こないだ、脳関係の本を読んでいたら、「女の人は幼い頃から、あの人みたいなメイクをしたい、とか、あのモデルのこういう着こなしをしてみたい、など、マネるというレッスンが自然に身についているから、女性の方がモノマネはうまいかもしれない」というくだりがありました。

 私は(なるほどね!)と、ものすごく腑に落ちた気がしました(自分がうまいって言ってるわけじゃないですよ)。

 そう言われてみれば、モノマネを職業になさっている男性の皆さんは、なんとなくですが、どことなくオカマっぽい、というか女性的なムード、気配が、そこはかとなく漂っているのです。

 俺は男だ! というツワモノほど、モノマネなどしない、またできないカンジ。芸能の歴史としても、歌舞伎の「女形」もひとつのモノマネと言えるかもしれませんが、大勢の人の前でモノマネをする、というのは、やっぱりどこか中性的でないとできない事なのかもしれませんね。酒井さんが言うように、私のライブにゲイのお客さんが大勢で来てくださるのも、そこに関係性があるのかなあ、なんて思ったりして。

 ところで先日、ライブ映像用に久しぶりに顔マネ写真を撮影しました(誰になってみたのかは、そのうちのお楽しみに)。

 私は、いったいこれって似てるのかなあ?と思ったけれど、まわりがクスクスしてて、終わりころに「2ショット写真を!」などと言われたので、思うほど悪くはなかったのかもしれません。

 写真によって顔がまるで〇〇みたいに見える、という目の錯覚、というものはなぜだか無意味に、また無性に面白いもので、南伸坊先生の作品をながめていても、その謎は深く、いまだに謎めいたままです。

 しかし、それなのにです。

 街角のプリクラや最新のアプリを使って、目を大きくしたり、顔を小さくしたりと、理想的な自分に近づけるやつ。ご存知ですよね?

 あれは最初めっちゃハッピーなように思えるのに、「やがて哀しき」みたいな世界に陥ってしまうのも、これまたなぜなのか知りたくなります。ふと知人の撮ったプリクラのその手合いの一枚を発見してしまうと、まるで見てはいけないものを見てしまったかのようで、ハッとします。

 はかない一瞬の夢、的な感じというか。かえってコンプレックスみたいなものが浮き彫りになってしまうものなのでしょうか。

 電車内でメイクする姿をとてもイヤがる人が多い一方で、若い人がまったく気にしていないように見えるのは、(こういうプリクラや整形だってあるし)という気持ちが、化粧へのタブー感などを薄れさせてしまっているからかもわかりません。

 ところで、いつも思うのですが、化粧というものはたいがいがどこかうら哀しいものがありますよね。

 濃ければ濃いほどに人間はもの哀しい。

 ビスコンティの映画「ベニスに死す」のラストに、美少年にふられた中年の男が泣くシーンがあるのですが、その時にアイラインがとけ、頬を黒い線となって落ちて流れたのです。

 それは本当に、涙以上に見てはいけないものがあるんだな、って感じがしましたし、化粧とはみじめなもの、と感じるのは世界的に同じなのかいなあ、と感じたものでした。

 さすが世界的な巨匠。巨匠って、いつもあんがい残酷上手ですよね。

 残酷と言えば、ある年齢を過ぎた女性にとって一番哀しいのは「すっぴん」のはずなのに、「芸能人のすっぴんを!」という番組のひとコマを、たとえワクワクして見てても思ったほど笑えないのは、自然な哀しさが、メイクをほどこす哀しさほど強力でないからかもしれません。

 老いは、思うよりも受け止められやすいのかもしれませんね。

清水ミチコ

清水ミチコ
Shimizu Michiko

岐阜県生まれ。タレント。
新作ネタDVD『私という他人』、日記エッセイ『主婦と演芸』(幻冬舎)が発売中。

酒井順子
Sakai Junko

東京都生まれ。エッセイスト。
近著に『この年齢だった!』『下に見る人』『もう、忘れたの?』などがある。「週刊現代」「小説新潮」「別册文藝春秋」「週刊文春」などで、幅広く執筆中。近著に『泡沫日記』(集英社)、『そんなに、変わった?』(講談社)など。

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