相撲に勝ったら半額、負けたら2倍の支払い

 店主とモンゴル相撲ができるモンゴル料理店があると聞いた。咄嗟に以前、行った谷中のトルコ料理店が頭を過り、拒否反応は働いたが、場所が新宿の歌舞伎町ということに興味が湧いた。
 東京に出てきたばかりの頃、映画監督の個人事務所で半年ほど働いていたことがある。邦画に客が全く入らない時代だった。しかも単館系の映画監督だったので、なかなかマスコミに取り上げてもらえず、僕の名刺には宣伝担当と華やかなことが書かれていたものの、前売券をコツコツ売り歩くことが主な仕事だった。歌舞伎町の一角にある昭和の時空間がそのまま残ったようなゴールデン街と呼ばれる飲み屋街は、前売券を売り歩くためによく通った場所の一つだ。
 小さな店を一軒ずつ回り、ポスターを貼らせてもらい、前売券の委託販売を交渉する。このエリアには映画関係者や演劇関係者、作家や新聞記者などが集まっていた。飲みながら映画の話題になって、その場で前売券が売れることが多々あったのと、興味を持ったマスコミの人が映画をどこかで紹介してくれるかもしれないという淡い期待もあって通っていた。「えっ? あの人がここに?」と思うような有名人も見かけたが、これから一花咲かせようという人たちもたくさん集まっていて、そのまま誘われて飲むこともあった。みんなギラギラしていた。初対面から呼び捨てで呼ばれ、自分の意見を罵倒されることもあれば、隣の席で討論なのか口喧嘩なのか判別つかない言い争いが始まったりすることもあった。そういった空気が僕は苦手だったが、今となっては、いい思い出である。
 明け方まで飲むこともあった。そんな時は、演歌歌手の興業で知られたコマ劇場まで、ぶらぶら歩き、広場で始発の電車が走り出すまで時間をつぶしたこともある。マクドナルドで朝食を買い、テーブルに突っ伏して眠ったこともあった。
 今ではコマ劇場はなくなり、マクドナルドはカラオケ屋に変わっている。歌舞伎町の怪しげな空気は相変わらずだが、昔より薄れている気もする。テレビのドキュメンタリーに、よく登場する歌舞伎町交番の脇を通り、大久保の方へと歩いて行く。昔は、このあたりで、売春婦らしき外国人のお姉さんによく声をかけられたが今日は、一人も見かけない。時間も早いし、雨が降っているからだろうか。ホームレスの出入りが激しかった大久保公園はきれいに整備されていて、地元の消防団が雨に濡れながら訓練に励んでいた。
 その脇に建つ古いビルの2階にモンゴル料理店はあった。以前はスナックだということが想像できるドアは開いており、恐る恐る中を覗くと大柄な男性も店内から外を覗くように顔を出した。僕の雪駄の足音が廊下に響いていたのかもしれない。
「どうぞ〜。そこで靴を脱いでください」
 じゅうたんの上に30センチ四方の段ボールが敷かれ、「ここで靴を脱いでください」とマジックで書かれていた。靴箱に入れ、他人の家にあがりこむように中に入っていくと遊牧民が使用する移動式住居「ゲル」の骨組みが張り巡らされた天井に圧倒される。ゲルの中で食事するかのような演出なのだろう。入ってすぐのテーブルにはモンゴルの帽子が並べられ、その脇のハンガーラックにはきらびやかな民族衣装も並べられている。客はモンゴルの衣装に着替えて食べることができるとホームページに書かれていた。
「どこに座りますか?」
 30名は座ることができるだろうか。客は僕以外に一組のカップルしかおらず、テレビが見られる席に座る。画面にはモンゴルの子供が馬に乗って走る映像が流れていた。
「モンゴル相撲やりますか? 僕に勝ったら半額、負けたら2倍です」
 大柄の男性は、いきなりそう言って笑った。モンゴル人独特の一重まぶたで、茶目っけたっぷりの様はどこか元横綱の朝青竜に似ていた。40代半ばといったところだろうか。彼が店主だった。
「いや……下見に来ただけなんで、次、みんなで来たときの楽しみにとっておきます」
 咄嗟に嘘をついてしまった。そして、僕は、この嘘に後悔をすることになる。

