幸せの終焉
 それは勘違いだった。
 幸せな日々が、そんなに長く続くわけなんか、なかったんだ、私にかぎって……。
 それは、ウーさんとの幸せな毎日が一カ月程続いたある日、冬になりたての11月の出来事だった。いつものようにウーさん用に、給食の余ったパンと牛乳を片手に下校する私には、その後、自分の身に何が起こるのかなんて想像も出来なかった。

 何も知らない私が家に着き、玄関のドアに鍵を入れて回したら、何も手応えがなかった。
 逆に回したらなぜか手応えがあって、カチャッと音がした。なんかおかしいな。そう思いながらも、ドアを引いたら逆に鍵が閉まっちゃったみたいで開かなかった。
 アレ?
 今度はもう一度鍵を回してカチャッと音をさせて、ドアを引いたら開いてしまった。このときやっと、もともと玄関のドアに鍵がかかっていなかったことに気が付いた。
「おかしいな、閉めたハズなんだけど……」
 いつも通りに出掛けたハズなのに、鍵を閉め忘れるなんてあるだろうか?
 ゆっくりとドアを開けながら色々な考えが頭を駆け巡った。
「ドロボウ? いや、やっぱり朝、鍵をかけ忘れたのかなぁ……?」
 だけど次の瞬間、
「もしかして、お母さん!? お母さんが帰ってきてくれたのかもしれない」
 そんな忘れていた期待に胸が騒ぎ、ついドアを勢いよく全部開き玄関の中を見てお母さんの靴を探した。その瞬間、淡い期待は裏切られ、逆に血の気が引いた。
 お母さんの靴はなく、そのかわりに男物の大きい革靴があったから。それは、どう見てもあいつの靴だった。そのまま急いでドアを閉め、そこから離れた。逃げようと思った。
 今あいつとふたりっきりになったら、何をされるかわかったもんじゃない。
 ……けど、出来なかった。ウーさんがまだ家にいる。ウーさんを置いて自分だけ逃げるわけになんていかない。
 約束したんだ。「わたしはどこにもいかない。これからはずっといっしょなんだよ」って。
 ウーさんを置いて自分だけ逃げるワケにはいかない。
 置いてかれる、捨てられる、その悲しみは誰よりも知っているから。
「絶対にウーさんを連れていく」
 そう自分に強く言い聞かせ、恐る恐る玄関まで戻り、静かに静かにドアを開けた。
 ゆっくりと中に入り、すぐに逃げ出せるようにドアは全部閉めずに、押せば開くような状態で止めた
 自分の家だったから本当は嫌だったけど、靴は脱がなかった。何かあった時、少しでも早く逃げ出すために。
 玄関に近い場所から順にウーさんを探した。でもウーさんはどこにもいない。恐くて恐くて今にも泣きだしそうだったけど、あいつに私が家にいる事を悟られてしまうから、音を出すわけにもいかず、声を殺して、泣くのを我慢して家の中を捜し回った。
「ウーさん」と名前を呼べば鳴いて反応してくれたかもしれなかったけれど声は出せなかった。
 声を出せば同時に、あいつにも気付かれてしまう。
 そうやってくまなく捜し回ったけれど、ウーさんはいなかった。あとはもう、寝室以外なかった。でもきっとそこにはあいつがいる。迷いまくった結果、でも行くしかないと思った。
 ウーさんを守れるのは私しかいない、私がウーさんのママだから。
 恐る恐る寝室のドアを開けようとドアノブに手をかけた瞬間、ひとりでにドアが開いて中からあいつが出てきた。ビクッとして顔を見たら、ずっとヒゲを剃ってないみたいで、その顔はヒゲだらけだった。ビックリして何も声が出なかった、声ばかりか体がまったく動かなかった。
「おかえり」
 あいつが落ち着いた、やさしい声で言ってきた。
 その声や表情だけを見ると、外見さえ違えど、出会った最初の頃のやさしいあいつのようにも思えた。
「た、だいま」
