日本人名が通じるのは「田中」だけ?

 日本語が通じない店と聞くと「ちょっと行ってみない?」と誰かを誘ってみたくなる。しかし、これが、ひとりメシとなると話は変わる。興味より不安の方が大きくなる。注文した時に通じなくても笑いあえる人がいないのだから。
 名古屋一の繁華街「栄」から15分程度歩いただろうか。「新栄一丁目」。栄に「新」がついただけで街の雰囲気は一転する。テレビ局やオフィスビルはあるものの、大通りから少し裏に入るとラブホテルや風俗店が目につき始め、韓国エステや韓国料理屋もちらほら現れる。
 自転車に乗った中年男性が知り合いらしき若い女性に声をかけ、世間話を始める。中国語だ。2000年あたりから、名古屋市の中国人居住者は一気に増える。それまでいちばん多かった韓国人居住者を抜き、2万人を超えるほどになった(ちなみに、愛知県全体ではブラジル人がトップ)。新栄一丁目を含む中区は名古屋市16区の中で最も中国人居住者が多い地域である。僕が向かおうとしているのは中国語しか通じないと言われる中華料理屋だった。
 友人のメールには、この店は中国人スタッフしかおらず、予約する場合は「田中」で……とも書かれていた。日本語名は「田中」しか伝わらないそうだ。だとすると、「田中で予約した2名です」「田中で予約した4名です」と皆、「田中」の苗字で訪れるのだろうか。その様子を想像するだけで笑いがこみあげる。これで不安より興味の方が大きくなった。
 しかし、本当に通じないのだろうか。中国人客が多いとはいえ、日本人客も来るだろう。となれば少しは日本語が上達しそうなものである。そもそも日本で日本語ができないと商売など成り立たないのでは……。スマートフォンを取り出し、インターネットに「新栄」の文字とともに店名を入れて電話番号を探し、かける。日本語が本当に通じないかどうかという興味もあったが、店が開いているかも確かめたかった。たとえ日本語が通じなくても電話に出れば営業しているということはわかる。
「●▽&%$」
 女性の声だ。ニーハオではない。そらそうだ。日本でも電話をとってすぐに「こんにちは」と言う人は少ない。僕の「もしもし」の日本語に少し間があり、
「モシモシ……」
 と返ってきた。しかし、そこまでしか会話は成立しない。「今日、やっていますか?」という質問は通じなかった。「お店は何時から?」、「休みじゃない?」など、何度も言い換え、ようやく
「アイテマス」
 という答えをもらった。
「名古屋駅にいます。今から、行きます」と言って電話を切り、地下鉄で栄に向かったのである。
 道路の脇に出された黄色の小さな看板。「中華料理」ではなく、「中華風家庭料理」と手書きの赤文字で店名とともに書かれている。日本に当てはめれば、日本料理ではなく、日本風家庭料理ということになる。海外で外国人が経営する日本料理屋にありそうな書き方だ。建物の方には電飾看板が施され、こちらには「火鍋」と書かれている。土器で煮る日本の鍋と違い、金属の鍋で煮る中国の鍋。  
 店の中は全く見えない。赤と黒の格子戸のようなドア扉は怪しげである。扉を開けたらネグリジェを来た年増の女性が出てきて、奥の部屋に連れていかれると聞いても、この辺りの雰囲気からすれば可能性がないとは言えない。
 恐る恐る扉を開ける。入口から直線上にある台所の前にたむろしていたスタッフ全員がこちらを向いた。壁にもたれている者もいれば、椅子に座っている者もいる。開店前の雑談といった雰囲気を今夜、最初の客らしき僕が止めてしまったようだ。白いTシャツを着た三名の女性たちも台所から顔を出していた黒Tシャツを着た二名の男性たちもいっせいに散らばった。
 日本語が通じない空気を感じ、目が合った女性店員に指を一本出し、「一人」という意味を告げる。まるで海外のひとり旅でレストランに入った時のようだ。
「ドウゾ」
 日本語だった。僕のことを日本人とみなしたようだ。どこに座ってもよさそうだが、入口に近いテーブルに座る。
「6名で予約した田中ですが……」
 という光景が見られることを期待して。

