謎の老人が座るテーブル

 入口近くのテーブルでおじいちゃんが笑っていた。幸せそうな子供の笑顔もいいが、幸せそうな老人の笑顔もいいものである。彼は一人で美味しそうに生ビールのジョッキを傾けていた。彼の目の前のテーブルにはチラシなどの印刷物や鉛筆、薄汚れた湯呑が散乱しており、まるで片付けられていない自宅の食卓のようだった。
「暑いね〜。ビール飲むんだったら奥へどうぞ」
 まるで、この店の従業員のような口ぶりだなぁと思いながら、軽く会釈をして恐る恐る店内に足を踏み入れる。彼以外に人の姿が見当たらない。ひょっとしたら生ビールは飲んでいるけど本当に彼は店の関係者かもしれない。
 狭い間口からは想像できないほど店内は奥行きがあった。40名以上入れるのではなかろうか。しかも新しくてきれいだ。通路を挟んで、ボックス式のテーブルと靴を脱いで上がる掘りごたつ式のテーブル席とに別れている。振り返ると、老人は外を見たままジョッキグラスを傾けていた。たとえ彼が店主であろうが席まで案内してくれるとは考えにくいので一人で奥まで進んでいく。正面のつきあたりにある厨房手前のボックス席に座ろうとした時、料理を出すカウンター越しにぽっちゃりした中年男性と目が合い、反射的に再び会釈をする。彼は驚いたような顔で何も言葉を発しなかった。ただ、これで客が入ってきたことは伝わったはずである。
 ファミレスに置かれているようなきれいなメニューには韓国焼酎やマッコリ、漢方薬のような百歳酒など韓国の酒はたくさん並んでいるが、まずはビールだ。しかし、韓国ビールは置かれていない。キッチンにいたぽっちゃり男がのっそりとした感じで注文を取りに来る。白い割烹着のような服から察すると料理人なのだろう。まだ早い時間なので客席係がいないのかもしれない。それにしても、いったい、あの老人は何者なのだろう。 
 とりあえず生ビールを頼み、ゆっくりメニューを眺める。韓国料理なので、もちろん焼き肉はあるのだが、鍋も充実しており、カニ鍋や海鮮鍋、滋養強壮の鍋として知られる高麗ニンジンなどが入ったサムゲタン、ランチョンミートやインスタントラーメンなどの保存食を入れる僕の大好きなブテチゲもある。ただ、二人前からと書かれているように鍋はひとりメシには量が多く、決して胃袋が大きくない僕には向いていない。メニューをめくっていくと刺身のページがあった。そういえばプサンや済州島など韓国の南の方では刺身もよく食べると聞いたことがある。
 イカ、タコ、ヒラメがあり、アワビなどの高級なお造りもある。チャリフェという馴染みのないカタカナの文字が目に留まる。「フェ」というのは韓国語で刺身を意味したような気がするなぁと記憶を手繰り寄せつつ、生ビールを持ってきたぽっちゃり男に聞いてみた。
「ソウデス。スズメダイ ノ サシミ デス」
 彼は無表情だが、決してぶっきらぼうではない。誠実な仕事をしそうな雰囲気を漂わせていた。「じゃ、それください」と言うと
「イマ ナイデス」
 無表情な顔が崩れ、申し訳なさそうな顔をした。少し下に書かれたカオリフェは何かを聞いてみると更に表情が曇る。
「ニホンゴデ……」
 眉間にしわを寄せていた。その後、首を傾げながら、天井を仰ぎ必死に思い出そうとしている。「ちょっと今、調べますね」と僕の方があわててしまい、スマートフォンを取り出し、検索エンジンに打ち込んでみた。「アカエイ」と出てきたので、そのまま口にする。しかし、彼は「あぁ〜」と思い出す感じではなく、「へぇ〜」と初めて聞いたような表情だった。ともかく、それはあるということなので注文する。