内モンゴルと外モンゴル

「どれも量がたくさんだから、飲み放題食べ放題の3800円のセットメニューにしませんか? そうすれば、お腹の具合に合わせて少しずついろいろ出しますよ」
 その通りに注文すると彼は奥の台所の部屋へ入っていった。どうやら料理も店主が作るらしい。飲み放題はメニューにある飲み物なら何でもいいらしいが、モンゴルビールは置かれておらず、日本の生ビールをお願いする。
「雨の中、ありがとうございます」
 カウンターの中で黄色のTシャツを着た気弱そうな若者が生ビールをジョッキに注いでくれた。彼は日本人だった。
 カップルの会話がかすかに聞こえるが、日本語ではない。
「彼らは私と同じモンゴル人です。新婚さんなんですよ」
 まるで僕が思っていたことを察知したかのように、モンゴル版ピロシキのホーショールを出しながら店主は彼らを紹介してくれた。僕は彼らの方を向き、「おめでとうございます」と座ったまま会釈すると「アリガトウゴザイマス」と笑顔が返ってきた。日本語も堪能らしい。新郎も一重まぶたのモンゴル人だが、ピンクのポロシャツを着て、襟を立てているせいか、首が伸びてしまったようなTシャツ姿の店主よりも垢ぬけていた。日本人といってもわからないような顔立ちの奥様はモンゴルの伝統楽器「馬頭琴」奏者。そう紹介し終えると店主は再びキッチンに戻っていった。
 初対面の紹介直後の会話が僕は苦手だ。何か話さなければと思えば思うほど、焦れば焦るほど何も出てこない。人見知りの典型的な悪循環である。沈黙の空気が流れ、僕は逃げるようにテレビの画面に救いを求めた。遊牧民がゲルで生活する様子を描いたドキュメンタリーが流れていた。
 羊肉の入った揚げパン「ホーショール」を黙々と食べ、生ビールをすすっていると、日本人の店員からモンゴルに行ったことがあるか聞かれた。ウランバートル周辺は行ったことがあると告げると、
「いいですね〜。僕、ここで働いているのにモンゴルへ行ったことがないんです」
 彼はこの店のことや自分自身のことについて語り始めた。この店で働き始めて5年になり、この店は、以前は大久保にあり、その前は大塚にあったらしい。
「オーナーは遊牧民ですから」
 ギラギラしているオーナーとは対照的に若者は気弱な感じがする。このモンゴル料理店は博多が一号店で、その店は、店主の日本人の奥様が切り盛りしており、彼は最初、店主と博多で出会った。当時、彼は引き籠り気味の青年だったそうだ。周囲や店主の誘いで、思い切って博多から上京し、彼の店で働き始め、今では、こうして人と会話ができるまでになったと言う。繊細な彼の笑顔の裏には様々な物語があったようだ。
 店主が骨付き羊肉「チャンサン・マハ」をテーブルの上に置く。塩以外の味付けはしていないシンプルなモンゴル料理で、見た目の迫力からしてかなりのボリュームがある。
