2012年9月で文化放送を定年退職した菅野詩朗アナウンサー。その長いアナウンサー生活とともにあった「ライオンズナイター」の歩みとは? そして、ステーションアナウンサーとして最後に考える、これからの「実況アナウンサー」のあるべき姿とは? プロ野球ファン、特にパ・リーグファンにたまらない、怒濤の後編です。




だからやっぱり、重要なのは「人間への興味」


菅野詩朗/オグマナオト


菅野詩朗(すがのしろう)PROFILE

1952年9月1日生まれ。北海道札幌市出身。札幌光星高等学校、東海大学文学部広報学科卒業後、1975年、文化放送にアナウンサーとして入社。 スポーツアナウンサーとして、「大相撲熱戦十番」「ライオンズナイター」「ホームランナイター」、オリンピック中継などを担当。1998年、スポーツ部ディレクターに異動。その後アナウンサーに復帰。2012年9月をもって文化放送を定年退職することが決まり、2012年9月4日のライオンズナイター埼玉西武ライオンズvs.福岡ソフトバンクホークス戦で実況アナウンサーとして一区切りを迎えた。


オグマナオト PROFILE

福島県出身。風車とスポーツと食べることについてばかり考える30代。『エキレビ!』レギュラーライター。各種媒体でのインタビュー記事を担当するほか、風車ライターとして『電書雑誌よねみつ』で「まわれ風車男」を連載。

ツイッター/@oguman1977



江夏の21球

『江夏の21球』
スポーツライター山際淳司によるノンフィクション。1979年のプロ野球日本シリーズ第7戦において、広島東洋カープの江夏豊投手が9回裏に投じた21球に焦点を当てている。Sports Graphic Number創刊号に掲載された後、山際のエッセー集『スローカーブを、もう一球』(角川書店)に収録されている。


──長年アナウンサーを勤められてきて、時代が変わってもここは変わらない、というような「実況における神髄」の部分は何だと思いますか?

菅野 先ほど話をした「臨場感」というのもありますけど、あとは「その選手を好きになる」ということだと思います。これは、スポーツに限らないことかもしれませんが、その「人間」を好きになると、その世界に一気に入っていけますよね。私がラグビーの仕事を始めたとき、実はそれほどラグビーに興味がなかったんです。でも、当時早稲田のロックをやっていた栗原という選手のことが、ムチャクチャ好きになりましてね。背はすごく大きいんだけど、ガツンと当たるだけじゃなくて横からスルスルっとすり抜けていったり。その選手を好きになったことで、ラグビーにのめり込むことができましたから。ラグビーもそうだし、野球だってそうじゃないですか。

──好きな選手がいると、自然とチームのことやその競技のルールを覚えるのも早くなりますよね。

菅野 元々、僕らの世代なんかはみんな巨人ファンなわけですよ。巨人ファンというか、長嶋ファンなんですね、みんな。長嶋が打たないとウチの親父なんて機嫌悪かったですから。特に僕は出身が北海道だったから、当時はまわりみんながそうで。

──菅野さんも、小さい頃は巨人ファンだったんですか?

菅野 いや、僕はなぜか近鉄を好きになるんです(笑)。当時、鈴木啓示や梨田なんかもいましたけど、小川亨とか、お嬢さんが女優になった吹石とか、『江夏の21球』でバントを失敗した石渡とか、渋い存在でもいい選手がたくさんいたんですよ。そういった脇役選手をキッカケにどんどん好きになっていきましたね。だからやっぱり、重要なのは「人間への興味」ですよね。そしてアナウンサーは、選手や監督に個別に接する機会を得られるわけじゃないですか。もちろん、そこで個人の努力は必要になってきますけど、とても恵まれているわけですよ。そこからどんどん見聞も広がっていくし、実況でしゃべっていても、そういうバックボーンがあるのとないのとじゃ全く違うし、ラジオにはそういうところが如実に出てくると思うんです。いくら「立て板に水」でしゃべっても面白くもなんともないですよね。

──スポーツ実況は、「立て板に水」でしゃべった方がいいと思われがちですよね。

菅野 もちろん、それはあるに越したことはないですし、僕みたいに取っ散らかっているよりはそっちのほうがいいんですよ(笑)。でも、バックボーンっていうのは、後々絶対に結果として出てくると思うんです。それこそが、そのアナウンサーの「パーソナリティ」ですよね。

──そのためには、どれだけ努力をしてその「バックボーン」を増やすかが重要ですよね。

菅野 そうです。取材の量もそうだし、どれだけ選手と話しているかっていうのもそうだし。最近よく思うのは、野球の解説者の方って選手への愛情がしっかりあるんですよね。それがないと聴いていても嫌になりますよね。

──「変わらないもの」とは反対に、放送の現場やプロ野球の現場で「昔と変わったなぁ」という風に、隔世の感を感じる瞬間はどんな時ですか?