刺身と唐辛子の刺激的な組み合わせ

 メニューの表記は日本語の文字が大きく、その脇に韓国語が小さく添えられている。韓国語だけの短冊のメニューが並び、煙で天井は真っ黒、テーブルはぎとぎとの店にしようと思っていたが、この辺りの韓国料理店は、どこも店構えがきれいだった。
 東京の大久保、名古屋の駅裏地区、京都の東九条、大阪の鶴橋など……日本にはコリアンタウンと呼ばれる場所が結構ある。外国人登録者の数は中国人が一番多いが、永住者、つまり日本における永住資格を持つ外国人となると韓国人が圧倒的に多くなる。2年ほど前の総務省の統計によれば約45万人。長崎市や金沢市程度の街ができる規模である。永住者の中で、戦前から日本に住む特別永住者の韓国人の割合が高く、そのほとんどが京都、大阪、兵庫など関西に住んでいる。戦前は関東より関西の方が景気はよく、韓国から出稼ぎにやってきた方が多かったようだ。そんな話を友人から聞いて大阪にやってきた。そして鶴橋に向かった。圧倒的なパワーと強烈な臭いで、まさに日本の中の外国であることには違いないのだが、ぐったり疲れてしまった。逃れるように街から離れ、そのまま歩き続けていたら東大阪市との境にあたる近鉄今里駅にたどり着いていた。駅前の商店街に韓国の雑貨店があり、おばさん同士の立ち話で韓国語が聞こえるなど韓国色は残っているが、鶴橋と比べると薄くなった。商店街を端まで歩き、そのまま細い道に入って歩き続けると、まるでドアを開けたかのように、突然、空気が変わった。
 韓国ドラマ専門のレンタルショップ、チマチョゴリが飾られた美容室、開店前の韓国語料理店などが続々と現れる一方で、間口の狭い料亭のような建物も続々と現れる。「今里新地」の文字に「あっ」と思わず、声を上げる。「新地」と呼ばれる場所は遊郭のある場所も多く、間口の狭い料亭のような建物は風俗店なのだ。
 頭にバンダナを巻き、その上からキャップ帽を斜めにかぶったヒップホップファッションの若いグループは韓国語でふざけ合いながら通り過ぎて行き、料亭の看板の前に立つ呼び込みのおばさまから、「こんにちは〜。どうですかぁ?」と声をかけられる。コリアンタウンと日本の風俗店が共存している不思議な空間である。
 そして、この韓国料理店が現れた。扉が開いていて中の電気もついていたので、中を覗いた際、目に留まったのが、笑顔の老人だった。
 ぽっちゃり男が注いでくれた生ビールをすすっていると入口から女性が発する韓国語が聞こえ、その後、スタスタと足音が近づいてきた。僕の座っていたボックス席を一旦、通り過ぎたが、僕の気配に気付き、振り返るように僕を見た。
「イラッシャイマセ〜。アツイデスネ〜」
 肘から先と脛から先の肌を出した上下とも七分袖と七分丈、上下緑色の服を着た中年女性だった。そういえばボックス席の椅子も緑だ。たまたまだろうけど。
 彼女は僕のテーブルの上を確認した後、厨房にいる男性とカウンター越しに韓国語でやりとりを交わした。そして、キムチ、こんにゃくの煮付け、小魚など韓国料理でおなじみの副菜を持ってきた。韓国料理は、このサービスがうれしい。どれも辛うまい。これだけでご飯が何杯も食べられそうで、酒のつまみとしても最高だ。
 カオリフェがやってきた。来るまでにスマートフォンで調べていたのだが、カオリフェは別名ホンオフェと呼び、エイの刺身を発酵させた料理らしい。アンモニア臭がかなり強烈と書かれている。しかし、机の上に置かれた料理からは臭ってこない。唐辛子だらけの刺身といった感じでネット上にアップされていたホンオフェの写真とも違う。そういえば、これを頼んだ際、「カラクシマスカ?」とぽっちゃり男から聞かれ、何も気にせず、「はい」と答えてしまった。どうやらアカエイの刺身を唐辛子で和えたようだ。
 刺身の柔らかい感触ととてつもなく辛い唐辛子の組み合わせが新鮮である…などと考察する余裕は最初の一口だけ。後は怒涛のように辛さが責めてくる。いつしか「シーハァ」と呼吸し、汗も噴き出してきた。
「ダイジョウブデスカ?カラクナイデスカ?」
 みどりのおばさんはそう言いながら笑っていた。僕は舌を出し、手で仰ぐようにして、
「辛いです……。でも、美味しいです」
 そして、ビールを追加した。新しいビールが来るまでコップに注がれた冷たいお茶を飲み、ポットから更に注ぎ、それとは別に干し柿茶も追加で頼んだ。箸休めに副菜に逃げようにも、どの副菜にも唐辛子が使われており、逃げ場がなかった。でも辛うまいのだ。そして箸が止まらない。