「ウランバートルはプライベート? どこに行ったの?」
 店主は僕と店員の会話を聞いていたようで、僕とカップルのテーブル席の真ん中に椅子を持ってきて座りながら質問した。10年ほど前、当時、発見されたばかりだと言われた遺跡へ日本語が堪能なモンゴル人の考古学者がガイド役となって一緒に旅をしたのである。遺跡の街を支配していた王様は宇宙に消えたという伝説も彼から聞いた。しかし、その王様の名前が出てこない。当時の旅メモは旅中に落としてしまったのである。
「ジョチのことかなぁ」
 店主は壁に貼られたチンギス・ハーンの巨大な肖像画を見ながら言った。「ジョチ」とはチンギス・ハーンの長男。モンゴル語でジョチは「客」という意味である。ジョチが母親のお腹にいた頃、チンギス・ハーンは遠方を征服している途中で、ほとんど家にいなかった。それにも関わらず、妻のお腹に子供がいることを知り、それが本当に自分の子かどうか疑い、その疑いはジョチが生まれてから死ぬ寸前まで消えることはなかった。その後、チンギス・ハーンの子供は何人も生まれたのだが、長男のジョチにだけは他人行儀で愛情をかけなかった。そして、4つの地域を息子に統治させる際、ジョチには今のシベリア近辺の一番過酷な自然環境の場所を担当させた。それをきちんと勤め上げたジョチだったが、チンギス・ハーンより早く病で死ぬことになる。死の床でチンギス・ハーンはようやく言ったそうだ。
「お前は本当に俺の子だった」
 そしてジョチは天に召された。結局、彼がチンギス・ハーンの子供だったかどうかはわからない。しかし、そういった様々な逸話が重なり、死後、宇宙に消えたという伝説もあるのだと店主は語った。
 いつものように、日本に来て何年になるのかの質問を投げかけると二十年と返ってきた。最初は神奈川で生活し、その後、福岡へと渡り、日本人の妻を娶ったことで日本の国籍を取得し、子供も生まれた。その後、家族を残して一人上京し、二店舗目を開店させた。
 彼の生まれはモンゴル共和国ではなく、内モンゴルだった。内モンゴルとは中国の領土で北にある自治区である。モンゴル共和国は日本の4倍程度の面積だが、内モンゴルは日本の3倍程度。しかしながら、モンゴル人の数は、モンゴル共和国より内モンゴルの方が多い。中国ではモンゴル共和国のことは外モンゴルと呼ぶ。当然、内モンゴルと外モンゴルで親戚関係の人たちもいるのだが、そういったモンゴル人でさえも行き来する際はビザが必要らしい。ただ、現在は場所によっては簡単なビザで行けるイミグレーションもあるのだとピンクのポロシャツの彼が補足した。
 店主は外モンゴルで生活していた時期もあるが、中国語が使えないと一般社会で働けないからと大学は内モンゴルを選んだそうだ。かなり優秀だったようで大学卒業後、しばらくは中国共産党系の学校に先生として勤めていた。そんなエリートがなぜ、日本に来たのだろう。

