前編ではスポーツアナウンサー石原敬士さんが実況に臨むまでの準備、取材、そして解説者との掛け合いの妙など、野球実況の裏側についてたっぷり教えていただいた。そんな石原さんが現在の地位にたどり着くまでにどんな経験を積んだのか、どんな課題を克服してきたのか。そこを掘り下げていくと、実況アナウンサー同士が語り合う「実況アナウンサーとは?」という熱い議論に出会うことができた。




東京六大学野球一人実況


石原敬士(いしはら・たかひと)


石原敬士(いしはら・たかひと)PROFILE

1968年 愛知県東郷町出身 法政大学経営学部経営学科卒
1991年に入社した(株)テレビ新広島時代は、カープ・サンフレッチェを中心にアマチュアを含めたスポーツを担当。入社1年目にしてカープの優勝に立ち会ったのをはじめとして、94年サンフレッチェの1stステージ優勝、ハンドボール広島メイプルレッズの日本リーグ7連覇を見届けるなど、数々の大舞台を選手とともに体験した。その一方で6年間にわたって夕方のニュース番組「スーパーニュース」の金曜担当キャスターを務め、数々の事件・事故現場などからの中継も担当した。2005年3月31日に14年間勤めた(株)テレビ新広島を円満退社。大好きなスポーツにいつまでも関わり続けファン・サポーターとともに選手を応援し続ける実況者でありたいと思う。

石原敬士オフィシャルブログ「石原敬士の声心」



オグマナオト


オグマナオトPROFILE

福島県出身。風車とスポーツと食べることについてばかり考える30代。「エキレビ!」レギュラーライター。『編集会議』でインタビュー記事を担当するほか、風車ライターとして『電書雑誌よねみつ』で「まわれ風車男」を連載。現在、実況アナウンサーの魅力を多角的に紹介する企画を進行中。

ツイッター:@oguman1977


──そもそも石原さんがアナウンサーを目指したキッカケは?

石原 小学校5年生のときに、ラジオでプロ野球の実況中継を聞いてたら、ラジオなのに自分の頭の中に球場が見えたんですよ! コレはすごいなぁと思って。自分もこんな人になりたいと思ったのがキッカケですね。

──ある日、突然見えたんですか?

石原 普段からラジオ中継は聞いてたんですが、小学生の頃って自分の好きなチームが勝った負けたで喜んでいるだけじゃないですか。でも、その日に限って最後の最後に球場が見えたんですよね。それがすごいなーと思って。その時のアナウンサーが東海ラジオの犬飼俊久さん(※1)という方なんですが、僕がアナウンサーになってからその犬飼さんに球場でお会いする機会があったのでこの話をしたらとても喜んでいただけましたね。

※1
東海ラジオ「ガッツナイター」などのスポーツ中継を担当。1994年中日vs巨人の「10.8決戦」など数多くの名試合で実況をしたアナウンサー。


──そういう強烈な原体験があって、アナウンサーへの憧れが強くなっていったんですね。

石原 そうですね。「すごいっ!」っていうところがスタートで。だからといって何をしていた訳ではないんですが、頭の中ではずっと「ラジオでしゃべる」っていうのがありましたね。中学ではバレーボールをやっていたんですが、高校では応援団に入りました。まあそれがアナウンサーにつながったということはないですが、スポーツが好きで側で見ていたいっていうのが、応援席か実況席かという違いにはなってますが、つながってるのかもしれませんね。

──大学時代は?

石原 法政大学に入学してすぐにアナウンス研究会(以下、アナ研)を探して入りました。後で知ったのはそのアナ研を立ち上げたのが元日本テレビの若林健治さんで、のちのち、その若林さんの元に押し掛けていくことになるんです。

──どんな活動、練習をされてましたか?

