望まない殺人
「あ、アラ……こんにちわ」
「何度かピンポンしたんだけどね。誰も出て来ないから誰もいないのかなぁって。凛ちゃん、いたのね」
「ごめんなさいね、ドアが開いてたもんだから、勝手に開けちゃって」
「最近お見かけしないけれど、お母さん、いる?」
「そう、出来ればお母さんとお話ししたいんだけど、仕方ないね」
「じゃあ、おばさんちょっとだけお邪魔してもいいかしら?」
 私はその人の問い掛けに首を横に振るくらいしか出来なかった。予期せぬ来客に、驚きと焦りで言葉が何も出て来なかった。もちろん今、家の中に誰かを入れるわけにはどうしてもいかなかったけれど、何をどう説明して、どうやって断ればいいのかわからなかった。だからうまくしゃべれなかった。
 そのせいもあってか、結果、おばさん特有の厚かましさと強引さ、その上、自分の置かれた立場の特権という後ろ盾を得て、ちゃんとした言葉には、なっていなかったとはいえ、私がちゃんと首を横に振って意志表示しているというのに、その人は、それを無視して勝手に家の中まで入って来てしまった。
 学校に行く登下校の時に挨拶を交わすくらいで、これまであまりキチンとは話したことはなかったアパートの大家さん。二階建ての一階に、ひとりで住んでいて、50歳くらいの小太りで、見るからに人のよさそうなおばさん。
 私は先を歩き、おかしな所はないかとチェックしながら、リビングまで大家さんを案内した。リビングのテーブルに座ると、大家さんは、ゆっくりとしゃべりはじめた。
「こんな事は、本当は言いたくないんだけどね」
 その言葉に一瞬、心臓が潰されるかと思った。けど、そんなのお構いなしで大家さんはしゃべり続ける。
「あのね、苦情が出てるのよ」
「苦情……ですか?」
「凛ちゃん、これからおばさんが聞くことに、正直に答えてね?」
 今度は心臓が爆発しそうなくらいすごい音を立ててバクバク動いていた。恥ずかしい。というワケではなかったけれど顔が赤くなり熱くなった。
 一体何を聞かれるのだろう?
 一体何を言われるのだろう?
 こう聞かれたらこう答えよう。どんなことを言われても、絶対に自然な顔をしていなければ……そう考えれば考えるほど、頭がグルグル回って焦って、かえってパニックになった。
 しかし、大家さんの口から発せられたその言葉は、私の想像とは掛け離れた言葉だった。
「ペット……猫、飼ってない?」
 そう言われた瞬間、ホッとした。だから私はすぐに答えた。
「飼ってません。猫なんていません」
 嘘はついていないから、あくまで自然に言えてすごい嬉しかった。今の私すっごい自然だったよね? 大丈夫だったよね? と心の中で自分に言った。
 だってもう、飼っていないから。ちょっと前なら確かにいたけれど、今はもうウーさんは、猫はこの部屋にはいない。私は間違ってない。私は嘘は言ってない。
「そう。でもアパートの……誰とは言えないけれど他の部屋の人から、ここはペット飼っちゃいけないハズなのに、どうも小川さんのお宅あたりから、猫の鳴き声みたいな音が聞こえるって苦情が出……」
「飼ってません! 嘘じゃありません! 飼ってないんです! 本当です!」
 今までずっと直視出来なかった大家さんの目を、今度は鋭く直視して、強い口調で言った。けど言ったあと、少し必死すぎたことをちょっとだけ後悔した。すると、しばらくの沈黙のあと、大家さんは椅子から立ち上がった。
「じゃあ……」
 私はもう、その瞬間「やった!」と思った。
 良かった。バレなかった。何も起こらずにすんだ。
「ハイッ」
 大家さんの「じゃあ」の言葉を遮るように、もう待てなくてすぐに返事をした。すると大家さんは遮られた「じゃあ」の続きを再度、ゆっくりとしゃべりだした。
「ごめんね。悪いわね。おばさんも凛ちゃんを疑ってるワケじゃないのよ? ごめんね、じゃあ、お言葉に甘えて、調べさせてもらうね」
「あっ?」と、つい不機嫌に言ってしまいそうだった。「はっ? 何言ってんの? このババァ?」と汚い言葉すら浮かんできた。
 キョロキョロと猫を探して、足元を見回す大家さんをなんとか止めようとしたけれど、方法が見つからなかった。猫は本当にいないんだから、調べてもらえばいい。それだけのことだ。だからそれを、止められなかった。これ以上、何かを言えば言うほど、嘘臭くなる。