21年日本に住んでも日本語がうまくない

「コノアタリニスンデイマスカ?」
 入口で会った老人の流暢な日本語とは対照的に、みどりのおばさんは日本語が決してうまくなかった。僕に、どんどん質問を投げかけてきて、フレンドリーな感じで話しやすかったが、日本語が通じにくいのでどうしても会話がつながらない。このあたりに住む韓国人の生活の様子でも聞こうと思ったが笑顔でごまかされてしまう。新地という複雑な事情もあり、答えを濁しているという感じでもない。だとすると単に日本語がうまくないだけだろうか。日本語が流ちょうな老人とはどんな関係なのだろう。老人の息子は韓国に渡ってしまい、最近になって韓国生まれ韓国育ちの嫁と一緒に日本に戻ってきたというのが僕の想像だった。きっと日本に来てまだ間もないのだろう。そう思っていたら日本に来てから既に21年になると言う。一瞬、嘘かとも思ったのだが、僕にそんな嘘をついたところで何の得もない。よほど日本で韓国語しか通じないような社会で生活していたか、語学が苦手か……まぁ、僕もニューヨークで一カ月滞在した際、最終日でさえ、レストランで「エクスキューズミー」が出てこなくて、「すみません」と言っていたのだから、あまり人のことは言えないけど。
「アソビニキマシタカ?」
 どこから来たかの答えに岐阜と言っても首をひねったので名古屋からと言うと、この質問をされた。その質問の後で少しにやりとしたように見えた。ひょっとしたら風俗店に遊びに来たついでに、この店に立ち寄ったと思われているのだろうか。違う。違う。鶴橋を散歩していたんだけど、ぐったりして……と、この店に辿り着いた経緯を説明しようと思ったが、伝えることが難しい気がした。しかも、彼女は「アソビニキマシタカ」と言っただけで、風俗店に来ましたかとは聞いていないのだ。それでムキになって否定して説明する方があやしい。結局、「はい」と答えた。それにしても辛い。缶で出された冷たい干し柿茶の甘さとシナモンの香ばしさに、ほっとする。
「ユックリシテイッテクダサイ」
 みどりのおばさんは会話がひと段落する度に、そう言って入口の方に向かった。ボックス席なので座った席からは入口の様子は見えなかったが、雑務をこなしているような動きのある音が聞こえ、しばらくすると再び僕の様子を見に来ていた。時折、電話もかけていた。当たり前だが韓国語は流暢だった。
 辛さが少し落ち着くと、また何か食べたくなった。お腹にたまる物がいい。焼き肉とライスもいいがチジミもいいなぁと思っていると「トッポギ」の文字が目に留まる。マカロニを大きくしたような長細い餅をコチュジャンや砂糖で甘辛く炒めたものである。初めてソウルに行った際、はまってしまい、小腹が空くと屋台へ「トッポギ」を食べに行っていた。
 「ト」にアクセントを置いて「トッポギ ください」と注文すると、みどりのおばさんは、「トッポギ―」と「ギ」にアクセントを置いた発音でキッチンに伝えた。
 しばらくすると厨房で電子レンジが温め終えた時に発する「チ〜ン」という音がした。嫌な予感がした。餅を電子レンジで温めたのか、餅にからめるスープ自体を温めたのか、それともその両方で既にできあいの物を温めただけか。予想通り、出てきたトッポギは不味かった。長い餅と一緒に大好きな茹で卵が入っているのは嬉しかったが、インスタント独特の嫌な匂いを感じた。
「シュチョー オオイ?」
 再び、みどりのおばさんが現れ、声をかけてくれる。「シャチョー」のような「シュチョー」という発音に、一瞬、戸惑った。海外とつながって生中継しているスタジオのやりとりのように、質問されてから少し間が開き、「シュチョー」が「出張」という漢字に頭の中で変換される。
「出張は多いです。でも、大阪は少ないです」
 できるだけ、文章を細かく切り、簡単な日本語で答えた。
 店を出る際、あの老人は既に座っていなかった。そのかわり彼が座っていたテーブルの上にはTシャツやタオルなど乾いた洗濯物が山積みで置かれている。このテーブルは、家族用のテーブルだったのだ。だからどこか自宅の食卓の上の散乱具合に似ていたのだろう。結局、老人とみどりのおばさんとの関係を聞くのを忘れてしまった。あの老人と一緒に飲んでみたかった気もする。さぁて、また、鶴橋まで戻ってみるか。
イシコWebマガジン幻冬舎
世界一周ひとりメシ in JAPAN