石原 毎日お昼休みに屋上に向かうスロープで発声練習をしてましたね。あと、当時有楽町に日立のショールームがあって、そこでアナ研が週一で番組を持たせてもらっていたので1時間くらいしゃべったり…まあ、僕はその番組3回くらいしかやってないんですけど。あとは東京六大学野球の招待券をもらえたので、それを利用して神宮球場で実況の練習をしてましたね。自分で資料つくって、カセットテープまわして。今はどうなってるかわからないんですが、当時は六大学野球のウグイス嬢を各大学のアナウンスサークルが持ち回りでやっていて、そのつながりでチケットをもらえたんですよね。

──じゃあ、各大学がバックネット裏で練習していたんですか?

石原 いや、定番は、早稲田大学のアナ研と、僕(笑)

──え? サークル活動じゃなくて、個人でやってたんですか?

石原 サークルに実況を練習するグループっていうのは一応あったんですが、参加する奴がいなくて(笑) だから、僕だけが行ってたんです。で、一人だけど早稲田のアナ研にどうしても負けたくなくて、開門と同時に入って一番いい席を取る。で、その周りを早稲田のアナ研がダーって囲むんです。早稲田の場合は2人一組でやってるんですね。スコアブックをつける人と実況する人で。でも、僕は一人なので、膝の上にスコアブックを置いて、隣にテープレコーダーを置いて、反対側に資料広げてって(笑)

──そういう一人活動で技を磨いたんですね。

石原 まあ、一人ではあったんですが、当時、若林さんのところに週一回教わりに行っていたので、録音したテープをとにかく聞いてもらって、アドバイスもらって、でまた録って。っていうのを毎週繰り返してましたね。まあ、そんな下手くそな実況を毎週聞かされる若林さんにしてみたら拷問でしたでしょうね(笑)

──現役のアナウンサーに聞いてもらえるっていうのはすごい経験ですよね。

石原 そうですね。キッカケは、大学3年にあがる直前に法政大学で「自主マスコミ講座」(※2)というのができるということで、外部講師として元テレビ朝日の横舘英雄さんだったり、TBSの藤田恒美さんといったそうそうたるメンバーがいらっしゃっていたんですが、その中に若林さんもいらっしゃって。試験を受けてその講座に受かって話が出来るようになると、若林さんと若林さんのお師匠さんの山本勇さんが私塾をやっている(※3)というので「来るか?」って言われて、「お願いしますー!」と。

※2
1988年に当時社会学部の助教授だった稲増龍夫と大学の職員有志が中心となって始めたマスコミ志願者向け講座。マスコミ向け就職対策講座としては日本の大学で最も古い歴史を持つ。アナウンサーコース、新聞・報道記者コース、出版コース、放送コース、広告コースなどのコースがあり、受講するには大学内の選考試験に合格しなければならない。法政大学の正課ではないにもかかわらずその倍率は3倍近くになる。

※3
フリーアナウンサー山本勇氏がアナウンサーを目指す学生のために開いている私塾・山本勉強会。その一期生がプロレス実況でおなじみの元日本テレビアナウンサーの若林健治氏。現在では若林氏も講師を務めている。


──有名な山本勉強会ですよね。

石原 そうです。お二人でやってる私塾で、過去30年近くで100人はくだらないほどアナウンサーを輩出してますね。そこで時間を取ってもらって実況を聞いてもらっていました。今その恩返しで、山本勉強会に来ている現役学生が実況の練習をするときは顔を出してアドバイスをするようにもしてるんですけど。

──その頃にはもう「実況アナウンサーになりたい」と具体的な目標になっていたんですね。

石原 就職試験で30いくつの放送局を受験したんですけど、そうは言ってもどうしてもスポーツをやりたかったので、プロ野球球団がある地域で受かりたい、というのがありましたね。そう考えると当時まだ日本ハムは当然北海道にはありませんでしたので、東京・名古屋・大阪・広島・福岡の5カ所の中で受かんないとヤバいと。幸い広島に引っかかって。という感じでしたね。



新人アナウンサー時代のドッジボール実況


広島カープの2軍球場で若手選手と一緒に精進したからこそ、今の石原さんがあるそうです。

広島カープの2軍球場で若手選手と一緒に精進したからこそ、今の石原さんがあるそうです。


──広島でのアナウンサー時代はどういったお仕事をされていたんですか?

