岐阜の消防団員が東京で一番印象的だったという町、錦糸町

 タイ人僧侶が表紙を飾る仏教の雑誌、カセットテープに吹き込まれたタイの音楽テープ、原材料が想像つかない曲がりうねった揚げ菓子、ツバメが飛ぶ様が描かれた缶ジュース、ビニール袋に入れられた汁気の多い惣菜……日本では見慣れない品物が並ぶ。タイ専門の食料雑貨店だが、店内の半分のスペースは食堂にもなっており、20名程が座ってタイ料理を食べることができる。客は僕以外に誰もいない。タイのビール「リオ」を飲み、エビや豚のひき肉と唐辛子が入った辛い春雨サラダ「ヤムウンセン」を食べていた。ひぃひぃ言いながら。
 テレビからニュース番組が流れていることはわかるが映像は見えない。店内奥の壁に設置されているようだが、その前に置かれた陳列棚でテレビが隠れてしまっている。並べられた食材の合間からテレビの存在がかろうじて確認できる程度。あの位置では恐らく店のどこに座っても見えないだろう。
 エプロンの上からパーカーを羽織った中肉中背のタイ人の女主人は、そのテレビをキッチンと繋がったカウンターの端にもたれかかって眺めていた。彼女が立つ場所からはテレビが見えるようだ。歳の頃は40歳半ばくらいだろうか。小さな顔と鼻の低さはタイ人っぽいが、顔の作りは探せば似ている日本のおばちゃんがいそうだ。

「東京の錦糸町は外国みたいな場所やったでなぁ」
 僕が住む岐阜で飲んでいる際、ある消防団員が興奮気味に語ったことが、きっかけだった。銀座でも浅草でもなく、新宿や渋谷でもない、錦糸町という地名が出てきたことが興味深かった。彼の目には他のどの地域よりも外国人が目に飛び込んできた町だったようだ。現在、僕は月に一度は東京に通っているので滞在の合間に行ってみることにした。
 錦糸町駅に降り立ったのは約二十年ぶり。南口は再開発が進み、東京スカイツリーが見えることで二十年前とは全く違う印象を受けるが、北口はさほど変わらない。歩道橋とビルの位置関係から大阪の梅田駅前をこじんまりさせたような感覚を憶える。この街は、ときに「東京の大阪」とややこしい呼び方をされる。
 生活感が漂うロシア系白人の母と小さな娘の親子を見かけ、そういえば二十年前、錦糸町の駅前にはソビエト映画専門の映画館があり、歓楽街にはロシア人専門のパブがいくつもあって、ロシア人をよく見かけた。しかし、この日、ロシア系白人を見かけたのはその親子一組だけだった。それよりタイ人やフィリピン人など東南アジアの人々が目についた。データで見ると墨田区在住の外国人比率は3パーセント強と東京23区の中では平均的な数字である。外国人が多いイメージがある新宿区のように住民の9人に1人が外国人という街に比べれば少ない。しかし、錦糸町を歩いていると消防団員が言っていたように外国の空気を強く感じる。新宿は街自体に外国の空気感でさえも飲みこんでしまうようなパワーがあるが、錦糸町は外国の空気が余白に入り込んでくるように感じられる。きっと住宅街の中に、ぽつりぽつりと外国の料理店が現れ、ぽつりぽつりと外国人に会うからなのだろう。そして余白に一番、入り込んできたのがタイの空気感だった。タイ料理屋が多いだけでなく、タイ式マッサージ店が多いことも理由なのだとは思う。

一品500円。薄暗いがひとりメシには悪くない

 北口にも南口にも、タイ料理屋はいくつもあり、中にはレストランの有名ランキングサイトで一位に輝いた店もある。ただ、店先に貼りだされたメニューを見ると一皿が1000円以上の店が多く、ひとりメシで入るには少々高い。きっと量が多いのだろう。それを物語るかのように、ガラス越しに見える店内にはグループの客やファミリー客ばかりで、ひとりメシの客は見当たらなかった。
 そんな中、タイ料理屋と雑貨屋が一緒になったこの店を見つけた。一品が500円程度とひとりメシとしては悪くない。店内の薄暗い蛍光灯が古臭く怪しげで、タイの田舎町にありそうな店というのも魅力的だった。
 店内の扉を開けた瞬間、タイ独特のナンプラーと酢が混じったような匂いが鼻をつく。テレビに見入っていたタイ人の女主人に笑顔の迎え入れはなかったが、ぎこちない発音の「イラッシャイマセ」の声は、かけてもらえた。入口に一番近い席に座り、女主人からメニューを受け取る。その場で目に留まったタイビール「リオ」を注文する。日本で「リオ」が置いてあるタイ料理屋は珍しい。

