どぜう、泣く









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 冷房のきいた地下鉄の匂いは、いつも私を10年前にワープさせる。
 匂いって、五感の中で一番人間の記憶を呼び覚ます感覚なんだって、誰かが言っていた。鼻の頭にも脳があるんだって。鼻の頭の中にある脳は特殊な記憶とだけ結びついているんだって。鼻の頭に脳だって。そんなのウソだと思う。でも、ちょっとカルキ臭いような冷房車にぼんやりと座りながら、私はまた、考える必要もないのに、考えたくもないのに三樹彦のことを考えていた。
 10年という時をへだてながら、夏、地下鉄、三樹彦は、私の中で少しも色褪せない記憶のトライアングルだ。

 二人で地下鉄に乗って、後楽園遊園地に行った。うだるような暑い日だった。
 三樹彦は私にたくさんの約束をしたけど、実行されたのはたった一つ、あの夏の遊園地。
 口ばっかりの男だった。当時、三樹彦は大学生で、私は美容師の見習い。たまたまアパ−トの部屋が隣同士で、最初に声をかけてきたのは三樹彦だった。それから時々、近所のコンビニで出会って、最初に好きになったのは私だった。
 慶応の学生だった三樹彦に、私はすぐにのぼせあがって、そして、三樹彦は私にたくさん約束した。早慶戦に連れてってやるよとか、伊豆の海でダイビングしようなとか、志賀高原の友達の別荘にスキ−に行こうとか……。早慶戦もダイビングもスキ−も私には別世界のことだった。
 それらの約束はどれも果たされなかった。私は忙しすぎたし、それに、お金もなかった。ただ、二人で真夏の遊園地に行った。その時の地下鉄の匂いが、なぜか忘れられない。

 私はいつものように空想をめぐらす。もう一度、三樹彦と再会して、それから今度は私のほうが手ひどく、徹底的に三樹彦を捨ててやるんだって。そんなことを、夏の地下鉄に乗るといつも思う。もう10年も経っているのに。いまだに男に仕返しする妄想が蘇る。

 地下鉄が浅草駅に着いた。
 私ははっと現実にもどり、あわててホームに飛び降りた。いつも三樹彦を思い出したあとはとてもバツがわるい。
 「何考えてんだか、私ときたら」
 と、独り言なんか言ってしまう。こんな執念深い女だったんだろうか、私は。そんなに好きだったんだろうか、あんなつまんない男を。捨てられたから思い出すのだろうか? それとも、まだ未練があるんだろうか……もう10年も昔のことなのに。わからない。匂いにふちどられた記憶の根拠は、なぜかとても曖昧なのだ。

 浅草駅から雑踏を歩く。プリントアウトした地図を片手に「駒形どぜう」を探す。
 なんだって真夏に「どじょう」なんか食べるんだろう。クソ暑い。誰が幹事か知らないが、とにかくオフ会の会場は「駒形どぜう」に決まってしまった。
 インタ−ネットのオフ会というのは、こういう変な店がよく指定される。ウケ狙いなんだろうか。この間は新宿のヴェトナム料理だった。
 パソコンでチャットにはまるようになったのは半年前からだった。オフラインでチャット仲間に会うのはこれで三度目になる。パソコン上では顔が見えないから、誰の顔も知らない。ドキドキする。久しぶりの外出だ。結婚して専業主婦になってから、飲みに行くことがなくなってしまった。もちろん、男の人と出会う機会もなくなった。
 バ−チャルなチャットの世界で、私は女学生みたいに男達からチヤホヤされて、忘れていた女を呼び覚ました。30歳の自分は、まだ女として現役なんだろうか。自分のことを試してみたくてオフ会に出始めた。年は2歳ごまかして28歳と言っている。なぜか三十路と思われたくない。

 駒形どぜうの階段を登り、仲居さんの案内で個室に足を踏み入れたとき、私は本当に、咽から心臓が飛び出してくるくらいびっくりした。
 だって、そこに並んだ5、6人の顔の中に、あの三樹彦の顔があったんだもの。
 最初は、目の錯覚かと思ってしまった。だって三樹彦とチャットなんて、全然結びつかない。一瞬血、身体に電気が走って頭が痺れた。思考停止。それから、私はもう一度、気を取り直してゆっくりと三樹彦を確認した。それは確かに、まぎれもなく、私が地下鉄に乗るたびに、百万回も思い出し続けたその男に他ならなかった。

「三樹彦くん……?」
「のりちゃん?」
 三樹彦もあっけにとられてる。
「信じられない……」
「俺も……」
 やだ、私、喜んでる。
「元気そうだねえ、ちょっと太ったみたいだけど」
「う、うん。元気元気。いやあ、でもびっくりしたなあ。まさかこんなところでのりちゃんに会うとは思ってもみなかったよ。本当にびっくりした。変わってないよね、のりちゃんは。10年前のまんまだ」
「あたしだってびっくりしたよお。ねえねえ、なんてハンドルで出てるの?」
「あ、俺、ミックっていうんだよ。のりちゃんは?」
「え〜っ、ミックって三樹彦くんだったのかあ、私はねNORI」
「そっか、NORIってのりちゃんだったのかあ。チャットって顔が見えないからなあ」