石原 ものすごいユーティリティでした。何でも屋というか。僕が会社入ってから、次に男性のアナウンサーが入るまですごい時間がかかったんですよ。だから、いっつまでも、どんなに年が上がっても新人というか若手なんですよ。だから、レギュラー番組を持つ訳でもなく、誰かが夜勤できないと「石原ぁ頼むな!」と。誰かが夏休み取るよとなると「じゃあ、石原な」という感じで。でもおかげでいろんな経験というか勉強はさせてもらえましたね。『めざましテレビ』のレポーターなんかもやりましたし。

──肝心のスポーツは?

石原 スポーツはというと、最初僕はサッカーの担当で94年のサンフレッチェ広島のJリーグ1stステージの優勝を現場で見ることができましたね。でも一番印象深かったのは、僕、91年の入社なんですけど、広島カープが一番最後に優勝したのがその年なんですよ。だから、僕より後に広島の局に入った人間は優勝を知らないんです。

──放送局に限らず、広島カープでもそうですよね。

石原 もう前田智徳だけですからね、現役の選手でいうと。その日、広島市民球場が真っ赤だったんですよ。「すごい。球場全部がカープじゃん!」って思ったのをよく憶えていますね。その日はダブルヘッダーで、第一試合が僕のいたテレビ新広島の中継、で第2試合が広島テレビの中継で。でも、残念ながら第1試合がダメで、第2試合で優勝が決まったんですけど。もっともそのときは1年目だったので放送にはまったく絡んでいなかったんですが、それでもその瞬間を入社1年目で見ることができた、っていうのは自分の経験の中でもものすごく大きいですね。また特殊だったのが、その年、前代未聞のグラウンドでのビール掛けだったんです。

──ありましたねぇ、そんなの。

石原 大勢残っているファンの目の前でのビール掛けで。入社して一番最初の年にそれが見られたっていうのは大きかったですね。

──優勝の瞬間はどういう立場で球場にいらっしゃったんですか? レポーターとか?

石原 1年目だったので、ただただ「見とけ!」と。記者席でずーっと座って見てただけです。だから取材をした訳でもレポートしたわけでもないんですが、その場にいて、その空気を吸えた。っていうのがやっぱり大きいなぁと思いますね。

──実際に広島カープの実況ができるようになるのは何年目くらいのことなんですか?

石原 あのー、これ難しい言い方なんですけども。自分のところの電波を使うのは結構後になるんですけども、ケーブル局で、地上波での中継が始まる夜7時よりも前の情報を中継する、いわゆるトップ&リレーというやつがあるんですけども、それをしゃべったことはあります。それを入れるんだったらばたぶん3年目か4年目ですね。自社の電波でっていうことになると、6年目か7年目に二軍のウエスタンリーグ中継をやったのがはじめてで、一軍の試合をまともにしゃべったのは、入社11年目。それも函館(笑)

──あ、広島市民球場じゃなく。自社の実況マイクを握るっていうのはそれだけ大変なことなんですね。

石原 チャンスがなかったですねー。言い方が悪いかもしれないですが、まあ、上がつっかえてたっていうのもあるし。結局、他の局への割り振りも考えると年間13本しか中継のチャンスがないので、なかなか機会はまわってこなかったですねー。ちなみにスポーツ初実況は入社2年目、ドッジボール!

──ドッジボール??? そんな中継があるんですか?

石原 あったんですよー、その頃。

──『ドッジ弾平』が流行ってた頃ですかね?

石原 それが流行ったもう少し後なんですけどね。これはねー、なかなか熱くなるんですよ。大塚製薬がスポンサーについた大会でしたけどね。

──そういう、誰もやったことのないような競技の実況ってどうやって練習するというか、生み出していくんですか?

