無表情なインド人の老人は深遠だ

 シンガポールにリトルインディアと呼ばれ、地下鉄の駅名にもなっているインド人街がある。そこでスーツを仕立てたことがあった。普段、スーツなんて着る機会もないのに。一緒に旅に行っていた人々と飲んだ勢いから頼んでしまったのだ。しかもそのスーツは学生服の詰襟のようなマオカラー。インドの初代ネルー首相が着ていたことからネルー・ジャケットとも呼ばれ、インド風の背広として世界中に広まった服である。マオカラーのジャケットを羽織ったインド人男性を見ながら当時のことを思い出した。麻色のかなりくたびれたジャケットと同系色だが素材の違うチノパンに、底がすり減った黒のナイロンスニーカー。昔はよそいきのジャケットだったものを、今は普段着として着用しているのだろう。

 本屋や八百屋、クリーニング屋が並ぶ商店街が凝縮したような小さなショッピングモール内の端で営業しているインド食材専門店。やる気がなさそうなインド人男性が肘をつきながら店番をする店の入口にはモニターが置かれていた。映し出されているのは仰向けになったインド人男性。顎の下にはレモンが置かれている。カメラがひいていくと脇に剣を持ったインド人男性が立っており、振り落とす。そして、顎の下のレモンを切るといういかにもインドらしい大道芸である。その映像をマオカラーのジャケットを着た彼が無表情で眺めていた。顔の皺から想像すると六十代半ばは過ぎているだろう。

 その顔は、懐かしんでいるようにも、嫌な想い出を噛みしめているようにも、自分の置かれている立場を淡々と受け入れているようにも見える。無表情なインド人の老人というのは、なぜか様々な想像をさせてくれるから不思議である。

 しかも彼の隣にはサリーを頭から巻いた女性が立っている。彼女も同じく無表情。額には赤い点が押されている。結婚しているヒンズー教徒の証。きっと彼の奥様なのだろう。大道芸の映像に関して互いに感想を述べるわけでもなく、ただ単に映像を眺めているだけだった。

 西葛西で有名な老舗インド料理店のオーナー夫妻も、これくらいの年齢なのだろうか。在住のインド人であふれていると思って立ち寄った店はインド人どころか客は誰もいなかった。僕が訪れた時間が5時と少々、早すぎたのかもしれない。

日本のインドならばビールが飲める!

 カウンターが数席とテーブル席が二つという小さな空間。客席とキッチンはガラスで仕切られ、キッチンにはインド人が暇そうに立っている。ナンの窯らしきものもちらりと見える。
「いらっしゃいませ」
 店内に入ると店の奥からきれいな日本語が聞こえた。対応してくれたのは50代半ばくらいの日本人男性。パリッとした白シャツに黒いパンツの出で立ちでカジュアルな店構えとは違って高級感を感じさせ、おじさん店員ではなく、おじさま店員と呼びたくなる。デリーでも少し高めのカレー屋に入るとこんなおじさま店員のインド人が案内してくれたっけ。
 通されたテーブル席からはインドのテレビ番組が流れていた。どうやらニュースの時間のようで誰かが捕まっている短い映像、その後で、子供の写真、そして母親らしき人が叫んでいる映像が流れた。ヒンドゥー語は全く分からないが、ほんの数秒のカットで、子供が誘拐事件に巻き込まれたことは想像できた。
 おじさま店員がテーブルにメニューを置く際、とりあえずビールを頼む。インドのカレー屋ではこれができない。インドは宗教上の理由から公共の場所でアルコールを飲むことをよしとは考えないので、ビールが飲みたければ、外国人向けレストランかバーに行く、もしくはひっそりと営業している酒屋で買ってホテルの部屋で飲む。
「キングフィッシャーでいい?」
 フランクな感じでおじさま店員が返してきた。「でいい?」ということは別のビールがあるということなのだろう。
「他にブラックイーグルというのがあってね……」
 飲んだことがないインドビールだった。
 テレビの音量は消音になり、映像だけ映し出され、店内にインド音楽が流れ始めた。僕が席についたことで休憩モードからレストランモードに変わったのである。
 「7.5パーセントで日本のビールよりアルコール度が高いんですよ」
 おじさま店員はそう言って、ビール瓶を置いた。
 ひよこ豆の粉に香辛料を混ぜて揚げた煎餅のようなパパドと茹でてつぶしたじゃがいもにグリーンピースを混ぜ、やはり香辛料で味付けして揚げたサモサを頼むと、ビールをグラスに注ぎ、一気に喉に流し込む。香辛料の強い料理にも合いそうなパンチのあるビールだ。
 おじさま店員のフランクな対応からすると、この街とインド人の関係を、いろいろ聞けるかもしれない。
「これはサービスで出しますよ」
 そう言ってパパドを置く。早速、質問をしようと思ったが、彼はこれから始まるディナーの用意があるのか忙しそうに、すぐ立ち去ってしまった。

