忍び寄る影
 冷蔵庫を開けたら嫌な臭いがした。ツーンと鼻を突く生ゴミのような臭い。そんな臭いだった。
「なんで?」
 そう思って中を覗いたら、悪臭の原因はすぐに見つけられた。というより、見つけてしまった。本当は見つけたくなんかなかったけれど。

 それは、あの日に買ったステーキだった。あの美味しそうだった桃色の肉は、誰にも食べてもらえないまま、腐り切って茶色を通り越してブニョブニョの紫色になっていた。
 変な汁まで出して異臭を放つそれを、臭いが漏れないようビニール袋に二重にして包んで、学校に行く途中でコンビニかどこかに適当に捨てることに決め、忘れないように玄関に置いた。
 その時ガランとした玄関が目に入った。
 そこには私の靴しかなかった。
 あれから二週間以上が経っていた。
 閑散とした玄関が物語るように、その間、誰も家には帰って来なかった。
「何かあったのかな? お母さん大丈夫かな?」
 一日に二、三度は考えたけれど、子供の私にはどうすることも出来なくて、淡い期待だけを抱いて、ただ時が過ぎるのを待つしかなかった。
 うん、ただただお母さんの帰りを待つことくらいしか、あの頃の私には出来なかった。
 私の家は古い団地だった。古い割に中はそこそこキレイで、しかも案外広く、誰もいない自宅は寂しくはあるけれど、ある意味平和で、私は何か一人暮らしに慣れていくOLみたいに落ち着いた心で日々を過ごすようになっていった。
 だけど、広さには慣れても、夜の闇は子供にはやっぱり怖かった。「お金がもったいない」とは思ったけれれど、電気はつけっぱなしで寝るようにしていた。
あと、やっぱり心のどこかで「いつお母さんが帰ってきてくれてもいいように」などという甘い考えもあったのかもしれない。だから、いつ外から見ても部屋に誰かがいるのがわかるように、電気だけはいつもつけていたかった。
 正直、寂しかった。
 正直、心細かった。
 その頃の私には、きっと支えになるものが必要だったんだと思う。だから心のどこかでいつも、その支えになる「なにか」を探していた。
 季節は夏を終え、秋を迎える準備を始めていた。

 9月の下旬、秋を迎え入れる様な雨が毎日降り続き陽が短くなってきているのも相まって、空は昼でも少し暗かった。
 小さなピンクのチェックの傘と小さな黄色のゴムの長靴、去年の6月頃、大好きなお母さんが私に買ってくれたものたち。体の大きな私には不釣り合いなそれらが、その頃の私をいつも優しく包んでくれていた。
 学校から私の家までは子供の足で大体15分くらいで、駅の前を通り、公民館の近くの児童公園を抜けて帰るってのが私のいつもの下校ルートだった。
 友達がいないというわけではなかったけれれど、当時から私は、みんなで行動するのがなんか苦手。だからどうしてもひとりで行動することが多く、いつも私はひとりで下校していた。
 急いで家に帰ってもどうせ誰もいないし、寂しいだけだったから、私は大体毎日遠回りをしたり、少し公園で遊んで家に帰るようにしていた。
 けれど、児童公園の中を抜ける時に暗いと少し怖いから、日が暮れるまでには帰るように、なんとなくだけど決めていた。
 ただ、その日だけはいつもと勝手が違った。
 六時間授業で学校が終わるのが遅かった上に、食材が底を突いたせいで、駅前の商店街で買物をして帰らなければならず、買物を終えいつものように公園を抜ける頃にはもう陽はかなり傾いてしまっていた。雨雲のせいもあってか、公園はかなり暗くて、そして不気味だった。
 だからいつもならゆっくり歩く園内も、その日だけは早足で歩いた。雨で、しかも暗くなった公園になんか、もちろん誰もいない。話し声も気配も、まったくなくて、街を打つ雨の音だけが静かに響いていた。