石原 ドッジボールは、大会のある2週間くらい前に突然言われたんですよ。「中継あるから、石原、お前な」って。うちの局でもドッジボールは初めてだったので、どうしよう??と思って、まず日本ドッジボール協会に電話して「ルールブックを送ってください」と。で、とにかくルールを覚えて。で、大会にエントリーしてるチームに適当に電話をして、取材と称して「すみません、試合形式の練習していただけないでしょうか」とお願いして、なるほど、このルールはこういう風に適用されるんだ、と確認したり。でも基本的にボールが行ったり来たりする競技なので、イメージはバレーボールでした。

──あ、なるほど!中学での部活の経験も生かしながら。

石原 バレーボールの感覚でしゃべればなんとかなるかな、と。ドッジボールでも当てにいくことを「アタック」と言うので、よし!使える使える、と。それが大きかったですね。まあでも、地方局のアナウンサーなんて言うのは、僕はやったことないですけども、綱引きの実況だとか。いろいろありますからね。

──石原さんはファーム(二軍)の取材や実況にも力を入れていらっしゃったんですよね。

石原 当時、なかなか実況の機会が回ってこない。であるならば、いつか実況の機会が巡ってきたときに使えるのは誰かというと今若い選手だろうと。そう思って、カープの由宇二軍球場によく通っていたんです、休みの日とかは毎日。とにかく通っていろんな話を選手に聞いたり、当時の二軍監督の木下監督に聞いたり、その前後に監督をされていた山崎さんや安仁屋さんにもとても可愛がっていただいたんですね。で、毎年シーズンオフにテレビ新広島スポーツ部主催で忘年ゴルフコンペをしていたんですが、ある年のゴルフコンペにゲストで木下さんをお誘いしたときに「今年のファームの優勝は石原君のおかげです」と言っていただきましたね。

──おぉー。それはすごい!

石原 木下さんが言っていただいた意味っていうのは、取材する人間がグラウンドに来ると選手も緊張感が違うそうなんです。普段誰も見ていないところで練習している選手が、「見に来ている人がいる」「マスコミが来た」というだけで緊張感が変わる。「今シーズンは石原君がたくさん来てくれたおかげでたくさんそういう日があった。試合もよく見に来てくれたから、試合でも緊張感を持って戦ってくれた」と。そういう経緯があって褒めていただいたんですけどね。

──貴重な経験ですね。

石原 あるピッチャーの選手に「石原さん、僕ってどうやって投げてましたっけ?」と聞かれたこともありますね。

──うわ、それすごいですね。プロの選手に?

石原 もちろん、投げられるのは投げられるんですよ。でもいろんなコーチにいろんなことを言われて自分のフォームを忘れちゃってるんですよ。いいフォームというか、自分の納得のいく球になっていない。で、カープの由宇二軍球場はロッカールームからブルペンまで結構距離があるので一緒に並んで歩いていたときに、「石原さん、僕ってどういう風に投げてましたっけ?」と。こっちもそんなこと聞かれて「えっ!?」とビックリしてるんですけども、「あぁ、このくらいプロは悩んでやっているんだな」「選手ってこういうことを考えているんだ」というのを教えてもらった、自分にとっても、すごく意味のある球場でしたね。



「スポーツの持つリズム」にどう実況を乗せていくか


身振り手振りを交えながら実況について語る石原さん。実況の放送席でも結構動いているとか。

身振り手振りを交えながら実況について語る石原さん。実際の放送席でも結構動いているとか。


──そういった様々な経験を積まれていく中で、フリーになろうと思ったキッカケというのは?

石原 だんだん仕事が報道寄りになっていたんですね。97年から毎週金曜の『スーパーニュース』のキャスターを担当するようになったんですが、それもあってだんだんとスポーツよりも報道やナレーション寄りの仕事が増えてきて。で、もう少しスポーツの仕事ってないかなぁ。じゃあ、スポーツの仕事がたくさんある場所に行ってしまえー!と。

──辞めたのはいつ?

