南米取材旅行記 コロンビアーノ・ブラジリアン

垣根涼介


病気に思うこと・ナタル


 やられた、と思った。
 南米大陸の大西洋に突き出た町・ナタルで、南米へ来て一ヶ月とちょっとが経った。十都市ほどを回ってきて、行程も半分ほどを消化した。
 その間、泥棒やスリにも遭ったが、ほとんど実害もなく、ほぼノン・トラブルでここまでやって来た。
 少し気が抜けてきたせいもあるだろう。いつも鼻息荒く動き回っていたせいで、知らぬ間に疲れも溜まっていたようだ。
 とうとうこのナタルのホテルで、寝込んでしまった。
 とはいっても、これが黄熱病やデング熱といった南米特有の風土病なら多少サマにもなるのだが、答えは単純な風邪。ホテルにあるプールで泳いでいたのだが、大西洋から吹き付けてくる風が妙に冷たいなと思っていた結果が、これだ。
 熱もしこたま出た。で、このナタル滞在の大部分は、ひたすらベッドの中でうんうん唸っていた。濡れタオルを額に乗せたまま、以前に知り合いになったブラジル人から貰った薬をがぶ飲みしていた。
 とはいえ、あまりにもヒマだった。ぼくはもともと人間が軽く出来ているせいか(つまりは軽薄なせいか)、じっとしていることが苦手だ。
 少し元気が出ると、時おりベランダに出て、すぐ目の前にあるプールで遊ぶ人間にぼんやりと見入っていた。
 そのうちの何人かがぼくに気づき、軽く手を振ってみせる。初日にプールサイドのバーで知り合いになったブラジル人たちだ。彼ら一般的なブラジル人たちは、ぼくに負けず劣らず人間が軽い。二、三回話をし、一緒に酒でも飲めばもうアミーゴだ。そしてぼくはそういう尻の軽い人間が大好きだ。逆に嫌いなのが、雰囲気の固い人間だ。
 日本では特にそうだが、やたら深刻ぶって重たげな顔をぶら下げている人間を見ると胸糞が悪くなる。ウジウジ悩むより、まず考えろよと思う。それでなくとも世の中はままならぬことが多いのだから、せめて自分を可哀相がらずに生きろよと思う(クルド人のように思い切り悲惨な運命を背負っている民族ならともかく、だ)。
 さて、そのブラジル人のグループはぼくに近寄ってきて二、三言話しかけた後は、またプールに戻ってばしゃばしゃと水遊びを始めた。
 部屋の中のベッドに戻りながらふと思った。自分はしかし、このナタルの町では存在しないも同じだな、と。始終ベッドに寝込んでいるので、誰とも接触はない。寝ている間は誰かと関わりあうこともない。
 今回のこの病気に限らず、その世界に存在しない人間というものは、世間を見回してみれば意外と多くいるものだ。
 例えば飲んでいる席で、ある一人が、同席する人間たちに何かの意見なり感想なりを求めたとする。意見を求められたうちの一人が、その話題に関して何の興味も考えも持っていなかったとする。自分なりの考えがないから返事も返せない。興味もないから質問もしない。すると、その人間はもう、その仲間内では存在しないも同然の石ころだ。
 ええっと……話が少し抽象的過ぎたかな?
 もう一つ、例えばこういう話だ。
 昔付き合っていた女に、こう説教されたことがある。ぼくが二十代前半の頃だ。
「あなた、ちゃんと選挙には行っている?」
「行かねぇよ。そんなもん」当然のようにぼくは答えた。「おれの一票で世の中が変わるわけでもあるまいし、かったりぃ」
 すると彼女はクスリと笑ってこう言った。
「じゃああなたは、自分の払っている税金がどう使われようと文句はないのね?」
「そんなこた、ねぇけど」
「月々払っている年金が満額受け取れなくても、あとで騙されたと怒らないわけね?」
 言葉に詰まった挙句、こう言い返した。
「けどさ、ロクな奴いねぇじゃん。入れたくねぇ奴ばっかりだもん」
 彼女はまた笑った。
「じゃあ、白票にしないさいよ。せめてそれぐらい、自分の意志を示したら?」
 ぼくはぐうの音も出なかった。
 はっきり言って、このときほど自分の馬鹿さ加減を痛感させられたことはない。言っておくが、彼女はべつにNPO職員とか、そういった関連の仕事ではなかった。一般企業の営業職にある、ごく普通のOLだ。数字に追われる忙しい日々の中でも、ここまでちゃんと考えている。それに引き換え、このおれは一体なんだと思った。
 ある世界に対して興味も自分なりの意見もない人間は、その世界には存在しないも同様だ。まあ、その人にとってべつだん大事な世界でもない限り、それはそれでもいいだろう。
 だが、国民の権利を忘れた人間は、その国に存在しない人間だ。せっせと収めている税金をいいように使われても文句を言えない人間だ。そう、当時の彼女は言った。
 そんなことをふと思い出したナタル滞在だった。
 
追記:今回はあまりナタルの話がなくて、ごめんさない。なんせその滞在中のほとんどをベッドの上で過ごしたので、一応、駆け足で市内を回ってはみたのですが、あまりにも茫漠とした感想なので。それならベッドの中でいろいろ考えたことを書いたほうがいいと思い、こんな感じになりました。次回からはまた、その土地々々での出来事を主体に書いてゆきます。でもこのナタルも気候がよく、非常に風光明媚な町でした。なにか人生観に触れるようなことを期待して行くには、ちょっと物足りないかも知れないけど。ではね。

(了)


1966年長崎県生まれ。筑波大学卒業後、リクルート、商社、旅行代理店勤務を経て、2000年『午前三時のルースター』で第17回サントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞してデビュー。受賞後第一作の『ヒートアイランド』(文藝春秋刊)が各紙誌で絶賛を浴びる。現在、鋭意新作に取り組んでいる。
http://www3.ocn.ne.jp/~kakine/


ヒートアイランド
『ヒートアイランド』
文藝春秋
本体2048円+税




アルチスタス海岸。ナタル旧市街の前に広がる。ここは日本で言う熱海のような場所。海岸縁にはリゾート・ホテルがぎっしり建ち並び、浜辺には海水浴客がわんさといる。


大西洋に突き出た町・ナタル。写真はその岬の近くから撮ったもの。遠くに旧市街のビル群が見える。クルマの横の人影は、ムラータの物売り。


岬の突端にあるヘイス・マーゴス要塞の内部。ブラジル人の観光客たちがウジャウジャ。笑ったり、怒ったり、文句を言ったりと、喋ることに忙しく、ろくすっぽ周囲の景色を見ていない。ガイドブックも見ない。ガイドの説明も聞かない。でも、騒々しく陽気で、とてもいい。


ナタル市街の住宅街の中にある、広場『プラザ・ケネディ』。ここにも、ある規模の観光地になるとお決まりの浮浪者がいる。昼間は日陰のベンチの上で寝ている。



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