 私たちが知り合いなのを知って、隣の人が席をあけてくれた。
 私は三樹彦の右隣に座りながら、あんなにあんなに恨んでいた男の脇に座って、妙にうきうきしている自分に居心地が悪かった。
 どぜう鍋が運ばれてきて、お酒がつがれて、幹事が挨拶して、それから自己紹介が始まった。私は隣の三樹彦ばかりが気になる。自己紹介、どうすべきか。年は言えない。三樹彦は私の年を知っている。ごまかしたらバレてしまう。職業は……。
「のりちゃん、結婚してるの?」
 と、三樹彦が突然聞くものだから、私は思わず「ううん」って嘘をついた。なんで、嘘つくんだろ、私。結婚してるのに。7つ年上のコックの夫といっしょになって、今とっても幸せだよ、ってなんで言えないんだろう。
「三樹彦くんは?」
「あ、俺はようやく去年ね」
 つんって胸が痛んだ。嫌だ嫌だ。なんで胸なんか痛むんだよ。バカ。
「そっかあ。おめでとう」
 おめでとう、って言いながら、私は10年前のことを、またしても10年前のあの事件を思い出していたんだ。

 10年前に、私はこの男とたくさんセックスして、そしてあたりまえのことなんだけど、妊娠したんだ。私が20で、三樹彦は23だった。つわりがひどくって、私は研修先の美容院で吐いてばかりいた。そしたら先輩の美容師から早く病院に行けって言われた。
「できたんだよ、馬鹿」
 そう言われてやっと自分の状態を認識するほど、本当に私は馬鹿だった。
 私はしかたなく産婦人科に行ったんだ。そしたら、白髪のおじいちゃん先生が、
「四ヶ月に入ってますよ」
 ってにこにこしながら言うのだ。嫌だ。私は子供なんか欲しくもないし、お母さんになんかなりたくもないって言ったら、そのお医者さんは私のおなかの中を見せてくれたのだ。モノクロのテレビ画面に勾玉みたいな形の生き物がぼんやりと映し出されて、ときどきひくひくとうごめいていた。それは、確かに私ではない生き物で、おなかの中の異物で、私にとっては迷惑な寄生虫みたいなもんだった。私はためらわずにその病院に入院申し込みをして、父親の欄に三樹彦の名前を書いた。

「妊娠しちゃった」と告げると、三樹彦はひどく動揺して「いつの時?」と、何度も聞いた。それから「ごめんごめん」と言いながら お金だけは渡してくれた。
 おなかの子供はすでに大きくなっていて、私は手術のために1週間入院したけど、三樹彦は一度も見舞いには来なかった。
 ようやく退院した日、三樹彦は部屋で寝ていた私のところにやってきて、私を見てぽろぽろと泣いたのだ。そしてこう言った。
「こんなことになってしまって、申し訳ないって思っている。だけど、俺はどうしてものりちゃんとは結婚できない。君のことは好きだけど、愛していないんだ」

 好きだけど、愛してない。彼はそう言った。

 私は40度の熱を出して3日間寝込んだ。

 駒形どぜうは、異様な盛り上がりを呈して、たくさんの人が私のコップにビールをついでくれた。だけど私はたった一つのことしか考えていなかった。10年前の私の痛みをほんのちょっとでもいいから、この隣の男にも味あわせてやりたい。このまんまじゃ、私があんまりかわいそうって。
 三樹彦は、私に内緒でこっそりと引っ越して住所を変えてしまった。そして、10年の後、今、私の隣に座っている。

「のりちゃんは結婚の予定はないの?」
 三樹彦がビ−ルで赤い顔を私に向ける。結婚していない、とウソをついてしまった手前、さらにウソの上塗りをすることになる。
「え? ああ。たぶんね来年の春には式をあげる予定なんだ」
 なんで結婚していない、って言ってしまったんだろう。こんな嘘、くだらない。
「ええ? 本当に? そりゃあよかった。俺はね、ずっとずっと君のことが気になってたんだ。のりちゃんのことを思い出すと申し訳なくて、いたたまれない気持ちになってたんだよ。のりちゃんが結婚して幸せになっててくれたら、どんなにいいだろう、どんなにうれしいだろうってずっと思ってたんだよ」

 男の能天気な言葉に、ぶつっと、鈍い感覚でこめかみの感情線が切れた。

 いたたまれない気持ちになってたんだよ。
 君を好きだけど、愛してないんだ。

 気がついたら私は男の頭にだばだばとビールをぶっかけていた。

 周りの男たちが茫然とそれを眺めていたけど、私はやめなかった。ようやく、誰かが私の手からビール瓶を取り上げてくれた。三樹彦は私を見つめて黙ってビ−ルをかけられていた。私はどんな顔してたんだろう。自分では笑ってるつもりだったけど。もしかしたら泣いてたかもしれない。

「気がすんだ?」
 無表情に三樹彦が言う。
「こんなんですむわけないでしょう」

 好きだけど、愛してない。この言葉は10年間棘のように私に刺さって、私の人生
を嘖んできたのだ。

「10年前、あたしは本当に傷ついたんだよ」
 すると三樹彦が言った。
「何に?」
「とぼけないでよ、自分のしたことを忘れたの?」
 少しの沈黙の後に男は呟いた。
「10年前、俺は、君に愛されたと感じたことは一度もなかったよ」
 あ……。

 身体の力が一気に抜けちゃった。
 そうかあ、あんたは知っていたんだ。私の嘘を知っていたんだね。
 なんてこった。せっかくあんたの子供だったと思い込んで、10年間恨み続けてきたのに。
 私はついに知らなきゃならない時がきたんだね。自分の心の嘘を。
 本当は誰の子だったのかわからない。父親なんかわからない。私は寂しくて誰とでも寝ていた。あの頃は誰も信じられず、誰のことも愛さなかった。そして虫を殺すように子供を殺してしまった。
 自分の愚かさを見たくなくて、ずっと三樹彦を恨んで生きてきたのだ。

 三樹彦は黙って席を立って行く。

 炭火の上の鉄皿の中で、どぜうが黒くこげている。
 白く濁った目玉をむいて、どぜうの口は泣いていた。

END