石原 2005年の3月31日です。14年勤め上げて辞めました。その5年くらい前に西鉄バスジャックをしゃべって報道にも少し迷いが生まれていて。バスに突入する瞬間なんかを目の前にして、人の生き死にしゃべってるのもどうなのかな?と。とても大切なことなんですけどね。自分に向いてるのかな?と考えたのも事実ですね。

──地方から東京に出てくるに当たって、計画というか、ツテみたいのは何かあったんですか?

石原 まず、辞めよう!と。いろいろ探そうと思ったときに、他局ではあるんですけども同じ広島でアナウンサーをやっていた今のうちの事務所の社長が声をかけてくれたので、じゃあ、とりあえず取っかかりは任せていい?と。「うん。チャンスは作るから、そっから先は自分だよ」と言われて。何試合か勝負させてもらえるんだったらそれで諦められるし、やってみようと。結局、2005年は4月5月だけで20本くらい実況を担当させてもらいましたね。

──それはCS放送ですよね。

石原 はい。J SPORTSですね。

──CSでの実況になることで何か意識的に変えたことはありますか?

石原 最初は何も変えずにそれまでやってきた方法でしゃべっていたんです。でも、自分の中でも、何か違うなぁという違和感みたいのはあって。どうすればいいんだろう?と悩んでいたちょうど4月の末くらいに、元NHKの島村俊治アナウンサー(※4)とコンビを組むことになったんです。島村さんが第1戦と第3戦の実況、僕が第2戦の実況。つまり第1、3戦のリポーターが僕、第2戦のリポーターが島村さんという役割ですね。そういうコンビで行かせてもらったときに、初日の中継が終わって島村さんを食事にお誘いしていろいろ話をしていたんです。そしたら、「うん、石原ちゃんはしゃべることなかったら黙ってればいいのに」って言われたんですよ。

※4
岩崎恭子、鈴木大地、清水宏保の金メダル実況で知られる元NHKアナウンサー。『江夏の21球』で有名な1979年日本シリーズ最終戦・近鉄vs広島戦の実況を担当するなど野球実況でも第一人者。


──しゃべり過ぎだっていうことですか?

石原 きちんと伝えるべきことがあって、それでたくさんしゃべるのは全然いいことなんだと思うんですけども、しゃべることがないときに無理矢理取り繕ってたくさんしゃべる必要はないよ。っていう意図なんだと思います。でも「黙ればいいのに」って言われて、「黙れば…黙れば… 意識はしてるつもりなんですけどねぇ」って話をしたら「じゃあたくさん黙ってごらん。意識して」って言われて、早速次の日の自分の実況担当の試合で必死に黙ったんですけど、島村さんには「うーーん、我慢しようとしたのはよくわかるけどねぇ…」って言われて(笑)

──アナウンサーに「たくさん黙ってごらん」ってすごいアドバイスですね(笑)

石原 でも、そこからですよね。いろいろと黙る方法だったり、もっとゆったりしゃべる方法だったりっていうのを意識するようになりました。早口でしゃべるとトチるっていう課題もあったんですけども、意識的にゆっくりにすることでトチることも少なくなっていったんで、あーよかったなぁと。大きく変えたのはそこですね。

──CSの方が情報量が多い印象でした。

石原 地上波の2時間しかやらない中継であったとしても、CSのプレイボールからゲームセットまでっていう中継でも、たぶんやることはそんなに変わらないんですよね。ただ、2時間に区切ってしまうと見せてない部分があるので説明文が長くなりがちなんですが、CSではそれがない分、ひとつひとつ目の前のプレイに意識するようにはなったんです。島村さんとしては「だからこそ、ゆったりしゃべったほうがいいのにね」ということだったんだと思います。「ここって見たいじゃん!っていうところは僕らも見たいから黙るよ。」っていうくらいの思いっきりかもしれないんですけど。そういうところを意識するようになりましたね。