蚕の素揚げはひとりメシには強烈すぎた

 換気扇は元の色がわからないほど、埃がこべりつき、机も椅子も油でギトギト。壁に貼られたメニューは黒ずみ、電気は光量の足りない蛍光灯。黙々と中華鍋をふるおじちゃんと、中国語でまくしたてるように注文を告げるおばちゃん。そんなイメージを持ってやってきたが、全く違っていた。
 内装は新しくないが、テーブルはきれいで、照明も明るい。壁には日本語で書かれた「中国春節祭り」のポスターが貼られ、黒ずみどころか全く汚れていない。ダイキンのエアコンが備え付けられ、天井には東芝の液晶テレビがかかっている。働いている人たちは比較的、若く、店名が入ったお揃いのTシャツ。それぞれのテーブルの上に置かれたメニューは中国語で書かれているが、その下に日本語が書かれ、保護シートも施され、立派な冊子になっている。メニューたての横にはワイヤレスの呼び出しチャイムまで備え付けられていた。
 中国のビールがたくさん置かれていると思ったが、チンタオビールしかない。日本のビールも置いてあり、日本酒もある。店員に指でメニューを指すと、「ハイ」と日本語で返ってくる。中国人がアルバイトしているファミリーレストランと変わらない。
 しかし、小柄な中国人女性スタッフがテーブルに料理を置いた瞬間、絶句した。皿の上に盛られた蚕揚げ。吉林省など東北地方では貴重なタンパク源として食べるそうだ。てっきり唐揚げ粉がまぶされ、表面が茶色の衣で覆われ、唐揚げのような感じで出てくると思っていたが、素揚げに近く、姿形がはっきりしている。あの白い繭の中にいるのは黒い虫だったことを初めて知り、釣りが大好きな友人の道具箱に並べられた擬似餌のワームを思い出す。
 とても一人で食べられる量ではない。ゲテモノを食べることに、あまり抵抗はないが、この量にはげんなりする。ホラー映画「クリープショー」で、大量のゴキブリが人の身体の中を食い破って出てきた映像が頭に浮かび、さらにげんなりした。これだったら迷っていたブタ皮のゼリ―にしておけばよかった。大人数で来れば、たくさん注文できるので、こういった失敗も、みんなでシェアでき、気分的には楽である。しかし、ひとりメシだとそうはいかない。ただでさえ中華料理は量が多い。僕の胃袋では、せいぜい二品。よって初めて入る中華料理店ひとりメシの注文は賭けに近いところがある。
 とりあえず一つ口にしてみる。外はパリッとして香ばしく、中はすり身のような柔らかさ。特別美味しいわけではないが、決して不味くはなく、チンタオビールに合う。呼び出しチャイムを鳴らし、ビールを追加する。
 ファーつきのピンクのコートを着た若い女性客が入ってきた。携帯電話を耳にあてて中国語で会話をしたまま。僕の姿と食べている蚕をちらっと見て、通り過ぎて行く。一旦、電話から顔を離し、店員に向かって二言、三言告げた。そしてキッチンに近いテーブルに座り、電話で会話を続ける。
 ジーンズ姿のこれまた若い女性二人組の客も入ってきた。手にはケンタッキーフライドチキンの袋を抱えている。注文をした後、ピンクのコートを着た女性の隣のテーブル席に座った。常連客なのかと思ったが、店員と親しげに話す様子でもない。そして、おもむろにケンタッキーフライドチキンを食べ始めた。店の人も特に気にしている様子もない。
 彼女たちは皆、テイクアウトの客だった。ホカ弁用の発泡スチロール容器が入ったビニール袋を手にするとすぐに外へ出て行った。再び客は僕一人。既に目の前の蚕に飽き始め、無理矢理、チンタオビールで流し込む。それでも蚕は減っていかなかった。

