなくて何日も会社を休んだ。体も心も今一つ調子が悪い。すっきりしない。初夏を迎えて気分を入れ替えるために京都旅行を計画した。旅にでも出れば、少しは元気になるだろうかと思ったのだ。

 私は絵馬の前から立ち去れなくなっていた。
 誰が書いたかは知らないが、これでは自分が業の深い悪女のようだと思った。私は拓也にすがりついたこともなかったし、ましてや拓也に執着したこともなかった。別れる時も自分が言い出したほどだ。それなのに、なぜこんなふうに書かれなければならないのか、まるで納得がいかなかった。理不尽だと思った。

『水野季実子と深田拓也の悪縁が切れますように』

 えたいの知れない憎しみが心の底から沸き上がってくる。どうして私が、こんなふうに愚ろうされなければいけないのかわらない。どうにも気持ちが収まらず、私はその絵馬を剥ぎ取ろうとした。触るとびりびりと指先がしびれるような気がした。悪意が伝染してくるのだ。
 なんてことなの、と思った。別れを切り出したのは、この私なのよ。
 いったい、こんなものをここに置いた女はどこの誰だろう。その女は私のことを知っているのだろうか。知っているはずがない。もし知っていたら、こんなものを書くわけがない。私はそんな女じゃない。拓也のことなど、特に愛していたわけではなかった。いつでも別れられたし、現に後腐れなく別れているではないか。
 吊るし紐をほどきながら、私は自分の指がぶるぶると震えているのを見た。なぜ自分がこんなに動揺しているのかよくわからなかった。悔しかった。拓也には一度も未練たらしい事など言わなかったのに……。
 言わなかったのに……と思いながら、それでも私は自分が拓也と別れて落ち込んで京都に旅行に来たことを否定するわけにはいかない。飲み込んだ未練が自分のなかで消化不良を起こしている。そのことを初めて自覚した。

『水野季実子と深田拓也の悪縁が切れますように』

 本当は、拓也に女がいることは薄々感づいていた。
 付き合い始めた時から、拓也には女の匂いがしたのだ。不躾な時間に鳴る携帯電話や、ときどきキャンセルされた日曜日の約束。でも、そのことを私は決して認めようとしなかった。見て見ぬふりをしてきたのだ。だって、そんなことは拓也の問題であって、私の問題ではないからだ。拓也が何も言わない以上、私には関係ない。だから、自分以外に女がいるのかもしれないと感じることがあっても、私はそれを無視した。問い詰めたことも、話題にしたこともない。存在しないものとして扱った。その消され続けた女が今、突然現れて、そして私を呪っているのだ。

『水野季実子と深田拓也の悪縁が切れますように』

 そういえば、初めて拓也と寝た時に、私はふと思った。「勝った」と。何に勝ったのかわからない。とにかくそう思ったのだ。それはもしかしたら、拓也が隠している影の女から拓也を奪ったという満足感だったのかもしれない。もしそうだとしたら、ここでこうして出会うずっと前から、M.Oという女と私は出会っていたのだ。

 それから私は思った。もし、拓也が別の女のために私と別れたとしても、その相手はM.Oではない、と。この女は私が拓也と会う前に付き合っていた女だ。そんな女とよりを戻して私を捨てたのではないと確信できた。拓也はさらに新しい女と出会ったのだ。だから、M.Oは、また新しい絵馬を書かなければならない。かわいそうな女。あなたは二度と拓也には振り向かれない。

 ふいに、拓也に電話してやろうと思った。ひどく覚めた気分だった。くだらない男だ。こんなふうに女をもてあそんでいたのだ。それほどの男でもないくせに傲慢すぎる。少し傷つけてやったっていいのだ。気を使いすぎだ。私は自分がものわかりが良すぎたと思った。

 境内の隅のベンチから、携帯電話をかけた。京都と東京はすぐ結ばれた。5回目のコールで拓也が出た。この携帯には2度と電話することがないと思っていたのに、運命は皮肉だ。
「季実子です」
 私は忽然と言った。
「どうかしたのか?」
 拓也は少なからず驚いたようだった。
「M.Oさんに会ったわ」
 私はそう言って笑った。
「彼女がいたのに、なぜ私と付き合ったの?」
 沈黙が流れた。
「ふざけるなよ」
 ようやく拓也が言った。
「ふざけてなんかないわ。それはこっちのセリフだわ」
「真由美のことをどこで知った?」
 M.OのM は真由美らしい。
「京都で偶然会ったのよ」
 すると拓也は押し殺すような声で呟いた。
「真由美に会うわけがない。あいつは死んだんだ」
「うそでしょ」
「うそじゃない。2ヶ月前に、交通事故で死んだ。酔っ払い運転の乗用車にはねられて即死した」
 背筋がぞっとした。すぐに言葉が出なかった。頭が混乱する。
「だから、だから私と別れたの?」
 私の質問には答えない。沈黙の背後に駅の雑踏が聞こえた。
「別れようと言ったのは、季実子だろう?」
「だってそれはあなたが、別れたそうだったから……」
「俺の気持ちを確かめもしないでそう思ってたのか?」
「あなただって、簡単に別れたじゃないの」
 拓也はため息をついた。
「好かれていないと思ったんだ」
 びくりとした。
「どうして?」
 なにをとぼけているんだろう。拓也の言葉の意味を私は知っている。
「わからない。ずっとそんな気がしていた」
 男に冷たくしてた。自分から好きになりたくなかった。
「馬鹿みたい」
「そうかもしれない」
 好かれる女になりたかったんだ。
「わけわかんない」
「俺もだよ」

『水野季実子と深田拓也の悪縁が切れますように』

「真由美さんとはどれくらい付き合ってたの?」
「季実子と出会った後、すぐ別れた」
「それっきり?」
「それっきりだ」
「なぜ、真由美さんと別れたの?」
「くだらないことを聞くなよ」
「どうしてくだらないの?」
 ひどくぶっきらぼうに男は言った。
「オマエのことが好きだからに決まってるだろう」
「私、そんなこと初めて聞いたよ……」
 ついに言わせた、と気持ちが喜んでいる。そんな自分が情けなかった。

『水野季実子と深田拓也の悪縁が切れますように』

 社務所で火を貰って、私はM.Oの絵馬を燃やした。
 若い宮司に、この人は亡くなって水野季実子は私だと告げたら、小声で「あそこで燃やしなさい」と教えてくれた。
 現世に残っていた怨念を灰にして空に届けた。
 真由美という女性は、心から拓也を愛していたのかもしれない、と思った。私よりずっとずっと拓也を思っていて、死んだ後、彼女は本当に私と拓也の「悪縁」を切ってくれたのだ。
 お互いを信じない縁は悪縁である。ずっと拓也を疑い、愛そうとしなかった。そして確かに、悪縁は切られた。祈願通りだ。
 自分が傷つくことばかり怖れて傲慢だった。真由美という女性に恨まれても当然だ。
 社務所で新しい絵馬を買って、祈願を書いた。

『神様、どうか高慢な私の心を切ってください。まっすぐに人を思う心を戻してください』 

 書いていたら、急に泣けてきた。

END