──なるほど。

石原 もちろん、競技の特性っていうのもあると思うんですね。野球が持っている一球一球間のあるリズムと、ボール展開をきちんと追いかけるサッカーのリズムと、常にボールがラリーで行ったり来たりするバレーのリズムと、一瞬の隙をねらう呼吸と間合いのスポーツである剣道のリズム。全てリムズか違うから、そこに対して同じリズムの実況を当てはめてしまうと、どこかに歪みが生じてしまうはずなんですよ。そのリズムにどうやって自分の心が乗って、意識が乗ってしゃべっているかっていうのが、僕は実況アナウンサーにとって一番大事だと思っているので。

──スポーツの持つリズム。

石原 そういう意味では、元々ラジオを目指していたラジオ小僧の自分が、テレビで実況するにあたってもラジオを引きずっていたかもしれないですよね。テレビとラジオって異質ですからね。たぶん、こと野球に関して言っても「テレビ実況とラジオ実況、どっちが難しい?」って言われても「どっちも難しい」って答えざるを得ないと思うんですよ。だから、全然異質なもので、全然別物だ、という認識でいます。



スポーツ実況は、台本のない、アドリブだけで紡ぐナレーションだ


元NHK島村アナウンサーと交わした「実況論」について思い起こす石原さん。表情も厳しくなります。

元NHK島村アナウンサーと交わした「実況論」について思い起こす石原さん。表情も厳しくなります。


──話が戻るんですけども、局アナ時代に先輩から指導を受けたりというのは?

石原 基本ないですね。

──え?? ないんですか?

石原 トゲのある言い方をするんですが、私の上にいた2人の先輩アナウンサーの実況スタイルが似ていたんですね。その2人が似ているから、この人たちとは違う実況スタイルを目指そうと思ったんです。そうしないと、三代続けて同じ実況スタイルになってします。三代続けて同じしゃべりだと、確かにその局の色にはなるだろうけども、たぶん一生この2人は抜けない。そう思ったので、この人たちとは違うしゃべりをしたいからっていうのもあって、敢えて実況については聞かなかったです。

──というと、聞かないと教えてくれない世界なんですかね。他の局も?

石原 どうなんですかねぇ。ひょっとして先輩アナウンサーの方では教えてくれようとしていたのに、自分の方から拒否していただけなのかも知れないんですけど(笑) 僕は……まあ六大学野球で練習を積んでいたこともあって変なプライドもあったとは思うんですけど。まあ、かわいくない新人ではあったでしょうね。

──では、ずっと自己流で?

石原 そうは言ってもディレクターとかには聞いてましたけどね。あ、ひとつ大切なことを思い出したんですけど、「テレビなんだから映像を考えろよ」っていうのをカメラマンの人に言われたんですよ。

──カメラマンに?

石原 中継がまだやってない時間に、「石原、お前全部のカメラポジションに行ってこい」って言われたんです。中継カメラって球場に7台か8台くらいあるんですけども、「全部のカメラポジションに行って、このカメラ位置からはこういう画が見えるっていうのを全部覚えておけ!」と。で、実際に見てまわって何台かのカメラはレンズものぞかせてもらって、ズームになるとこのくらい、引くとこのくらいになるっていうのを確かめさせてもらって。

──それが実況に生きて来るんですか?

石原 最初はうまくいきませんでしたけど「この映像が出てきたから次この映像かな?じゃあ、この話を入れればうまくつながるかな?」っていうのが慣れてくると考えられるようになるんですね。逆に、「この話をしたいからこの映像はいらないんだけど」ってなったら、「じゃあ、ブリッジにこういう話をすればこの画が来るから、そこから拾っちゃえばいいよね」って計算して、中継車のスイッチングをリードすることもあるし。

──なんか、すごい技ですね。

石原 それは正直な話、先輩はやってなかったことなんですよ。というか、カメラアングルを確認させてもらってはじめて自分でも気づいたことだったので。だから、常に画を追っかけるんじゃなくて、いい話があるならば自分から画を作りにいけばいい。これはフリーになってからも結構役立っていることですね。