モンゴル人は豚肉を食べない

「中国に戻るつもりはありません。土も踏みたくないね」
 最初に見せていた茶目っけのある笑顔ではなく、憎しみと悔しさを噛みしめるよう表情だった。彼の世代で内モンゴルに住む人々は中国語だけでなくモンゴル語も話せたが、その後、漢族がどんどん入り込み、漢族の文化に支配され、今の内モンゴルに住む若いモンゴル人の中にはモンゴル語が話せない人も出てきているらしい。
 彼は「尖閣諸島は中国に返すべき」と日本人でも驚くような発言をした日本の元首相についても話し始めた。
「あんなことを言うなんて、あの人は政治家としておかしいよ。日本にとって、何のプラスにもならない。あんなことを公の場で言って罰せられない日本という国は、ときどき、よくわからなくなるよ」
 彼の見解によれば、その発言をした元首相が沖縄の基地返還に関しても混乱させ、アメリカとゴタゴタしている隙を狙って、中国が尖閣諸島に入り込んできたんだと興奮気味に話し、彼の中国に対する嫌悪感はどんどん露わになっていった。
「たいていのモンゴル人は中国が嫌いだと思うよ」
 新婚の彼らも、うなずいていた。中国のパスポートを持ちたくないからと日本に渡り、日本人に帰化する内モンゴルの人もいると言う。
 僕自身は中国を旅した際、中国人から優しく接してもらい、いいイメージしかなく、いつか中国をゆっくり回ってみたいという気持ちもある。しかし、僕はあくまで一過性の旅人であり、その中で暮らしてきた彼らの現実を知らないのだということを実感し、複雑な気持ちで聞いていた。
 重い話が続くので、空気を変えたくて、ミルク酒と書かれた馬乳酒をいただく。氷が入っており、爽やかなヨーグルトサワーを飲んでいるような感覚だった。僕がモンゴルの草原の中で立ち寄ったゲルでいただいた普通の家庭の馬乳酒は、ぬるくて、もっと酸っぱかった。
「モンゴル人は豚肉を食べません。モンゴルでは、「食べる」「食べない」の前に豚という動物自体が嫌われています。「あいつは豚のような奴だ」と言ったら、その人のことが大嫌いという意味を表します」
 店主も子供の頃から豚肉は一切、食べなかった。しかし、内モンゴルで入った大学の宿舎には、漢族も多いので、食堂では豚肉料理がよく出たらしい。入学時に嘘をついてイスラム教徒だと申請しておけば、豚肉を食べずに別の食事が出されたようで、当時、その悪知恵が働かなかったことを悔いていた。
「あの頃は、ラム肉が食べたくて仕方がなかったですよ。あっ、もう少し食べられますか? 辛いの大丈夫?」
 店主は再び立ちあがり、キッチンに向かった。同時にモンゴル人の新婚夫妻は支払いを済ませて帰って行った。
 客席は日本人店員と僕と二人の日本人だけになり、とりとめもない会話をした。客が入ってくる気配は全くない。平日は客が、まばらで、しかも雨だったりしたら、こんな感じらしい。ただ、土日はグループ客で入れないほど混むこともあるようだ。グループ客はたいてい衣装に着替えて食べ、酔ってきたところで、モンゴル相撲をとり、最後にカラオケをして盛り上がるのだそうだ。平日の雨の日に来て正解だった。少なくとも僕は。
「この店は、もうすぐ閉めるんですよ」
 煮込んだ羊肉が載った辛いサラダを出しながら、店主は衝撃的なことをつぶやいた。正確にはこの店を引き継ぎたいというモンゴル人に手渡して、店主と店員と二人で2年ほどかけて世界一周の旅に出るそうだ。既に出発する日程もメキシコスタートも決めていて、夏を追いかけるようにして世界を回っていく。彼は言語を学ぶことが好きなようで、メキシコを最初に選んだのもスペイン語を学びたいからだった。驚いたのは、これだけ流暢に話す日本語は全て独学だった。
 奥さまは連れていかないのかと聞くと、
「中学生の子供がいるからねぇ。家内というくらいで、家の内(中)を守ることが好きみたい。でも、奥さんが日本人でよかったよ。モンゴル人だったら、こんな夫婦生活は無理だね」
 世界一周から戻ってきたら、日本で旅人向けのバーをやる計画まで立てている。
「将来はイギリスかオーストラリアにも住んでみたいんだけどねぇ。どちらにしても閉める前に友達連れて、モンゴル相撲やりに来なくちゃダメだよ」
 どこまでも遊牧民のギラギラした店主だった。咄嗟についた嘘だと今さら言えるわけもなく、釣銭を受け取りながら、「もちろんです」と答えてしまった。
 外に出ると雨が激しくなっていた。再び来た道を戻って新宿駅に向かう。ホストらしき男性が傘をさしながら、客になりそうな女性を物色していた。夜の匂いはするが。ギラギラ感はない。雨宿りしながら、スペイン語をまくしたてる外国人女性二人組の方が、よほどギラギラしていた。今日のことを書いた文章が世の中に放たれる頃、店主は中南米あたりでスペイン語を学んでいるのだろう。それにしてもどうしよう。この文章が出る前、つまり彼らが出発する前に僕はモンゴル相撲をやりに行かなくちゃいけないんだよなぁ。
イシコWebマガジン幻冬舎
世界一周ひとりメシ in JAPAN