菅野 それはね、女性! まず、僕らが現場によく出ていた時は、今ほど女性が球場にいませんでしたから。それこそ、日生球場や藤井寺球場、川崎球場の時には、本当に来場者数を数えられましたからね。しかも麻雀をやったり流しそうめんをしたり、おまけにヤジも本当にすごくて、選手もそれに応えて喧嘩していましたから。とても女性が気軽に足を運べる環境ではありませんでしたね。

──確かに、そういう時代と比較すると、女性の数は一気に増えましたよね。

菅野 近鉄は「仰木マジック」の時代、東京でもすごくファンが多かったんですよ。今の広島とか阪神ほどはまだファンの数もいませんけど、そのあたりから一気に女性ファンが増えましたよね。そして、僕ら取材側でも同じように女性が増えました。それはいいところもあると思うんですよ。若い選手なんかは女性のほうが気軽にしゃべりやすいっていうのもあるし。そんな影響もあってか、一気に増えましたよね。

──しゃべる上でも、女性を意識するようになりましたか?

菅野 それはもちろんありますよ。「ライオンズナイター」では女性のスタンドレポーターに1試合に2回程度スタンドの様子をレポートしてもらうんですけど、最近は特に女性のほうが多いと思います。「中島選手大好き!」とか「涌井さんガンバってー」とかね。あとは、ファミリーも増えましたよね。「ライオンズナイター」をはじめた当時にしてみたら、信じられないですよね。



キャッチフレーズは「パ・リーグの、ど真ん中。」


文化放送歴代の名物アナウンサーたちの名を出しながら...

文化放送歴代の名物アナウンサーたちの名を出しながら、「ライオンズナイター」の思い出、歴史を振り返る菅野アナ。数々の伝説の実況も実演! 快活な美声に酔いしれました。



ラジオで伝えたライオンズ

「ライオンズナイター」、そして名物レポーターとして名を馳せた中川充四郎レポーターについてさらに知りたい方は、『ラジオで伝えたライオンズ 〜監督・選手たちと過ごした二十七年〜』(中川充四郎著/文芸社)もオススメ。



文化放送ライオンズナイター

「パ・リーグの、ど真ん中。」のキャッチコピーでおなじみの「文化放送ライオンズナイター」。クライマックスシリーズも絶賛放送中です。


──文化放送のスポーツ中継で外せないのが、やっぱり「ライオンズナイター」です。以前、エキレビ!で文化放送の斉藤一美アナウンサーにお話を聞いたとき、「ライオンズナイターはパ・リーグナイターです」とお話していたことに、すごい自負を感じました。

菅野 そうですね。パ・リーグ党の方には「ライオンズナイター」を聴いていただいてきた、という自負はやっぱりありますよね。

──そもそも、なぜライオンズという一球団に傾倒するようになったんですか?

菅野 文化放送は、ずっとウィークデイの夜19時〜21時の時間帯もヤング番組をやっていたんですね。在京局でうちだけが野球中継をやっていなかったんです。ところが、僕が入社して間もなくの1978年に西武ライオンズという球団が生まれ、埼玉にフランチャイズができるとなったときに、西武は取材にも好意的だったし、ウチとしても野球中継のキッカケができて、スポンサーもつく、ということで、話がまとまったんですね。でも、いきなり2時間3時間の中継ができるわけじゃなくて、最初は1時間番組としてスタートしました。

──1時間?? 試合、放送内に全然おさまらないですよね?