 女主人は注文したヤムウンセンを机に置き、辛いソーセージ「ニーム」の追加注文をキッチンに伝え終わると手持無沙汰になったのか再びキッチンと境のカウンターの端にもたれかかってテレビを観始めた。テレビが好きというよりは惰性で観ている感じもする。それでもこうした時間の積み重ねで日本語を憶えていくこともあるのだろう。 
 レジ前の公衆電話が鳴る。この公衆電話は店の固定電話にもなっているようだ。彼女は受話器を取り、相手を確認した後、タイ語で話し始める。公衆電話の隣にはタイ語で書かれた国際電話のかけ方らしきポスターと「禁煙」というタイ文字と禁煙マークが描かれた紙が貼られている。きっと、この店はタイ人の溜まり場にもなっているのだろう。壁には国王らしき大きな写真も飾られている。タイでは国王に対する人気が老若男女問わず高い。しかし、この店にかかっている国王の写真は現在、即位しているプミポン国王とは明らかに違う。自宅の仏壇の上にかかっている先祖の写真に混ざっていてもおかしくないような古臭さがあった。

 彼女が電話で話しているタイ語は、僕が店に入った時の「イラッシャイマセ」より明らかに高いテンションである。時折、鼻から抜けるタイ語独特の語尾が耳に心地いい。
 シンハービールのラベルがプリントされたエプロンに、黒のキャップ帽をかぶった小柄なタイ人中年男性がキッチンから出てきて、テーブルにネームを遠慮がちに置いた。彼が料理を作っているようだ。女主人の旦那なのだろう。顔はムエタイ選手にでもいそうなごつい顔だが優しそうだ。
 「うちのカミさんが電話中なので出てきました」
 とでも言いたげで、少し照れくさそうに笑い、再びキッチンへと戻って行った。
 ヤムウンセンも辛いが、このニームもガツンと辛い。にんにくの香りがほんのり漂う生ハムソーセージの中に金太郎飴のように唐辛子がそのまま挟まれている。辛いからビールが進む。しかし、ビールを飲むと口の中は更に辛さが増し、またビールを飲むという悪循環。舌を出して、ひぃひぃ言ってみるが変わらない。当たり前か。決して辛さに強くないが辛い物は好きなのだ。

「バナナのつぼみの水煮」はどうやって食べるのか?

 電話が終わった彼女にチャンビールの小瓶を追加で頼む。
 「ハ〜イ」
 電話の前より明らかに一段階、テンションがあがっている。あのテンションなら人見知りの僕でも質問できそうだ。壁に貼られた国王の写真について聞いてみよう。
 その前にトイレだ。陳列棚の奥にあるトイレは日本で見慣れた洋式トイレだが、便器の隣にはゴミ箱が設置されている。タイ人は用を足した後に拭いたトイレットペーパーをゴミ箱に捨てる習慣がある。下水事情がまだまだ悪い地域が多く、トイレットペーパーを流すと詰まってしまうからだ。日本の下水事情ではそんなことはないと思うが、習慣というのは早々、変えられるものではないのだろう。中国で口に入れた魚の骨は皿ではなくテーブルの上にそのまま吐きだすんだよと教えられても、皿の上に出してしまった僕のように。
 トイレから出ると気になっていたテレビが目に留まる。まだ新しい液晶テレビは陳列棚と壁に挟まれた狭い位置で息苦しそうに客席を向いていた。設置場所はここしかなかったのだろうか。改めて店内を見渡す。確かに道路に面した客席はガラス張りだし、片側はキッチンだし、その対面は冷凍食材が入った大きな冷凍庫が並んでいる。消去法で考えていくとテレビが掛けられそうな場所はここしかない。まぁ働きながら女主人が観ることが目的なら、これでよかったのだろうか。それにしてはテレビのサイズが大きい。大きなお世話ですね。
 陳列棚に目を移し、商品を手にとってみる。ツバメの絵が描かれていたジュースの商品名の日本語訳は「ツバメの巣風ドリンク」。「風」というのはどういうことなのだろう。ツバメの巣は入ってないってことか。ツバメの巣の味に似たドリンクということなのだろうか。醤油に見える瓶に貼られた日本語訳は「砂糖入りコーヒー」。原料はコーヒーミックスと砂糖。コーヒーではなく、コーヒーミックスとは何なのだろう。少なくともコーヒー豆ではない。ジャックフルーツやたけのこの缶詰と並んで、想像もつかない缶詰が目に留まる。クイズの答えでも見るかのように後ろに書かれた日本語表示を見るとバナナのつぼみの水煮と書かれている。いったいどうやって食べるのだろう。しかし、食べ方は何も書かれていない。グリーンカレーの缶詰には食べ方が書いてあるのに。これこそいらない気がするが。こうして陳列棚を眺めているだけでも楽しい。