1970年代後半、インドの紅茶商が西葛西にやってきた

 西葛西が日本のリトルインディアと呼ばれるようになってから、10年程が経つ。この街は20世紀初頭まで東京湾に面し、干潮時に水没してしまう海抜ゼロメートル地域だったこともあり、民家はまばらだったそうだ。転機は東京オリンピック。公団住宅やマンションなどの集合住宅が続々と増え、それに比例して西葛西の人口も増えていく。そして70年代後半になり、一人の紅茶商のインド人が来日する。輸入した紅茶の物流を考え、横浜港にも成田空港にも便がいい西葛西に拠点を構える。同時に彼はインド料理店を始めるようになった。それがこの店である。
 煎餅のようなパパドの真ん中に軽くげんこつを当て、バラバラに崩し、かけらをつまみに、ビールをすする。スパイシーなパパドにビールはよく合う。サモサを持ってきた際、街のことを聞く前にインド人がよく頼むカレーを尋ねてみた。ひよこ豆のカレーと彼は答えた。パパドに続いて、カレーもひよこ豆。ヴェジタリアンも多いインド人にとってひよこ豆は貴重なたんぱく源の食材になると聞いた話を思い出した。
 次はナンである。通常のナンを頼もうと思ったが、インド風揚げパンのパトゥラが目に留まる。しかし、ひよこ豆のカレーに合うかどうか尋ねてみる。
「合いますよ。インド人もそのセットで頼まれる方は多いですよ」
 メニューは決まった。僕は、このタイミングだとばかりに、ここのオーナーが西葛西のリトルインディアを作るきっかけの人物なのかと尋ねてみた。
「そうですよ」
 あっけなく返ってきた。そして彼が何か言いかけたところでお客さんが入ってきてしまった。
 ここから店は一気に忙しくなる。次々に客が入り始め、とても質問ができる状態ではなくなってしまった。こんなことなら、もっと早く聞いておけばよかった。
 しかし、テイクアウトの客ばかり。しかも全て日本人。そう考えると店内の大きさといい、空間の作り方といいテイクアウト専門でもおかしくない店構えにも見える。客は注文して待っている間、スマートフォンをいじりながら、カウンター席で待つ。鶏肉とグリーンピースの「キーママサラ」の注文が多い。子供でも大丈夫かと聞かれた際、おじさま店員は「小学何年生か」だとか「辛さが足りなければ、これを足してみて」だとか、カレーソムリエとでも呼んであげたいほど、一人ずつ丁寧に応対していく。身ぶり手ぶりが大きいせいか、小柄な身体なのだがものすごく存在感がある。きっと、この店で働いている期間が長いのだろう。

優秀なインドのIT技術者がわんさと来日

 30代前半らしき女性二人組が入ってきた。テイクアウトではなく、店内で食事をするようだ。彼女たちも日本人。僕と同じように、この店がはじめてのようで、おじさま店員から様々な説明を受ける。彼は彼女たちのお腹の空き具合を聞き、二種類のカレーとサモサなどのメニューが入ったコース料理を一つ、それとは別にもう一つカレーを頼むことを勧めた。僕は追加で頼んだキングフィッシャーのビールを飲みながら、テレビを眺めていた。画面はニュース番組からヨガの番組に変わっていた。
 僕とテレビの間のテーブルに女性二人組が座っているので自然に彼女たちの会話が聞こえてくる。彼女たちはIT関係の会社に勤めているようだ。一人の女性がその会社を辞めるので、一緒に組んでいるプロジェクトメンバーに告げるタイミングを相談しているようだ。
 2000年を過ぎた頃から、この街には情報通信業の企業が続々と集まり始める。実はこれがリトルインディアになるきっかけにもなった。次第にネットバブルと呼ばれる時代へ突入していき、優秀なインド人IT技術者がわんさか来日してきた。日本に行って困ったら西葛西のインド料理店に行けとでも言われたのだろうか。きっと住む場所も探してあげたのだろう。こうしてこの街にインド人が増えていった。
 ひよこ豆のカレーは小麦粉を多く使用していて、僕の好きなどろっとしたタイプで、店員が教えてくれたように揚げパンにもよく合った。インド人の若い女性が二人入ってきた。しかし、そのまま厨房の方へと消えて行く。彼女たちもスタッフなのだろうか。そうこうしているうちに家族らしき客が入ってきた。既に席がない。4名のテーブル席に一人で座り、しかも食べ終わっている僕は咄嗟に席を立ち、上着を羽織った。
 しかし、おじさま店員は彼らを奥の席へと誘導した。どうやら奥にも席があったようだ。しかし、一旦、席を立ってしまった僕は、再び上着を脱ぐのもためらわれ、そのままレジに向かった。
「ここはね、インド人がいろいろ相談に来るんですよ。さっき、インド人の女の子が二人入ってきたでしょ? あの子たちも相談にやってきたんです」
 釣銭を渡しながら、彼はそう言った。