菅野 なので、「ライオンズDJ」というディスクジョッキー番組ですよ。中川充四郎さんというライオンズナイターの名物レポーターがその頃からいて、あとは女性リポーターも放送席にいてリスナーと話をしながら、中田秀作アナウンサーと坂信一郎アナウンサー(※1)が途中途中に試合経過を挟み込む、というスタイルでした。

※1
元文化放送アナウンサー。現在はフリーアナウンサーとして、プロ野球中継、大相撲中継を中心に活躍中。CMの中での実況ナレーションを務めることも多い。実況中に頻繁にダジャレを織り交ぜることでも有名。


──じゃあ、試合の途中で放送が始まって、途中で終わると。

菅野 そうそう、1時間で終わっちゃうの。それが、次に2時間になって、そのあとようやく全面中継になるんです。今はもう当たり前のように「ライオンズナイター」をやっていますけどね、その中でも様々な変遷の歴史があるんですよ。野球シーズンがオフになるたびに、来ジーズンはああしようこうしようと部内で意見を出しあって。初期は、もうはっきりいってライオンズびいきで。

──そういうキャッチコピーでしたよね。「ハッキリいってライオンズびいきです!」

菅野 それが定着するように、最初は大先輩の戸谷真人アナウンサー(※2)が積極的にいろいろ試していましたね。その頃は、相手のことを誹謗中傷とまでは言わないですが、《あー、捕ってしまった、コンチクショウ!》って(笑)

※2
元文化放送アナウンサー。現在はフリーアナウンサーとして、箱根駅伝を中心に活躍。
菅野詩朗アナウンサーとともに、数々の名(迷)実況でファンが多い。


──そこまで!?

菅野 平気で言ってましたから、《この罰当たりぃ!》とか(笑)。最初はそれを売りにしていたので、ファンの反感を買って戸谷さん宛にカミソリの刃が送られたこともありました。それこそ、広島に初戦引き分けたあと3連敗して、そこから4連勝で日本一になった1986年の日本シリーズのときには、広島市民球場の一番上の放送席で、怯えながらやったこともありましたねぇ。

──第8戦までもつれた日本シリーズですね。

菅野 そういう風に、後発だからこそ独自のカラーを打ち出さなきゃいけなかったんですが、どうしても頭打ちになるんですよね。全部がもう「ライオンズ! ライオンズ!」で、相手のピッチャーがノックアウトされるたびにノックアウトテーマなんていうのが流れて、アナウンサーは《ご苦労サーン、おつかれー》なんてやるでしょ。でも、そのうち無くなっちゃうんですよね、話題が。当時は130試合でしたけど、毎試合毎試合、今日は石毛、明日は工藤……そんなのの繰り返しなんですよ。そうなると頭打ちというか、また同じ話題だよーってなるんですよ。当たり前ですよね。

──そりゃ、そうなりますよね(笑)

菅野 そこから、「相手があってやるものなんだから」という話になって、「相手から見たライオンズ」という視点で相手チームのコメントも入れるようになり、そのうち、「やっぱり、パ・リーグあっての西武ライオンズじゃない?」と。毎年そんな打ち合わせの繰り返しでしたねぇ。まあ、今でももちろん西武には偏ってますけど(笑)、あえて偏るんじゃなくて、気持ち的には普通のパ・リーグの中継をやろうと。だって、黙っていたってどうしたって西武に偏っていくんだから(笑)。タイトル自体が「ライオンズナイター」なんだし、中島のインタビューは毎日流れるし。その中で、しっかりパ・リーグを押し出して行こう!と。

──やっぱり、パ・リーグは文化放送、というイメージはありますね。

菅野 ラジオナイターと言えばジャイアンツ戦。そんな中で、文化放送はライオンズ戦をずっと中継してきて、数字的には苦戦してきました。でも今はパ・リーグが盛り上がってきて、フランチャイズ制も各地に根付いてファンが分散して、パ・リーグファンも多くなってきた。「やっぱりパ・リーグが面白い!」と言って頂ける土壌ができたことで、パ・リーグ中継も盛り上がっています。だから今年の「ライオンズナイター」のキャッチフレーズは「パ・リーグのど真ん中」。敢えてキャッチフレーズに「パ・リーグ」という言葉を入れて、今まで以上にパ・リーグを強く押し出そうとしてやってきていますけどね。



野球が一番面白い時代になっていた


季節の話題を織り交ぜながら...

季節の話題を織り交ぜながら、パ・リーグの歴史、大相撲の思い出を振り返る菅野アナ。1994年の「イチロー・200本安打記録」の瞬間を目撃するために一週間密着したこともあるとか。
「選手みんなが引き上げても、ベンチに一人残ってスパイクの土を綺麗に取ってるんですよ。当時から「メジャー」を意識しているというか、その時からもうイチロー選手は孤高の存在でしたね。」


──パ・リーグと一口に言っても、様々な伝説の試合や歴史がありますけども、特に印象に残っている試合は何になりますか?