ラーメンに砂糖3杯入れてもいいのだ

 ユニクロの袋を抱えた若いタイ人女性二人組が入ってきた。入ってくるなり、トップギアのテンションで女主人とタイ語で話し始める。常連客なのだろう。ひとしきり話した後、彼女たちは店内にいる僕に気づき、一瞬、判別するような顔つきになった。僕の顔が東南アジア系の顔だからだろう。咄嗟に日本人と判断したようで、すぐにまたタイ語の会話に戻った。彼女たちの一人は陳列されている曲がりうねった揚げ菓子を手に取り、袋を開けると、買い食いする子供のように食べながら、僕の座っていた席の隣のテーブルを陣取った。
 席に戻る際、国王の話を聞こうと思っていたが、タイミングを逃してしまったようだ。彼女たちの会話に割ってまで質問する勇気は僕にはない。カウンターの前に立つ女主人と客席に座った女性二人組が会話をしている間を気持ちだけ邪魔しないように少し腰をかがめて横切り、いそいそと自分の席に戻る。既に注文した追加のビールは机の上に置かれていた。彼女たちのきつい香水を嗅ぎながら、ビールを流し込む。
 会話が途切れる様子は全くない。まるで子供が学校の出来事を話すかのように女性二人組は話し続け、女主人はテレビが気になりながらも合の手をいれる日本のお母さんのように見える。彼女たちの机にタイの酸っぱい焼きそば「パッタイ」と「タイラーメン」が運ばれてくる。一緒に置かれたナンプラー、酢、砂糖、ゴマ、唐辛子など6種類の調味料が入った容器を開け、彼女は何の迷いもなく調味料をざくざく入れる。タイの食堂では味付けは最後に個人で調整するものという考えがある。彼女のようにラーメンに砂糖3杯入れる人も決して珍しくはない。これもその国の味覚である。僕も最後にグリーンカレーかタイラーメンを食べるつもりだったが、ヤムウンセンとニームで予想以上にお腹がいっぱいになってしまった。
 急にテレビの音が聞こえ始める。彼女たちは食べ物を与えられてから会話がなくなったからである。僕はビールを飲み干し、席を立つとレジに向かった。1万円札を出しながら、写真が国王かどうか尋ねてみた。
 「ソウデス。デモ、イマジャナイ。5バンメ……」
 釣り銭を渡しながら、国王の説明が始まった。現在のプミポン国王(ラーマ9世)から4代前のラーマ5世。19世紀後半から20世紀にかけて即位した国王で現代のタイの基礎を作った王様らしく現在でもタイでは人気が高い。そして僕が訪れた前日(10月23日)が、彼の命日であり、その日は今でもタイでは記念日として祝われる……奥様の説明は止まらなかった。まるで下町のおばちゃんのようだ。しかし、そのおしゃべりも少し大きな音が聞こえると目線がテレビに行った。そうか。テレビはレジからも見えるんだなぁ。
イシコWebマガジン幻冬舎
世界一周ひとりメシ in JAPAN