 平静を装ったつもりが、声がうまく出なかった
 あいつはつかつかと台所まで歩いて行った。私は振り返れずにその音を耳で追った。バスッと冷蔵庫を開ける音が聞こえた。
 あいつはまだ台所にいる。その隙に寝室に入って部屋の中を探した。ウーさん! ウーさん! と小さい声でウーさんを呼んだけど、返事がない。ここにもやっぱりウーさんはいなかった。
 ん? ここにもいないって事は、もしかして逃げたのかな? と思った。
 私以外の人が入ってきた事に驚いて逃げたのかもしれない。だとしたら、それがいちばんいい。あとから家の周りを探せばいいだけだから。
 でも、確信が欲しかった。何気なくあいつからそれを聞き出したかった。猫を見ていないか?
 もし見てなかったら、あいつに気付かれる前にウーさんは逃げ出したって事になる。
 そういえば思いかえしてみたら部屋の窓のいくつかはちょっと開いていたかもしれないし、玄関だって鍵は閉まっていなかった。子猫とはいえ、猫なのだから、二階建てのアパートから飛び降りるくらいは難しくないハズだ。
 あいつを怒らせると何をされるかわからなかったので、急いで靴を脱いで背中に隠した。そして靴を持ったまま、あくまで平静を装ってリビングにいるあいつに話し掛けた。
「猫……見てないよね?」
「猫?」
「あ、ホラ、ヌイグルミの猫……」
「見てないなぁ……」
 猫という言葉にあいつがまったく反応しなかったから、とっさに、ありもしないヌイグルミの話に切り替えた。
 よかった! ウーさんは逃げ出したんだ! あとは私だ!
 はやる気持ちを抑えて、冷静に必要な荷物をまとめようとした。あてはなかったけれど、しばらくひとりで過ごせるだけの何かを集めた。そんな私にあいつが急に声をかけてきた。
「お腹空いたなぁ……何かない?」
「あ……何かあったかなぁ……」
 平静を装い、台所に行き冷蔵庫の中を見たら野菜とかなら少し入っていて、作ろうと思えば簡単なものなら何か作れそうだったけど、早くここから逃げ出したかったから嘘をついた。
「あ〜、ないなぁ、あ、なにか買ってこよっか?」
 これで自然に家を出る口実が出来た。もう少しだと思った。
「あっ!!」
 突然あいつが物凄い大声をあげた。その声に私の体はビクッと固まってしまった。
 嘘がバレた? 逃げ出そうとしてるのがバレた?
 背中や手が変な汗でジトーッとしてきた。
「忘れてた〜、そういえば弁当買ってたんだった〜。レンジにもう入ってるから回すだけでいいんだど……凛ちゃん温めてくれる? 五分くらいでいいよ」
「あ……う、うん」
 心の底からビックリした。嘘がバレたのかと思った。
 本当は手が震えていたけれど、あくまで自然なフリをして、レンジのダイヤルを右に回し、何度もやらされてここに戻ってきたくなかったので、5をすぎて少し長めに8のあたりで止めた。
 ドキドキしたまま、出掛けるための口実と、必要な物をまとめるためにいったん部屋に戻った。今あるだけのお金と最低限必要な物や洋服を、すばやくランドセルとサブバッグに詰めこんだ。
 すぐにでも逃げ出したいけれど、リビングを通らずには家を出れない。
 あいつがいるハズだから、恐る恐るリビングを覗いた。
 すると誰もいなかったから、急いで部屋を出て玄関を目指した。
 驚くほどスムーズだった。
 何も起こらなかった。
 ドキドキドキドキして、時間をこんなに長く感じた事は初めてだった。
 玄関まで走った。
 ここまでくれば、たとえあいつが追い掛けてきたところで先に出る事が出来る。もう大丈夫だ。もう自由だ。家の外で何かされても、大声を出せば誰かが助けてくれる。
 私は勝ったんだ。
 靴を履きながら玄関のドアノブに手をかけたその時、家の奥からあいつの声がした