菅野 近鉄ファンだったから、というワケではないんですが、1988年の「10.19」、近鉄vs.ロッテのダブルヘッダーは、もう鮮烈な思い出ですね。なんと言っても現場で目撃しましたから。1試合目に近鉄が勝ち、2試合目も近鉄が勝てば仰木近鉄逆転優勝! 引き分け以下なら西武球場で待っている西武ライオンズが優勝という大一番。結局あの年はライオンズが優勝したんですけど、その時のウチはまだ「ライオンズナイター」が始まったばかりのウィークデイナイター後発局だったので、普通の野球中継をやっている局からしたら考えられないことなんですけど、10月はもう、野球の編成が終わってるんですよ!

──あぁ、そうか!!

菅野 もう、信じられないですよね。さすがに今はそんなことはしませんよ。でもその頃は10月に入ったらもうオフ編成!と、当たり前のように。しかもまだ優勝の可能性が残っているのに!

──もったいない!

菅野 そうしたらもう、リスナーからものすごいクレームが来て。うちの局長も大慌てで、やらないわけにはいかなくなったんです。そりゃそうですよね(笑)。でも、その日、川崎球場の文化放送の放送席は、ラジオ大阪(OBC)「バファローズナイター」に貸してしまっていたんですね。もうしょうがないから、その放送席の後ろに脚立を立ててですね、その上にアナウンサーが陣取って、コードで引っぱってきたハンドマイクでしゃべったんです。ちなみに、解説者も当然組んでいなくてどうしよう……と思っていたら、ライオンズナイターの解説でもおなじみの山崎裕之さんがテレビ東京の仕事で記者席で見ていたんです。それで、無理矢理お願いして、山崎さんの分の脚立も用意して(笑)。そうやって、編成をぶち切って途中から中継を始めたんです。これもまあ、珍しいケースですよね。

──さすがは山崎裕之さん! でも、「ライオンズナイター」の文化放送としては、パ・リーグの大一番は中継していただかないと。

菅野 でも、今振り返ると、僕が入社した1975年から現場に最もよく出ていた80年代にかけてが、野球が一番面白い時代になっていたと思うんです。それまでずっと巨人の時代だったのが、1974年にV9が途絶え、ちょうど長嶋第一次政権がはじまって巨人に定岡正二が入団して。そのときに、広島カープが古葉監督で初優勝。他にも上田・阪急、広岡・ヤクルト、と群雄割拠で面白い胎動が始まって、その象徴が、79年・広島vs.近鉄の『江夏の21球』ですよね。そして80年代に入ると西武も広岡監督になってから強くなって、森監督で常勝軍団になり、黄金時代到来。対するは近鉄・仰木マジック、そして「10.19」。

──怒濤の展開ですね。

菅野 この辺の流れがもう鮮烈なんですよね。野球は、今ももちろん面白いんですけど、自分も現場で見ることが多かったこの時代がどうしても印象に残ってるんですよねぇ。

──その歴史を実際に目撃してきた、というのがうらやましいです。

菅野 その同時期を歩んできたから、今でも秋山幸二とは親しいし、工藤公康は今、文化放送で解説をしていただいているし、ナベQ監督とも親しいし。そういう時に出てきた選手ですからね。秋山監督は、チームとしては西武のライバルなんですけど、やっぱり、どこかで応援したい気持ちはありますよね。

──わかります。

菅野 相撲でもそうなんですよ。僕が追っかけていた時代の力士たちが今みんな親方衆になり、北の湖は理事長ですし、今でも相撲は見に行くと楽しいですね、知っている人がたくさんいるから。相撲は、年3場所は東京ですけど、その他は名古屋・大阪・福岡とあって、それぞれに趣があるんですよ。大阪場所はいつも満員だし、福岡は11月で一番食べ物がおいしい季節だし。相撲は6時過ぎには取材も終わっちゃうので、その後の夜が長いんですよ! 力士たちと飲みに行って、でも朝稽古にはちゃんと早起きして取材に行って。そういう関係性から、信頼関係も生まれていくんですよね。

──菅野さん、楽しそうですねぇ。

菅野 なんていうんでしょうねぇ。遊んでたみたいなもんですけどね。

──でも先ほど、放送の中に歳時記を織り込みたい、というようなお話がありましたが、今の話そのものがもう歳時記にもなっていますよね。

菅野 そうですそうです。今年も日本シリーズの季節になりましたが、かつては昼間にやっていて、西武ライオンズ球場に夕日が落ちてきて「あぁ、これでもう野球シーズンが終わるんだなぁ」としんみりして来て。そういう季節の流れをいつも感じてやっていましたね。



自分のやりたいことをハッキリ持っていること


自身の迷・名実況も交えながら...