犬食文化について考える

 一人用コンロに青色の固形燃料の火がともされ、火鍋がのせられた。真っ赤なスープの中には犬肉が入っている。
 愛犬家の多い日本で「犬肉を食べる」などと言ったら、どれだけの人が表情を歪めるのだろう。しかし、日本も昔は犬食文化を持つ国だった。弥生時代(ある説によれば縄文時代)から犬を食し、その食文化は少なくとも江戸時代に入るまでは一般的だったという。武士の間で犬食は忌み嫌われるようになり、ヨーロッパから愛玩文化が入ってくるとともに犬食文化は日本から消えていった……などと知ったかぶるが、僕は犬肉を食べるのは初めてだった。
 牛スジに似ている。長く煮込めば美味しいのかもしれないが火鍋で少し煮た程度では、スジが食感に残り、美味しいとは思えない。どこかに犬の肉だという意識が働いているからかもしれない。食べているうちに、昔、生家で飼っていたシベリアンハスキーを思い出す。オスメスの区別もつかなかった僕に、ごんべいという名前をつけられた愛くるしいメス犬の顔が浮かび、心苦しくなる。現在、僕はペットとしてヤギを二匹飼っているが、飼い始めた頃、ヤギを食する文化を持つ沖縄在住の友人から「食べるのなら名前をつけちゃいけないよ」と言われた。その時は笑い飛ばしたが、こうして犬を食べると改めて考えさせられる。この犬には名前はついていなかったのだろう。これが家畜と愛玩動物との違いなのである。って、一応、ヤギは保健所からすると家畜の部類に入ってしまうのだが。
 カップルの客が一組入ってきた。やはり中国人。奥の席へと向かっていった。そして、彼らをきっかけにして、次々と扉が開き始める。男性グループ客もいれば、家族連れもいる。店員との最初の一言二言のやりとりはみな中国語。つまり客は全て中国人。ほんの10分足らずの間に、あっという間に中国語が飛び交う賑やかな店内になった。彼らの声のボリュームは大きいので余計にそう感じられる。スマートフォンで時間を確かめると午後6時半をまわったところ。「中国人に」という注意書きはつくが、かなり人気店であることは間違いない。
 白Tシャツの女性スタッフたちが忙しそうに動き、キッチンの全部は見えないが、黒Tシャツの男性スタッフも慌ただしく料理を作っている様子はわかる。運ばれるメニューを何気なくチェックしているが、炒め物やあんかけ風の料理、そして火鍋はあるが、蚕の素揚げは見当たらない。
 僕の目の前の蚕は遂に手がつかなくなった。ただ鍋は順調に減っているせいかビールは進み、小瓶とはいえ既に3本目のビールを飲み終えていた。そろそろ別の飲み物を頼みたい。何種類かある紹興酒を頼もうかと思うが、赤いスープの鍋に赤い酒は気が進まない。壁に貼られた健康酒も気にはなる。蛇の絵が書かれているところを見ると、きっと蛇が入った白酒なのだろう。精力アップとカタカナまじりの日本語で書かれているのを見ると近隣のラブホテルや風俗店が思い出され、妙に生々しく感じられ、4本目のビールを注文する。
 テレビ画面に目をやると、先程まで温家宝が中国の工場を視察している様子が流れていたニュース番組だったのに、いつしか紀行番組に変わっていた。ナビゲーターは中国人男性と欧米人女性。欧米人女性は流暢に中国語を操りながらレポートしている。
 相変わらず扉は次々と開き、中国人の客が続々と入ってくる。遂に店内に座れなくなったようで、男性二人客は女性スタッフについて一緒に出ていってしまった。しばらくすると女性スタッフだけが戻ってくる。その後、もう一組の客も同じように女性スタッフと一緒に出て行き、女性スタッフだけが戻ってきた。近くに二号店もしくは系列の店でもあるのだろう。次々と客が入ってくる中で、4名テーブルを一人で使っているのはどこか居心地が悪かった。入口に近い席ではなおさらである。
 残っていた鍋の中の豆腐と犬肉をさらえ、ビールを一気に飲み干すと席を立った。火照るような温さを感じる。犬肉は身体を温めると言われているが、その効果が出たのだろうか。いや、ただ単にトウガラシがたっぷり入った鍋のスープの効果というだけ……とどこかで思いたかった。
 結局、最後まで
「予約した田中ですが……」
 という台詞は聞けなかった。それどころか来た客は全て中国人だった。この店に日本語はいらないようだ。
イシコWebマガジン幻冬舎
世界一周ひとりメシ in JAPAN

