高山ふとんシネマ
第三十回 「さわれないもの」
 うちの猫は、「リリ」といった。
 小学校1年生の時、迷い込んできたのをつかまえて見せにいったら、祖父が気に入って名前をつけてくれた。大人より少し若いくらいの、メス猫だった。
 その時からリリは、私の猫になった。
 「ひょっこりひょうたん島」みたいな黄土色の島を、背中のところにひとつだけ浮かべた白い毛並み。長い尻尾の先が、かぎカッコの形に曲っている。指と指の間の肉も、毛の薄い耳の先っぽも、鼻先から続く口もとのスジも、とてもきれいなピンク色をしていた。
 同じピンクでも、少しだけ濃い色の舌をチロリとはみ出させたまま、猫はときおり呆然としていることがあった。
 そのビロードのような花びらの先を、私はつまむ。慌てて首を振り、いやいやをして飛んで逃げる猫は、そんな時ですら決して爪を立てなかった。
 朝、学校へ行く時には玄関先までついてきた。帰ってくると、前足をそろえて電信柱の下に座って待っている。大勢の子供らの中から私をみつけ、「ニャア」とひと声鳴いて、前になったり後ろになったり、尻尾をおっ立てながらついてきた。
 宿題を忘れても、学校でいじめられても、そばにいるだけでリリは超特急で私を理解した。いつだって、たったひとりの味方だった。
 『おおきいそら』を読んでいたら、そんな何十年も遥か昔のことを思い出した。

 「そらが だんだん あかるくなって、あけの みょうじょうが ひとつのこった。
  そらに くもが ながれて、ちじょうに かしわでが ふたつひびいた。
  そらに くもが ながれて、ちじょうで こいぬが はねた。
  そらに くもが ながれて、ちじょうで ねこが けんかした。
  そらに くもが ながれて、ちじょうで カタツムリが はった。」
 
 地上のあちらこちらで起こっている、生き物たちのささやかな営み。
 草花が生い茂り、果物は熟して木から落ち、虫たちもうごめいている。洗濯物がパリパリに乾き、湯気を上げながら台所でごはんの支度をしているお母さんの窓ごしに、ヤモリがはりついている。
 それを見下ろしている空も、ページをめくるごとにどんどん変わる。
 沸き上がり、むくむくと湯気を立て、爆発寸前のように渦巻く雲。燃える太陽の波紋が、台風の目みたいに広がってゆく。

 著者の木葉井悦子さんは、私が働いていたレストランのお客さんでもあったから、彼女の顔かたちを知っている。一心同体のように可愛がっていた、大きなシェパード犬がいたことも知っている。
 犬を連れて地面をのしのし歩き、遊びまわっている絵本の中の女の子は、無邪気な子供の姿をしているけれど、きっと木葉井さんだ。
 女の子と犬が頬を寄せ合って、「おおきいそら」を見上げている。ほとんど実物大に描かれたふたつの大きな顔が並ぶそのページで、いつも私は、息をのむ。
 盟友同士のふたりは、人がさわることのできないおおいなるものを同時に見上げている。ふたりの目の中には、同じ空が映り込み、時間が止まったようなその瞬間。体の力がぬけ、泣いているようにも見えるこの女の子の顔は、完全に大人の木葉井さんだ。
 雑多なものだらけの地上から、「おおきいそら」を見上げる時、私もきっとそんな顔をしているだろう。リリと一緒に、縁側から見上げていたのと変わらない気持ちで。

作品紹介
『おおきいそら』 木葉井悦子 ほるぷ出版
高山なおみ プロフィール
1958年静岡県生まれ。レストランのシェフを経て料理家に。書籍、 雑誌、テレビなどを活動の場とし、料理だけでなく文筆家としての顔も持つ。著書に『帰ってから、お腹がすいてもいいようにと思ったのだ。』(文春文庫)、『高山なおみの料理』(メディアファクトリー)『じゃがいも料理』(集英社)、『たべる しゃべる』(情報センター出版局)、絵本『UN DEUX』(絵/渡邉良重/リトルモア)、ブログの日記をまとめた『日々ごはん』、『野菜だより』、『おかずとご飯の本』『今日のおかず』『チクタク食卓(上・下巻)』(以上アノニマ・スタジオ)など。『ホノカアボーイ』では、はじめて映画の料理を担当。4月中旬には『十八番リレー』(NHK出版)が発売された。『日々ごはん12』は8月下旬に発売されたばかり。
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