イシコ Ishiko

一九六八年岐阜県生まれ。静岡大学理学部卒。女性ファッション誌、WEBマガジン編集長を経て、二〇〇三年(有)ホワイトマンプロジェクト設立。五十名近いメンバーが顔を白塗りにすることでさまざまなボーダーを取り払い、ショーや写真を使った表現活動、環境教育などを行い話題となる。また、一ヵ月九十食寿司を食べ続けるブログや世界の美容室で髪の毛を切るエッセイなど独特な体験を元にした執筆活動多数。著書に『世界一周ひとりメシ』(幻冬舎文庫)がある。

世界一周ひとりメシ in JAPAN
バックナンバー

第18回 遊牧民の血が騒ぐモンゴル人店主(東京都新宿区)
第17回 韓国料理店で刺身を食べる(大阪府大阪市)
第16回 ロシア流酒の呼び方と飲み方(福岡県福岡市)
第15回 辛くすることはできても甘くはできないカレー屋(福岡県福岡市)
第14回 インド料理激戦国日本で鳥栖に辿り着いたカレー職人(佐賀県鳥栖市)
第13回 世界一周してきてもウイグル料理の特徴を知らない(埼玉県さいたま市)
第12回 ぜったいひとりメシに向かないトルコ料理店(東京都荒川区)
第11回 謎のメモが導いた日本で唯一のスロヴェニア料理店(京都府京都市)
第10回 焼鳥屋でスウェーデン人が働く理由(東京都杉並区高円寺)
第9回 一妻多夫な生活を想像しながら(愛知県名古屋市)
第8回 アフリカの餅(東京都新宿区)
第7回 日本の国教がイスラム教になる可能性(静岡県静岡市)
第6回 ミャンマーの少数民族と怖い話(東京都新宿区高田馬場)
第5回 中国語でしか予約できない中華料理店(愛知県名古屋市中区)
第4回 年老いたドイツ人店主の料理店は果たしてぼったくりなのか?(東京都港区六本木)
第3回 美人姉妹のいるイラン料理屋でひとりメシ外交(愛知県名古屋市東区)
第2回 東京のリトルインディアは本当にインド人で溢れているのか?(東京都江戸川区西葛西)
第1回 “東京の大阪"でテレビの位置が気になるタイ料理屋に入る。(東京都墨田区錦糸町)

タイでは、「チャン」、「シンハー」に続いて、知られているビール「リオ」だが、日本のタイ料理屋ではなかなか見かけません。

タイ語でしか書かれていない「禁煙」の文字

タイ語でしか書かれていない「禁煙」の文字。タイ人の喫煙率男性約36%、女性約2%(2011年タイ統計局調べ)。ちなみに日本は男性約32%、女性約10%(2011年厚生労働省調べ)。

ニーム ニーム

唐辛子がそのまま挟まっているソーセージ「ニーム」。

辛い春雨サラダ

色味は地味だが、辛い春雨サラダ「ヤムウンセン」。

ほんのり海老の味がする揚げ菓子

ほんのり海老の味がする揚げ菓子。

ツバメの絵が描かれたツバメの巣風ドリンク

ツバメの絵が描かれたツバメの巣風ドリンク。あくまで「風」でツバメの巣は入っていません。

バナナのつぼみの缶詰

バナナのつぼみの缶詰。友人にお土産で上げたら困惑していました。

醤油に見える飲み物はコーヒー

醤油に見える飲み物はコーヒー。原材料はコーヒー豆ではなく、コーヒーミックス。コーヒーの味はするんですけどね。

タイのビール

・シンハービール
・チャンビール
・リオビール
2002年の日韓ワールドカップ以前はシンハービールがタイのシェア1位だったが、ワールドカップ以降はチャンビールがシェア1位になっている。日本でリオビールを置いているタイ料理屋は少ない。チャンビールはアルコール度数が日本のビールより少し高く6パーセントを超える。タイでのビールの値段の順番はシンハー、チャン、リオ。

チャン

90年代半ばまで「シンハー」がシェア90%を超えていたが、現在、「チャン」が追い抜き、シェア約67%。シンハーは約13%。

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