 園内に入って結構歩いて公園のちょうど真ん中あたり、ブランコの前に差し掛かったくらいの時だった
 周りに誰もいるはずなどないのに、どこかでガサガサと何かが動く音がした。私はビクッとしてキョロキョロと周りを見回すのだけれど、当然誰もいるはずなどなく、だから私は怖くなって、急に駆け出した。
 けど体にあってない小さな長靴で走ったりしたから、すぐに足がからまって、そのままビタンと転んでしまった。雨でびちゃびちゃの土と砂の上に私はおもいっきり飛び込んでしまい、服も顔もびちゃびちゃに、ドロドロに濡れてしまった。買ったばかりの食材を入れたビニール袋も投げ出してしまって中に入っていたホウレン草、キャベツ、シーチキン、牛乳、お米の袋などが外に散乱した。
 長靴も片っぽが脱げてしまい、傘も根元ではないけど広がっている部分の骨の何本かが折れてしまった。痛くて悔しくて泣きそうだった。
 だけど、それ以上に怖かったから、急いで泥だらけの食べ物をビニールに詰めて靴を探して履こうとした。でも小さくて濡れてて、全然足が入らなかった。
 途中まで入ったけれど、ゴムだから滑らなくって下までちゃんと入らなかったのだ。脱いだまま捨てて帰ろうかと一瞬思ったけれど、でもお母さんに買ってもらった大切な宝物だったから、それだけは絶対に嫌で、だから無理をしてでもちゃんと履いて帰りたかった。
 その時ブランコの後ろあたりからまたガサガサと音がした。
 さっきよりもハッキリ聞こえた。
 怖くて焦っているのもあったけど、ただでさえ座って両手を使ってじゃないとうまく履けないようなゴム製の長靴だったから、途中まで、ツマサキだけ中に入っても、どんなに力を入れても足が下まで完全に入る前にすぐクニャンと曲がってしまって、何度やってもそれを繰り返すばかりでちゃんと入らなかった。
 イライラした。泣きそうだった。怖かった。ドキドキドキドキして心臓が爆発しそうだった。
「もうヤダ。う〜……ヤダよ。お母さん。う〜。あ〜……やだ〜」
 雨と涙と鼻水と泥水で顔はもう、多分もうぐちゃぐちゃだった。
 その時また後ろからガサガサと音がした。
 気が狂いそうだった。
 一刻も早く逃げ出したかった。
 片足はちゃんと入り切らなかったけれど、そのまま走り出した。片足だけ靴底の高いヒールの靴を履いてるみたいに体を斜めにしながら、ガポガポと音を立てて不恰好に走った。
「ミー……」
 その時だった。一心不乱に逃げる私の背中に、小さくて今にも消えてしまいそうな弱々しい音がチクッと刺さった。
「……アレッ?」
 我に返って、振り返って、その音の出所を探した。その瞬間を境に、さっきまでの取り乱しまくっていた自分がまるで嘘のように、私は平常心を取り戻していた。
 公園によくあるような、土と花壇を分ける場所に並べて植えてある木、全体が丸くて小さい葉っぱだらけの緑の木の根元のあたりがガサガサと小さく揺れているのがわかった。
「ミィー……」
 また「声」が聞こえた。そう、それは音じゃなくて声だった。
 さっきまでの焦りや恐怖はもう全くなかった。
 音のする方を大胆にかき分けていくと、そこに小さな小さな生まれたばかりの小猫がいた。茶色に白いブチの生まれたての子猫だった。
 すでにかなり弱ってるのがわかった。泥まみれの体を拾い上げたら、その小さい体は大きくブルブルと震えていた。生まれてすぐのせいか目がまだハッキリと開いていない。そのせいで私のことを本当のお母さんとでも勘違いしたのだろうか? 「ミィーミィー」と鳴く、そのか細い声は、まるで子供から親に向けられているような安堵感の中に悲鳴を含んだ、助けを求めたり甘えたりするような、そんな声だった。
「おまえもおかあさんにすてられたの?」
 その時だった、私の口からポロッと出た言葉が、これまで私がかぶり続けてきた嘘の仮面をぶち壊してしまったのは。
 今までずっと気付かないフリをしていた、でも本当は気付いてた事実。
“おまえも……”
 その瞬間、今までずっと我慢していた二週間分の涙が、せきを切ったようにボロボロと溢れ出して止まらなくなった。
 認めたくないから、鈍感なフリをして、ずっと気付かないフリをしてきた。それを、自分によく似た境遇の他者に向けて不意に出てしまった自分の言葉で、私は認めることになってしまった。
 本当はずっと前から気付いてたけれど……私はお母さんに捨てられたんだ、って。
「うっうっ、うぅ……」
 泣きながら、びちゃびちゃに濡れて震えている子猫を、Tシャツの一番中、直接肌に触れる場所に入れて優しく抱き締めた。心臓に直接、子猫の冷たさと震えが伝わってきてビックリして胸がグッと締め付けられた。心臓が止まりそうだった。
 おかげで、私の体まで冷えてきて、自分まで寒さに震えてるのがわかった。歯がガチガチ鳴り、唇が震えていた。
 その子を左手で優しく包み込むように抱き、右手にビニール袋を持って、片足がちゃんと入らないまま傾いたままの格好で家まで歩いた。
 公園も抜けて、もうすぐ家に着くというところで、胸のあたりがフワーッとあたたかくなってきた。冷えきった子猫の体の芯にも、確かにぬくもりがあるのがわかった。
「命のぬくもり」だと思った。
 この火を消すもんか。私が絶対に守るんだ。
「ミィー」
 そんな私の決意に返事をするように、子猫が鳴いた。その子の体の震えはいつしか止まっていて、じゃれるように体をこすりつけてきた。
「あったかいなぁ…」
 涙が止まらなかった。
 この子こそが、私がずっと探してた「支え」なんだって思った。
 その時、私の心は死んで、そして同時に生き返ったのかもしれない。
 この日の、この子との出会いが、私を強くしてくれたのだ。
 そして同時に、この日の、この子との出会いが……私を脆くした。