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部屋に戻ると、旦那のT君がいて、娘の腰をもんでくれていた。 目盛りは80まで上がり、痛がり方もさっきより激しくなっている。あのあと、助産婦さんが来て、また点滴の量を増やしたそうだ。 娘は、もまれながらお風呂にでも浸かっているみたいに、「ハ 」と息をつく。 どんな風に痛いのか聞くと、「骨盤が開こうとして、腰の肉がその力に押されているような感じ」と言いながら、また顔をしかめた。 痛がり始めると、T君がもんでいる手を放すことに、しばらく見ていてようやく気がついた。そうか、痛い時には触られたくないんだ。 かみしめるようにして下を向き、唸っている娘。拳固に握った手が、ブルブルブルブル震えている。 部屋の空気が熱っぽい。 5年ほど前に、友人のお産に立ち会った時のことを思い出していた。 甘酸っぱいような汗の匂い、激しい息づかい。 陣痛がだんだん激しくなるにつれ、夜中の病室の空気が濃くなったような気がした。 私は、とちゅうで猛烈に眠たくなった。 寄せては返すように、痛みの波がやってくる。 目盛りは、90を超えている。 「ハ 」「ウ !」 目をつぶっているうちに、いつしか私も、娘に合わせて呼吸していた。 苦しいと息が深く吸えなくなるから、たっぷり吐ききって、それから体いっぱいに吸い込んだ。 気がつけば、椅子に腰掛けた私の太ももは開き、リノリウムの床をしっかり踏みしめている。体の力が抜け、目をつぶったまま、娘の痛みに寄り添っている。 娘の呼吸が浅くなると、お手本を示すようにやってみせた。子供など、産んだこともないくせに、陣痛の痛みをしのぐ術を、自分は知っているような気がした。 もともと備わっていたものが、時間とか、文明とか、決まりとか、約束とか、いろいろなものをかなぐり捨ててやってきた。 3時半。 息使いがさらに荒くなり、目盛りは100を超えた。 気分が悪くなって少し吐いた娘は、白い顔をしながらも「ここからはひとりになりたい」ときっぱり言う。 5時。 こっそり覗きにいくと、カーテンの隙間から、さっきより大きなうめき声が聞こえた。 壁に向かって座り、右手をお腹に当てて、左手で力強く壁を押さえつける。 痛みの合間に水筒の水を飲み、汗をふき、すぐにやってくる次の痛みに備えている。 アマゾンの原住民の少女が、赤ん坊を産み落としに、ひとりで森の奥へ分け入ってゆく。 待っている間、私はおにぎりばかり食べていた。 きのう、家を出る時、駅弁を買おうと思って楽しみにしていたのに、車内販売のワゴンにはカツサンドしか置いてなかった。 牛タンの薫製と缶ビールを買い込んだ夫の隣で、ごそごそとカツサンドの包みを開けていたら、どこからか香ばしい匂いがしてきた。 見なくても分かるその匂いは、おにぎりだ。 パリッパリッのまっ黒い海苔と、三角の白いご飯。パクッとやると顔を出す、赤い梅干し。 夫は、階下へ何度か降りた。 いちど様子を見にいったら、玄関の向こうの暗がりで、傘をさしたまま煙草を吸っていた。 夕方の6時51分、産声が待ち合い室まで届く。 「オギャー」ではなく、「キャ」みたいな、濁音じゃない音。 透き通った、明るく華やかな女の子の声だった。 立ち会っていたT君が、無事に生まれたと報告にきた。 娘は、産み落とした瞬間、「五体満足?!」と助産婦さんに向かって叫ぶように確かめたそうだ。 病院の窓から見える、「お風呂センター」のネオンが気になっていたので、夫と私は帰りに寄ることにした。 タオルを買って中に入ると、風呂場はとても広く、ジェットなんとかいう泡の湯舟や薬湯、小さいけれど露天風呂まであって、けっこう賑わっていた。 でっぱったお腹のまん中に、縦に切れ目のあるおばちゃん。あばら骨にしなびた乳房をぶら下げた、陰毛もまばらなおばあちゃん。甘食みたいにとがった乳房と、ぺたんこでシミひとつないすべすべのお腹。 タイルの上をのしのし歩いている女たちの体は、古いのも新しいのもみな堂々として、白い湯気を上げていた。 |
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1958年静岡県生まれ。レストランのシェフを経て料理家に。書籍、 雑誌、テレビなどを活動の場とし、料理だけでなく文筆家としての顔も持つ。著書に『高山なおみの料理』(メディアファクトリー)『じゃがいも料理』(集英社)、『たべる しゃべる』(情報センター出版局)、絵本『UN DEUX』(絵/渡邊良枝/リトルモア)、ブログの日記をまとめた『日々ごはん』、『野菜だより』、『おかずとご飯の本』(以上アノニマ・スタジオ)など。4月に『今日のおかず』、5月に『チクタク食卓・上巻』、8月に『日々ごはん(11)』(アノニマ・スタジオ)がそれぞれ刊行。『ホノカアボーイ』では、はじめて映画の料理を担当した。近著に『チクタク食卓 』上・下巻。4月には『十八番リレー』(NHK出版)が発売される予定。 http://www.fukuu.com/ |