8人のインド人に会ったけれど……

 結局、この店でインド人を見かけたのはキッチンのインド人も入れて3名だけ。店を出た僕は、インド人を求め、西葛西の南口を歩きまわった。南口から駅の北口の繁華街を抜け、公園を通り、江戸川区球場まで歩いてみた。その間にすれ違ったインド人は散歩中の親子と八百屋でレッドオニオンを選んでいた若いインド人男性の3名のみ。そして、先程、食事をしたインド料理店が経営しているインド食材専門店まで足を運び、マオカラーを着たインド人の老人に出会ったわけである。西葛西の散歩で出会ったインド人は8名。リトルインディアと呼ぶには少ない気はするが、実情はこんなものなのかもしれない。 
 データで見ると現在、日本で在日インド人の数は約2万2000人。西葛西在住は2000名。つまり日本に滞在するインド人の約1割は西葛西に住んでいることになる。最近ではヒンドゥー教の寺院やインド人学校まで創られたそうだ。
 しかし、シンガポールのリトルインディアや大久保の韓国人街、横浜の中華街のように街全体に漂う異国情緒あふれる街とは程遠い。ここにはおそらく来日してくるインド人の職種にIT関係者が多いことも関係しているのかもしれない。IT関係のインド人は長期で日本滞在する人は少なく、数年したら母国に戻ってしまうことが多いそうだ。長く住むインド人がいなければ、その街の空気や文化を創るというところまではいかないのだろう。そう考えると、とてもIT技術者には見えない老夫婦の存在は不思議に映る。インド人は家族を伴って来日するとも聞くので、ひょっとすると彼の息子がIT関係なのかもしれない。となるとこの老夫婦もまた、しばらくするとインドに戻ってしまうのだろうか。
 それにしてもシンガポールのリトルインディアで作った僕のマオカラーのスーツは、いったいどこに行ったのだろう。
イシコWebマガジン幻冬舎
世界一周ひとりメシ in JAPAN

イシコ Ishiko

一九六八年岐阜県生まれ。静岡大学理学部卒。女性ファッション誌、WEBマガジン編集長を経て、二〇〇三年(有)ホワイトマンプロジェクト設立。五十名近いメンバーが顔を白塗りにすることでさまざまなボーダーを取り払い、ショーや写真を使った表現活動、環境教育などを行い話題となる。また、一ヵ月九十食寿司を食べ続けるブログや世界の美容室で髪の毛を切るエッセイなど独特な体験を元にした執筆活動多数。著書に『世界一周ひとりメシ』(幻冬舎文庫)がある。

世界一周ひとりメシ in JAPAN
バックナンバー

第18回 遊牧民の血が騒ぐモンゴル人店主(東京都新宿区)
第17回 韓国料理店で刺身を食べる(大阪府大阪市)
第16回 ロシア流酒の呼び方と飲み方(福岡県福岡市)
第15回 辛くすることはできても甘くはできないカレー屋(福岡県福岡市)
第14回 インド料理激戦国日本で鳥栖に辿り着いたカレー職人(佐賀県鳥栖市)
第13回 世界一周してきてもウイグル料理の特徴を知らない(埼玉県さいたま市)
第12回 ぜったいひとりメシに向かないトルコ料理店(東京都荒川区)
第11回 謎のメモが導いた日本で唯一のスロヴェニア料理店(京都府京都市)
第10回 焼鳥屋でスウェーデン人が働く理由(東京都杉並区高円寺)
第9回 一妻多夫な生活を想像しながら(愛知県名古屋市)
第8回 アフリカの餅(東京都新宿区)
第7回 日本の国教がイスラム教になる可能性(静岡県静岡市)
第6回 ミャンマーの少数民族と怖い話(東京都新宿区高田馬場)
第5回 中国語でしか予約できない中華料理店(愛知県名古屋市中区)
第4回 年老いたドイツ人店主の料理店は果たしてぼったくりなのか?(東京都港区六本木)
第3回 美人姉妹のいるイラン料理屋でひとりメシ外交(愛知県名古屋市東区)
第2回 東京のリトルインディアは本当にインド人で溢れているのか?(東京都江戸川区西葛西)
第1回 “東京の大阪"でテレビの位置が気になるタイ料理屋に入る。(東京都墨田区錦糸町)

インド人がよく食べると言われるひよこ豆は煎餅「パパド」にも使われています、ビール(写真は「ブラックイーグル」)のつまみによく合います。

サモサ

茹でてつぶしたじゃがいもを揚げた「サモサ」は結構、お腹にたまります。添えられているのはマスタード。

パトゥラとひよこ豆のカレー

インド風揚げパンの「パトゥラ」とおじさま店員曰く、在日インド人に一番人気のある「ひよこ豆のカレー」。

インドのビール

一番有名なビールはキングフィッシャー。国内シェア6割を越し、同名の航空会社も持っている。写真はアルコール度5%だが、同じキングフィッシャーでもアルコール度8%の商品もある。インドにはキングフィッシャーを売るユナイテッドブリュワリー社の他にも地ビールに近い小さな会社がたくさんあり、アルコール度の高いビールが多い。ただ、インドでは飲酒をあまり好ましい行為とはみなされず、街のレストランや食堂では置いてない店が多い。アルコールが置いてある酒屋にしろ庶民的なバーにしろ、店内を薄暗くして目立たないように営業している。

キングフィッシャー
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