「お前の母親は新しい男と逃げたぞ……俺とお前を捨ててな」
 やっぱりやさしいあいつじゃなかった。本当はまだドキドキはしてたけど、精神的に優位に立っていた私は、靴を履きながらの態勢であくまで強気に答えた。
「それは全部あんたのせいでしょ! あんたがわたしに悪戯をしなかったら、お母さんがわたしのことを捨てるわけなんかなかったんだから!」
 そう言いながら時間稼ぎをして、うまく靴を完璧に履く事が出来た。
「俺から幸せを奪ったあいつを、俺は絶対に許さない……地獄まで追い掛けて、絶対に捜し出して殺してやる。お前もな、全部奪ってやる。お前からも全部奪ってやる!」
「やれるもんならやればいいわ! でも残念ね。あんたのせいでわたしには、もうなにもないけどね!なにもないのに何を奪うっていうの? やれるもんならやってみろバカヤロー!」
 泣いてるのか笑ってるのかわからないような顔で、私はあいつにありったけの怒りと汚い言葉をぶつけ、ドアノブを回し玄関を出ようとした。
 台所の方からレンジのチンッという音が小さく聞こえた。
 それと同時に、「猫……」とあいつが呟く声が聞こえた。
 私がその言葉に動揺したのに気が付いたのか、今度はゆっくりとした口調で、
「猫を育てて母親気取りでちゅかぁ〜? パパが猫に気が付かないとでも思ったんでちゅかぁ〜?」
 と赤ちゃん言葉でニヤニヤしながら言ってきた。
「ウーさ…、猫はどこ!? どこにやったの!? 猫に何かあったらただじゃおかないから! 殺してやる!!」
 怒りで手が震えた、気が狂いそうだった。
「言ったろ〜? 全部奪うって。それに俺は何もしてないよ? 何かしたのは凛ちゃんじゃな〜い?」
 その時、一瞬あいつの目がチラッと台所の方を見たのを、私は見逃さなかった。
「わーっ!!!」
 その瞬間、とても嫌な予感がして、私は荷物を投げ出して靴を履いたまま家へあがり、リビングのドアの前にいるあいつを突き飛ばして台所へ走った。
 レンジの前に着くと、すぐにレンジを開ける取っ手に手をかけた。だけど嫌な予感がして、すぐには開けられなかった。
 嫌な予感はドンドン増えていった。
 でも開けないと何もわからないから、勇気を振り絞り、息を飲み、ゆっくりとレンジを開けた……。
 何かが動いていた。白い何か。
 認めたくなかった。
 フサフサの白い毛、パンパンに膨れ上がった体……。
 アレ? どうしてだろう? 涙が出る。涙が止まらない。

 どうしてだろう……?

 おかしいな……

 こんなとこにいたなんて……

 私はさっき何をしたっけ?

 確か、レンジの電源を入れちゃったんだよね……?

 ダメだよ、ウーさん……

 そんな時に、中にいたら……

 ダメだよ……

 死んじゃうよ……

 ダメだよウーさん

 ダメだよ……

 ウーさん

 ウーさん……

 状況が何も飲み込めずに泣きじゃくる私に、そのパンパンに膨れ上がった白い固まりから、小さく小さく何か音が聞こえた
「ミ……ミー……」
 絶対に聞こえちゃなんない声が聞こえてしまって、その固まりが何なのか、いや、誰なのか、もう避けられなくなってしまって、認めざるをえなくなってしまって、頭がおかしくなりそうだった。
 気が狂いそうだった
「ワーッ!! キャーッ!! ヤダァー!! ヤダよー!! ヤダーッ!!! もうヤダーッ!! アーッ!!」
 泣き叫びながら、その固まりをそこから出そうと、抱き締めようと、軽く、軽く手を触れたら……その瞬間。
 バンッ!! という激しい音を立てて、その固まりは破裂した。
 ウーさんは私の目の前で、私のせいで、木っ端微塵に破裂してしまった……。