イシコ Ishiko

一九六八年岐阜県生まれ。静岡大学理学部卒。女性ファッション誌、WEBマガジン編集長を経て、二〇〇三年(有)ホワイトマンプロジェクト設立。五十名近いメンバーが顔を白塗りにすることでさまざまなボーダーを取り払い、ショーや写真を使った表現活動、環境教育などを行い話題となる。また、一ヵ月九十食寿司を食べ続けるブログや世界の美容室で髪の毛を切るエッセイなど独特な体験を元にした執筆活動多数。著書に『世界一周ひとりメシ』(幻冬舎文庫)がある。

世界一周ひとりメシ in JAPAN
バックナンバー

第18回 遊牧民の血が騒ぐモンゴル人店主(東京都新宿区)
第17回 韓国料理店で刺身を食べる(大阪府大阪市)
第16回 ロシア流酒の呼び方と飲み方(福岡県福岡市)
第15回 辛くすることはできても甘くはできないカレー屋(福岡県福岡市)
第14回 インド料理激戦国日本で鳥栖に辿り着いたカレー職人(佐賀県鳥栖市)
第13回 世界一周してきてもウイグル料理の特徴を知らない(埼玉県さいたま市)
第12回 ぜったいひとりメシに向かないトルコ料理店(東京都荒川区)
第11回 謎のメモが導いた日本で唯一のスロヴェニア料理店(京都府京都市)
第10回 焼鳥屋でスウェーデン人が働く理由(東京都杉並区高円寺)
第9回 一妻多夫な生活を想像しながら(愛知県名古屋市)
第8回 アフリカの餅(東京都新宿区)
第7回 日本の国教がイスラム教になる可能性(静岡県静岡市)
第6回 ミャンマーの少数民族と怖い話(東京都新宿区高田馬場)
第5回 中国語でしか予約できない中華料理店(愛知県名古屋市中区)
第4回 年老いたドイツ人店主の料理店は果たしてぼったくりなのか?(東京都港区六本木)
第3回 美人姉妹のいるイラン料理屋でひとりメシ外交(愛知県名古屋市東区)
第2回 東京のリトルインディアは本当にインド人で溢れているのか?(東京都江戸川区西葛西)
第1回 “東京の大阪"でテレビの位置が気になるタイ料理屋に入る。(東京都墨田区錦糸町)

将来、火星に人間が住む時が来た時、タンパク質を摂取するのは蚕を食することが現実的らしい。慣れておいた方がいいのかなぁ。

北京オリンピックの際、公式レストランは...

北京オリンピックの際、公式レストランは犬肉の購入や客への提供が禁止されたが、現在は、市民の食卓に戻っているそうだ。

中国のビール事情

中国本土では冷たい飲料は身体を冷やすのでよくないという言い伝えがあるので、夏場でもぬるいビールを出す店が多い。中国のビール会社は数百社あると言われ、乱立している。北京では「燕京」、上海では「青島」の人気が高い。

中国のビール
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