──ディレクター視点を持つ。ということですね。

石原 そうですね。それができるようになると、だんだん面白くなってくるんです。逆にこっちのしゃべりからの画ばっかりになると中継車がつまらなくなってくるので、「そろそろこの話ねー」っていう呼び水の画が出てくるんです。それが来ると、「あー、そろそろその話をしたほうがいいんだなぁ」と自分でも分かってくるので、「わかったわかった」と今やってる話からちょっと逸れてその画に持っていくという。自分でも画の順番を考えながら。カット割りっていうと変ですけども。

──面白いですね。

石原 それはね、面白いですよ、ホント。放送が自分のものになっていく感じがあるので。先ほどの島村さんとの会話の中で、「<スポーツ実況は、台本のない、アドリブだけで紡ぐナレーションだ>と思って僕はやってるんですけど」っていう話をしたら、「うん。その考え方でいいんじゃない。俺は“スポーツの語り部”になろうと思ってやってるけどね」っていうことをおっしゃっていて。語り部だからこそ、実況だけじゃなく、実況以外の要素の部分も膨らませて、積み重ねてきた経験をちゃんと出していくっていう思いが島村さんにもあるんだと思うんですが、「いいんじゃない。そのナレーションっていう考えは」っておっしゃってくれて、「だったら緩急とかもっと使ってもっとゆっくりしゃべればいいのに」っていう先ほどの話にもつながっていくんですけど。

──目の前で起きてることをただ言葉にすればいいのではなく、それこそ試合をひとつのドラマに見立てて、自分も含めてそれを作り上げていくという。

石原 そうですね。だから、ホントに中継車と息のあったときの放送って楽しいんですよ。あー次はこの画が来るだろうな。じゃあこれしゃべっちゃえ。逆にそろそろこの話がしたいんだけどーって思っていると「わかったわかった」っていう感じで画が付いてきてくれる(笑)

──それは結構稀なことなんですか?

石原 えーと、やっぱり回数ですね。フリーだと現場現場で制作会社が違ってくるのでやっぱり難しいんですが、でもカンのいいディレクターがいると、「じゃあこういうことですね」と言ってちょっと打ち合わせするだけでうまく行くこともあるし。ただ1回から9回まで全部がはまるかっていうとそれは難しいことでもあるんですが、それが長いイニングで出来てる場合はあっという間に試合時間が過ぎていきますね。



「こんなことを言ったアナウンサーいたね」って憶えていてほしい


「これぞ石原節」というフレーズを生み出したい、という高い目標を語っていただきました。

「これぞ石原節」というフレーズを生み出したい、という高い目標を語っていただきました。


──さきほどチャンスを与えると言われて4月5月で20本しゃべらせてもらったということでしたが、その後、フリー1年目の成果はどうだったんですか?

石原 先日、ちょうどその頃一緒にやっていたプロデューサーさんと話をする機会があったんですが、「あの変化がなければ危なかったんだけどね。」っていうのは言われましたね。でも、2ヶ月で20本っていうのは本当に稀なことなんですね。元々やっていた人の本数を減らしてまで僕に当ててくれていたので、だから後半は少し押さえ気味の仕事の割り振りにはなって行くんですけど、1年目が終わったときに「今年はおつかれさまでした。来年もよろしく」って言われたときはありがたかったですね。

──無事、評価されたと。

石原 でも、野球を軸足にしようと思っていたので、野球以外はホントにやらなかったですね。だから、1年目は収入的にはホントに厳しかったですね。退職金を切り崩して切り崩して生活してましたし。それでも、場があって、自分の意識として急がずしゃべり過ぎずっていうのをイメージして実況するようになって、1年間つなげられたかな。っていう思いはありましたね。

──年を追うごとに実況する試合数は増えていますか?

石原 チャンスは増えてきてると思います。3年前からはメジャーリーグ中継も担当していますし。今年はメジャーリーグの中継本数がまた増えるっていうことなんですが、J SPORTSの野球実況アナウンサーの数に増減はないので、試合数の割合の増減もないはずなんですよね。なので、減ってはいないので、認めてもらえてはいるのかなぁと。

──野球担当の実況アナウンサーっていうのは何人いらっしゃるんですか?