これまでのアナウンサー人生とこれからの実況アナウンサーあるべき姿など...

1時間30分みっちり語っていただいた菅野アナ

文化放送定年退職おつかれさまです

自身の迷・名実況も交えながら、これまでのアナウンサー人生とこれからの実況アナウンサーあるべき姿など、1時間30分みっちり語っていただいた菅野アナ。文化放送定年退職おつかれさまです。


──今、若手スポーツアナが少ない、という話をよく聞きます。将来アナウンサーになりたい人、もしくは若手アナウンサーに向けて、これからの実況アナウンサーはこうあるべき、というようなメッセージはありますでしょうか?

菅野 今のアナウンサーはスポーツ実況以外でも色んなことをやらなきゃならないですよね。僕らの頃は、スポーツはスポーツで専念させてくれた、とてもいい時代だったと思うんですが、今、ちょっとそのボーダーがハッキリしなくなっていますよね。それがすごく心配です。地方局の場合は特にスポーツだけをやっているわけにもいかないし。

──ニュースも、報道も、バラエティも、何でもこなせることがアナウンサーとしては求められるのかと思っていましたが。

菅野 もちろん、それがアナウンサーなんですけども、ただやっぱり、「何が自分のメインなのか」という部分が今、とても曖昧になっちゃっていますよね。僕らの頃はメインを堅持させてくれましたからね。その中で、あれもやってみよう、これもやってみよう、と色んなチャレンジができた。だから、これからアナウンサーを目指すのであれば、「スポーツ実況をやりたい!」「私は報道をやりたい」「情報番組をやりたい」ということを鮮明に打ち出す必要があると思います。もちろん宣言したからやらせてもらえるわけじゃないですよ。でも、そういう姿勢が必要なんじゃないかと。そうしないと、どんどん流されちゃうし、場合によってはアナウンサーでも部署移動がありますから。僕も一度、アナウンサーを外れて、スポーツ部のディレクターを務めたこともありますから。

──自分の芯になる部分がないと、流されてしまって本当にやりたいことはできないんですね。

菅野 今、放送業界っていうのは先行きがまったく不透明です。そういう時代だからこそ、「スポーツをやりたいんだ!」と宣言すること、自分のやりたいことをハッキリ持っていることが特に必要なんじゃないですかね。アナウンサーっていうのは極めて特殊ですから、尚更、そういうのが必要なんじゃないでしょうか。

──では最後に、菅野さん自身の「これから」も教えてください。文化放送退社後のご予定は?

菅野 私は、ずっとスポーツを担当して、オリンピックにも行かせてもらって、色んなスポーツを担当できたので、むしろここでスポーツには一区切りをつけようかなと。今考えているのは、スポーツとは離れた世界で、ラジオパーソナリティっていうんですかね、そのポジションを目指してみたいと思っています。口で言うのは簡単で、でもそんなに簡単なもんじゃないんですけど。でも、せっかくなんで新たな道をチャレンジしてみようかなと。一回くらい、ダメ元でも。



次号予告


「パーソナリティ菅野詩朗」楽しみにしています!

「パーソナリティ菅野詩朗」楽しみにしています!


「直観」を駆使して数々の名場面を実況してきた菅野アナウンサー。なんともいえない愛嬌に取材陣はずっと引きこまれてました。おつかれさま! そしてつぎはどこで名調子を聞けるのか、楽しみにしてます。次回(11/1公開予定)もひきつづきオグマナオトのターン。TBSのあのアナウンサー登場の予定です、ご期待ください!

「お前の目玉は節穴か」では、おもしろい取材企画を募集しています。ブログなどで具体的に企画をはじめているかた、道場破りもありです、ぜひお問い合わせください。プロアマ問いません。編集担当のツイッター @kaerubungei までどうぞ。

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