第二章 1 あれまあ、いい男!

















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 まだ国が固まってなくて、クラゲのように海にふわふわと漂っていた頃のことです。イザナギとイザナミという男女の神が、天の浮橋から海に矛をさしおろし、塩水をこぉろこぉろと掻き混ぜて、引きあげました。すると矛の先から滴り落ちた塩が重なり積もって、オノゴロ島ができました。
 イザナギとイザナミはオノゴロ島に降りたって、天の御柱と八尋殿を建てました。それから、男神イザナギが、女神イザナミに尋ねました。
「あなたの体はどんなふうにできているんですか」
「わたしの体はちゃんとちゃんとできているけれど、でき合わさってないところがあります」
 すると、イザナギはいいました。
「わたしの体はちゃんとちゃんとできているのだが、でき余っているところがあります。これはひとつ、わたしの体の余ったところを、あなたの体の合わさってないところで塞いで、国土を生もうと思うが、いかがでしょうか」
「それは善い考えです」とイザナミは答えました。
 そこで二人は、天の御柱の回りをめぐって、出会ったところで、事に及ぼうということを約束しました。イザナギが左に、イザナミは右に回ることにして、二人は柱のまわりを歩きはじめました。行き合ったところで、イザナミがいいました。
「あれまあ、いい男だこと」
 そこでイザナミもいいました。
「あれや、いい女だことよ」


『古事記』に出てくる国生み神話を現代風に訳すると、こんな感じになるだろうか。
 ここから受ける印象は、男女の関係の対等性だ。フェミニズム運動の理想とする形が、神話世界において実現している。
 海に矛をさしいれてオノゴロ島を作るのも、天の御柱と八尋殿を建てるのも、すべて二人で一緒に行っている。どちらかの主導があったということはない。天の御柱を、左右からそれぞれ別の方向からめぐるということも、男女の対等性を示している。
 新鮮ですらあるのは、生殖器や性交に関する表現だ。
 倉野憲司校注の『古事記』(岩波文庫)では、イザナミは、「吾が身は、成り成りて成り合わざる處一處あり」といい、イザナギは「吾が身は、成り成りて成り餘れる處一處あり」と答えたと記されている。それぞれ「成り成りて」で始まっていることは、男も女もひとつの完成された肉体であることを意味している。おちんちんがついてないから、女は男より一段下の生き物、といった意識は皆無だ。
 性交も、女の体のくっついてないところを、男の体の余っているところで塞ぐ、という、あっけらかんとした言葉で示される。
 性交とは、男が「ヤル」もので、女が「ヤラれる」ものという見方は、ここにはない。小気味よいのは、柱を巡って出会った時に、イザナミのほうから、「あれまあ、いい男だこと」と声をかけるところだ。
 古代の女たちは、性に積極的だったのだなと頼もしくなるが、この続きを読むと、おや、と首を傾げてしまう。


「女が先に声をかけるのは、よくないな」と、イザナギはイザナミにいいました。それでも、交わったのですが、生まれた子は水蛭子(ヒルコ)だったので、葦船に入れて流してしまいました。次に生まれたのは、淡島で、これまた子として認めはしませんでした。
 そこで二人の神は話しあい、自分たちの産んだ子はよくなかった、ということになりました。天に戻って、天つ神に相談すると、やはり女から先に声をかけたのが悪かった、もう一度、やりなおしなさい、といいます。それで二人の神は、またオノゴロ島に降りていき、天の御柱を巡りなおしました。
 今度はイザナギが「あれや、いい女だことよ」と先に声をかけてから交わり、日本の島々が次々と生まれたのでした。


 なにか、おかしい。
 前半で見られる男女の対等性が、後半では、「男が先」の男性優位に変っている。
 神話成立の背後には経済論理がある、という見方で、この話を考えてみたい。
 ポリネシアの赤道近くにマルケサスという諸島がある。ゴーギャン終焉の地として有名だが、食人風習のあったことでも知られている。
 というのも、この諸島は、はなはだ土地が貧しい。大地が痩せていて、ろくに食べ物が採れない。豚や鶏を飼い、魚を獲って暮らしてきたが、いよいよ食べるものがなくなると、人を食べるしかない。
 この島にやってきたヨーロッパ人航海者たちが、マルケサス人が贈ってくれた頭蓋骨の頭頂にどれも穴が空いていることを不思議に思っていた。ある時、そこに流れついて暮らしていたヨーロッパ人と出会って、訳を知って驚いた。彼らは人を食べる時、まず頭頂に穴を開け、脳味噌を啜るのだ、その漂流者は鉄砲を持っていたので生き延びたが、武器のなかった仲間はみんなそんなにして喰われてしまったと告げた話が残っているほどだ。
 マルケサスの島々では、産児制限をしないにも関わらず、女たちは一人か二人しか子を持たなかった。たくさん産んでも、生活が苦しくなるだけなので、自然の制御が働いたらしい。
 こんな島では、神が次々と島=子を産む神話は生まれはしないだろう。
 残念ながら、マルケサス諸島独自の神話の資料はないのだが、ポリネシア神話をひもとくと、半神半人のマウイの話がある。マウイは、まだこの世界に海しかない頃、人間のために島や珊瑚礁を釣りあげて住む土地として授けたという。ポリネシア人の食生活が、いかに漁猟に頼っていたかを示している。
 男女神が次々に島々を産む神話の意味するものは、かつての日本が豊饒な国であったということだ。今よりも温かく、土地は肥えていた。食物は楽に得ることができて、多くの子供を産み育てることができたのだろう。
 狭い島国で、人が多くなるとどうなるか。余った者たちは、新たなる島を求めて、海に出ていくだろう。
 葦船で流された水蛭子や、子として認められなかった淡島の存在は、土地相続権のない子が海に出ていった、移住していったことを物語っているのではないか。
 この推測が正しいならば、水蛭子や淡島は、よくない子ではなく、余った子だったのだ。
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