石原 国内のペナントレースでいうと基本7人で、人が足りないときにお声がけする人が何人かですかね。メジャーに関してはメジャーリーグを専門にやられている方が2、3人増えてくるんですけども。

──石原さんとしてはメジャーリーグの試合も今後増やしていきたいと。

石原 そうですね。野球を軸足にというのは、たぶん一生変えたくないです。でももう一方では、いろんな種目を触りたいというのもありますね。幸いにして過去にはサッカーもやったしドッジボールもやったし、ハンドボールも今度3月に実況しますし。もちろん野球が軸足ですけど、スポーツが好きっていうところで、スポーツのいろんなものに触りたいなって思っています。

──これから自分はどういう仕事をしていきたいとか、目指すアナウンサー像はありますか?

石原 実況を”仕事”ということで考えていったら、「こんなことを言ったアナウンサーいたね」って憶えていてほしいんですよ。「石原」っていう名前が残ってもどっちでもいいんですけど、あの一言、例えば「春はセンバツから」(※5)っていう言葉であったり、「夕暮れ迫る神宮球場 ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽……」(※6)っていうのもいいですし。あのフレーズのね。っていう。

※5
テレビ普及以前からNHKのラジオ実況で使われていたと言われる口上。

※6
元NHKアナウンサー松内則三氏が1929年の東京六大学野球・早慶戦で球場の風景を描写した言葉。


──そのへんは有名ですよね。

石原 フレーズ狙いで行きたい訳じゃないんですけど、気がついたら、ああそういえば!っていう。僕の後輩で、島村俊治さんのソウルオリンピックの時の「大地っ!大地っ!大地っ!!」っていう鈴木大地の金メダルの実況に憧れてアナウンサーになったヤツがいるんですよ。そういうのってイイなって思うんですよね。

──脈々と繋がっていくんですね。

石原 ジュニアの話に戻っちゃうんですけど、第3回大会のジャイアンツジュニアに森君っていう選手がいたんですが、その彼がショートを守っていて難なくゴロをさばいたシーンで、僕が「打ったショートゴロ、ショートは打球の墓場です」という実況をしたんです。僕もそのシーンはよく覚えていたんですけども、去年の2月に、森君とお母さんに偶然お会いする機会があったときに「石原さんが実況をした試合だったかどうか分からないけれども、そう言ってくださった実況アナウンサーがいましたよね」って言われて、「あ、それ僕です」と(笑) よかった、この2人には心に残るフレーズになったと。そういうのをたくさん紡いでいきたいですよね。数ではないのかもしれないですけど、どこかに残したいなと思いますね。

──実況アナウンサー冥利につきますね。

石原 そのうちにだんだん、「それ言ったの誰?」って聞かれて、「石原」って言う名前が出てくればいいんじゃないですかね。さっき言ったみたいに、スポーツ中継はアナウンサーが主役にならないものだから。人物が主役に近づくよりも言葉が主役に近づけば良いかな、と思っています。



次号予告


落ち着いたトーンで発せられる美声とキュートな笑顔のギャップが魅力的でした。

落ち着いたトーンで発せられる美声とキュートな笑顔のギャップが魅力的でした。


「春はセンバツから」「夕暮れ迫る神宮球場 ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽……」など例として語られるフレーズがいちいち美声で美声で聞き惚れるという役得のインタビュー。「石原節」の誕生が楽しみです。それにしても、ドッジボールの中継はぜひ聞いてみたい! さて、次号は加藤レイズナのターン、プリキュアのターン。元気いっぱい大活躍、歌手の工藤真由さんにインタビューの予定です!

「お前の目玉は節穴か」では、おもしろい取材企画を募集しています。ブログなどで具体的に企画をはじめているかた、道場破りもありです、ぜひお問い合わせください。プロアマ問いません。編集担当のツイッター @kaerubungei までどうぞ。

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