イシコ Ishiko

一九六八年岐阜県生まれ。静岡大学理学部卒。女性ファッション誌、WEBマガジン編集長を経て、二〇〇三年(有)ホワイトマンプロジェクト設立。五十名近いメンバーが顔を白塗りにすることでさまざまなボーダーを取り払い、ショーや写真を使った表現活動、環境教育などを行い話題となる。また、一ヵ月九十食寿司を食べ続けるブログや世界の美容室で髪の毛を切るエッセイなど独特な体験を元にした執筆活動多数。著書に『世界一周ひとりメシ』(幻冬舎文庫)がある。

世界一周ひとりメシ in JAPAN
バックナンバー

第18回 遊牧民の血が騒ぐモンゴル人店主(東京都新宿区)
第17回 韓国料理店で刺身を食べる(大阪府大阪市)
第16回 ロシア流酒の呼び方と飲み方(福岡県福岡市)
第15回 辛くすることはできても甘くはできないカレー屋(福岡県福岡市)
第14回 インド料理激戦国日本で鳥栖に辿り着いたカレー職人(佐賀県鳥栖市)
第13回 世界一周してきてもウイグル料理の特徴を知らない(埼玉県さいたま市)
第12回 ぜったいひとりメシに向かないトルコ料理店(東京都荒川区)
第11回 謎のメモが導いた日本で唯一のスロヴェニア料理店(京都府京都市)
第10回 焼鳥屋でスウェーデン人が働く理由(東京都杉並区高円寺)
第9回 一妻多夫な生活を想像しながら(愛知県名古屋市)
第8回 アフリカの餅(東京都新宿区)
第7回 日本の国教がイスラム教になる可能性(静岡県静岡市)
第6回 ミャンマーの少数民族と怖い話(東京都新宿区高田馬場)
第5回 中国語でしか予約できない中華料理店(愛知県名古屋市中区)
第4回 年老いたドイツ人店主の料理店は果たしてぼったくりなのか?(東京都港区六本木)
第3回 美人姉妹のいるイラン料理屋でひとりメシ外交(愛知県名古屋市東区)
第2回 東京のリトルインディアは本当にインド人で溢れているのか?(東京都江戸川区西葛西)
第1回 “東京の大阪"でテレビの位置が気になるタイ料理屋に入る。(東京都墨田区錦糸町)
モンゴル版ピロシキ「ホーショール」

モンゴル版ピロシキ「ホーショール」は、モンゴル版餃子「ボーズ」と並ぶ代表的なモンゴル料理の一つ。モンゴル料理は肉料理の「赤い食べ物」と乳製品の「白い食べ物」に分類され、夏は「白い食べ物」、冬は「赤い食べ物」が中心になる。

塩茹での羊肉「チャンサン・マハ」

塩茹での羊肉「チャンサン・マハ」は、お祝い事の時に食べる料理。基本的にモンゴルの肉料理は香辛料をあまり使わない。

馬乳酒

馬乳酒は、肉食中心の遊牧民にとって、ビタミンやミネラルを採るため野菜の代わりとして飲まれる。よって、モンゴルでは酒というより乳酸飲料のイメージが強い。「白い食べ物」の代表で夏には主食がわりに飲むことも。

モンゴルのビール

「アルタンゴビ」、「ハルホリン」など国産ビールの種類は多く、味のレベルも高いと言われている、10年前、僕がモンゴルを旅した頃、生ぬるいビールが出す店が多かったが、現在は冷たいビールを出す店が増えているらしい。

Webマガジン幻冬舎 最新号 INDEXバックナンバー

Copyright © GENTOSHA INC. All rights reserved.
Webマガジン幻冬舎に掲載されている記事・写真の無断転載を禁じます。webmagazine@gentosha.co.jp