南米取材旅行記 コロンビアーノ・ブラジリアン

垣根涼介


性欲と太陽の関係・フォルタレーザ(その二)


 暑い! 狂ったような暑さだ。うだるような湿気だ。
 ブラジルのノルデステ(東北部地方)を北に進むにつれ、天井知らずに気温は上がってくる。赤道へと向かっているのだから無理はない。このフォルタレーザという街でおよそ南緯3度……ほとんど赤道直下だ。
 雨季でさえ昼間はだいたい摂氏35〜36度。地表から立ち上ってくる湿気がさらに体力を奪う。街中を歩いているだけでまるで拷問状態だ。太陽光線に頭頂の髪がチリチリと焦げているのがよく分かる。
 ブラジルもここら辺りまで来て、身に沁みて分かってきたことがある。限度を超えた暑さは、ヒトからすべてのものを奪ってゆくということだ。思考力も活力もモラルも、根こそぎ持っていってしまう。もう心底ゲンナリとしていた。
 唯一ありがたかったのは、怒りの感情までも萎えてしまうことだ。
 以前にも少し触れたが、ぼくはもともとが短気者だ。ささいな事ですぐに腹を立て、腹を立てるだけではなく、相手に文句をつけ、その非を罵る。無遠慮な人間の典型だ。30を過ぎる頃までは「こんなことではいかん。ろくな社会人にならん」などと思い、自分なりに対外的な礼儀改善に努めてきたつもりだ。が、30をいくつか超えた頃から、そんな努力をしている自分が、アホらしくなった。ウンザリした。
 言いたいことも我慢して、それで無用なトラブルを起こさないからって、一体それが何なんだ? 他人からとんでもない野郎だと思われたところで、それが何なんだ?――そう思った。以来、「なにも無理していい人間ぶることもねぇや」という思うことしきりで、今日に至っている。危険な追越しをしたクルマに追いつき窓を下げて、「ふざけんなっ。ぶっ殺すぞこの野郎!」と喚いたり、満員電車の中で騒々しい馬鹿に、「うるせえぞ。おまえら!」と怒鳴ってみたりと、すっかり箍が外れてしまっている。昔は「やめてっ。やめて! 変なヒトだったらどうするのっ」と半泣きで止めていたカミさんも、最近ではすっかりあきれ果て、「あんた、いつか刺されるよ」と冷たくつぶやく。
 まあ、こんな感じでいつも小噴火を繰り返しているが、このブラジルのノルデステに入ってからは、すっかりその気力も萎えてしまっている。というより、この土地ではムカッ腹を立てるようなネタにあまり遭遇しない。
 他人同士の諍いの主な原因は、そのお互いの時間的・精神的余裕のなさから来るものだと思うが、そういう部分、この土地の住人は余裕たっぷりだ。腕時計をはめていない人間も大勢いる。時間の縛りというものをおよそ気にしないし、そんなシビアな仕事に就いている者もほとんどいない。一種、ヒマ人と言ってもいい。ヒマ人同士のすれ違いざまの諍いなど起こりようがない。
 彼らの歩く速度はひどくゆっくりとしている。道端で知り合いに会えば長々と立ち話をする。シエスタ(昼寝)も毎日取る。猛烈な熱気と湿気にやられ、頭の中はいつもぼうっとしているので(そう地元民も言っていた)、小難しいことはほとんど考えない。思考はよりシンプルに、行動はより直截になってゆく。目の前の欲望にはストレート一本槍の反応を示す。そんな土地柄だ。
 当然、そんな彼らの最大の関心事は、いわゆる色恋だ。男は女のことを、女は男のことをのべつまくなく考えている。そうだろうなぁと思う。べつに皮肉じゃなく、セックスのことを考えるのに、小難しい理屈は要らないもんなあ。このクソ暑い世界で、ヒマさえあればいつもイチャイチャしている。性の目覚めも早い。男女とも十二、三歳で初体験。十四歳で父親・母親になる子供も珍しくない。実際、ぼくも何度か見たことがある。その服装からしてどう見ても中学生の女の子が膨らんだ腹を抱え、同じ年恰好の少年と手をつないで歩いている姿を。
 なんだかなあ、と思う反面、少し羨ましくも感じる。その歳でセックスできることがではない。うまく言えないが、その開けっぴろげな精神が、だ。
 ぼくは九州のド田舎の育ちなので、少なくとも中学生の頃はこんなフランクな男女関係はなかった。内心気に入っている女の子がいてもわざと無視したり、やたら澄ましているだけという、色恋に関してはおよそ後進地域で生まれ育った。感情をあまり表に出すのはカッコ悪いという考え方だ。
 だが、そんな肩肘張った考え方はブラジルにはないようだ。特にこのノルデステの住民はそうだ。好みの異性なら、その相手の顔をまじまじと見つめてくる。相手がそれに気づくと、少し笑いかけてくる。こちらも笑みを返せば、相手の笑みは一層大きくなる。
 例えば、こんなことがあった。
 このフォルタレーザから少し奥地に入った、とある田舎町でのことだ。
 埃っぽいバス停でいつ来るとも知れぬ路線バスを待っていると、まるでホルスタインのような巨乳の娘が向こうからやってきて、ぼくの隣に立った。しばらくするとさかんにモーションをかけてきた。穴の開くほど人の顔を見つめ、髪をいじり、しきりと左手の指輪をいじってみせる。そしてその薬指だけにはリングが嵌まっていない。
 どう、どう? このあたし? 気に入った? 気に入らない?
 内心吹き出しそうになりながらも、ぼくは素知らぬふりを通す。相手はどう見ても十七、八の小娘だ。ぼくは三十六。倍も歳が違う。
 やがてバスが来て、娘は車内に乗り込んだ。ぼくは陽炎の中、ぼんやりとその様子を眺めている。動き出し始めたバスの最後部に娘は立ち、まだ窓越しにこちらを窺っている。まじまじとこちらを見ている。つい笑いかけると、彼女は初めて笑顔を見せた。大口を開け、白い歯を見せて顔全体で笑った。
 あなた、照れてた? あたし、やっぱりいい女?――たぶん、そんな感じた。
 こういうオープンな感覚がぼくは好きだ。いいな、と思う。

(了)


1966年長崎県生まれ。筑波大学卒業後、リクルート、商社、旅行代理店勤務を経て、2000年『午前三時のルースター』で第17回サントリーミステリー大賞・読者賞をダブル受賞してデビュー。受賞後第一作の『ヒートアイランド』(文藝春秋刊)が各紙誌で絶賛を浴びる。現在、鋭意新作に取り組んでいる。
http://www3.ocn.ne.jp/~kakine/


ヒートアイランド
『ヒートアイランド』
文藝春秋
本体2048円+税




セントロにあるフェヘイラ広場。フォルタレーザで一番の繁華街。


郊外に出かけたときの写真。雨季とはいえ、やはり太陽光は強烈。


民族博物館脇の通り。ブラジル人とは、道端に生息する民族だ。それも心地よい日陰なら、なお生息率が高い。


この町の商店街。こういう雑然とした感じがぼくは好きだ。


昔はホテルだったというアパートメントハウス。どうやら増改築を繰り返してこんなみょうちきりんな外観になったようだ。



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