イシコ Ishiko

一九六八年岐阜県生まれ。静岡大学理学部卒。女性ファッション誌、WEBマガジン編集長を経て、二〇〇三年(有)ホワイトマンプロジェクト設立。五十名近いメンバーが顔を白塗りにすることでさまざまなボーダーを取り払い、ショーや写真を使った表現活動、環境教育などを行い話題となる。また、一ヵ月九十食寿司を食べ続けるブログや世界の美容室で髪の毛を切るエッセイなど独特な体験を元にした執筆活動多数。著書に『世界一周ひとりメシ』(幻冬舎文庫)がある。

世界一周ひとりメシ in JAPAN
バックナンバー

第18回 遊牧民の血が騒ぐモンゴル人店主(東京都新宿区)
第17回 韓国料理店で刺身を食べる(大阪府大阪市)
第16回 ロシア流酒の呼び方と飲み方(福岡県福岡市)
第15回 辛くすることはできても甘くはできないカレー屋(福岡県福岡市)
第14回 インド料理激戦国日本で鳥栖に辿り着いたカレー職人(佐賀県鳥栖市)
第13回 世界一周してきてもウイグル料理の特徴を知らない(埼玉県さいたま市)
第12回 ぜったいひとりメシに向かないトルコ料理店(東京都荒川区)
第11回 謎のメモが導いた日本で唯一のスロヴェニア料理店(京都府京都市)
第10回 焼鳥屋でスウェーデン人が働く理由(東京都杉並区高円寺)
第9回 一妻多夫な生活を想像しながら(愛知県名古屋市)
第8回 アフリカの餅(東京都新宿区)
第7回 日本の国教がイスラム教になる可能性(静岡県静岡市)
第6回 ミャンマーの少数民族と怖い話(東京都新宿区高田馬場)
第5回 中国語でしか予約できない中華料理店(愛知県名古屋市中区)
第4回 年老いたドイツ人店主の料理店は果たしてぼったくりなのか?(東京都港区六本木)
第3回 美人姉妹のいるイラン料理屋でひとりメシ外交(愛知県名古屋市東区)
第2回 東京のリトルインディアは本当にインド人で溢れているのか?(東京都江戸川区西葛西)
第1回 “東京の大阪"でテレビの位置が気になるタイ料理屋に入る。(東京都墨田区錦糸町)
副菜は、たいていおかわり自由

副菜は、たいていおかわり自由。多い店では10品近く出てくる。しかし、残った副菜を捨てる量が多く、最近では、環境問題を考え、副菜の種類が減っている。

カオリフェ(別名ホンオフェ)

カオリフェ(別名ホンオフェ)は、エイを壺などに入れて10日ほど発酵させる。エイの持つ尿素がアンモニアへと変わるので、そのままだと臭いはかなり強烈。韓国人曰く、マッコリに合うらしい。

トッポギ

トッポギは韓国では屋台の定番メニューで、おやつや夜食にもよく食べる。元々は李朝宮廷料理の一つ。

韓国のビール

OBとHITEの二大ビール会社が有名。ただ、国産ビールより、輸入ビールの人気が増えており、中でも日本のビールの人気が高い。日本では「とりあえずビール」だが、韓国では「とりあえずソジュ(韓国の焼酎)」で食事を食べ、満腹になってからビールを飲む人が多い。

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