 実際、猫はいない。だから調べられても、それ自体はなにも困らない。
 ただ困るのは、奥の部屋のドアを開けられて、包丁とフォークの突き刺さった無惨な姿のあいつを見付けられること。
 冷や汗が止まらなかった。何をどうすればいいのかわからなかった。
「ねぇ凛ちゃん」
 不意に名前を呼ばれて、一瞬ビクッと大きく体が震え、そして膠着した。それを悟られない様に、私はあくまで自然に言った。
「はい。ね? いないでしょ?」
 すると大家さんが床を指差しながら言う。
「この…黒いのは何かしら?」
 ウーさんの血痕だった。私は何か言おうとしたけれど、うまい言葉が見つからなくて、何度も口を開きかけてはまた閉じて……と繰り返していた。本当に焦った。ジトーッと背中に嫌な汗をかいているのがわかった。
「困るのよね、綺麗に使ってもらわないと」
「…ごめんなさい」
 これは一体何なのか? と、もっと深く追求されるのかと思って焦ったけれど、そこについては案外あっさり諦めてくれたから、心の底からホッとした。
 しかし、「他もいい?」と言われて、「あぁ…もう終わったな」と思った。
「あ、はい」
 力なく答えてから、なぜかテーブルの上の食器を持ってトボトボと台所に歩いた。
 そんな私の様子を知ってか知らずか、大家さんはお風呂場とかトイレとか洗面所のある方に歩いていった。
 今すべきことではないと、もちろんわかっていたけれど、とにかくもう何かをしてたくて、さっきの食器を洗うことにした。食器を持ったら手が小刻みに震えてて、ナイフを乗せたお皿がカチャカチャ鳴った。するとお皿の上にナイフはあるのに、フォークがなかった。どんなに探してもみつからないもんだから、もう諦めかけたその時、突然パッと目の前にフォークが現われて、かなりビックリした。
 私はどれだけ気が動転してたんだろう?
 右手にしっかり掴んでいた。右手にずっと握り締めていた。
 しかも、それがただのフォークじゃない。ウーさんの目玉つきのフォーク……。
 大家さんとやりとりしてる間中も、私はずっとこのフォークを掴んでいたのだ。そのフォークをみつけた瞬間から、さっきまでの自分はどこへやら、なんだか可笑しくなってきた。
「もう、なんだっていいや。なんだって……ハハハ」
 独り言みたいにブツブツ繰り返していた。さっきまでは手足が震えてたはず。でももうピタッとやんで落ち着いていた。また楽しくなってきた。とりあえず私は、普通にフォークからスーッとウーさんの目玉を抜いて、流しの横に置いた。
 それからお皿とナイフとフォークを、洗剤を使って綺麗に洗った。
「どうせすぐ使うけどね」
 自然と独り言が口をついて出る。完全に開き直っていた。
「ひとりもふたりも一緒か……」
 なんかもう可笑しくて笑いが止まらなかった。恨みも何もない大家さんには悪いけど、仕方がないよね? 自分が悪いんだもんね? どうせいつかバレちゃうだろうし。こんな早くとは思わなかったけれど。
 それにしてもバカだなぁ、あの人。可哀相。黙って帰ってれば、こんなことにはならなかったのに。
 死なずにすんだのに。
 正当防衛というわけもなく、ただあいつを最後まで殺すのに邪魔だったから、私はもう一人、人を殺すことにした。
 決めた。
「せめて、あんまり苦しめないようにしてあげよう」
 そんなことを考える余裕さえ生まれていた。そんな時、ガチャッとリビングのドアが開いて大家さんが入ってきた。
「いないわね」
「えぇ…いないです」
 今度は落ち着き払った声で、そう答えた。
「悪いわね、他の入居者の手前もあるから。良かったら奥の部屋も……いいかしら? 一応、ね?」
 大家さんが言う奥の部屋とは、それこそまさしく、あいつがいる、その部屋だった。
「えぇ…どうぞ、もちろん」
 その言葉に大家さんは軽く頷いて、奥の部屋へと歩いていった。
 それについて私も一緒に歩いた。大家さんの背中や後頭部をみつめながら、あまり離れすぎないように気を付けながら
「どこかな? やっぱり頭? それとも胸? こんなナイフで奥まで刺さるかな? 一回で仕留められなくて、もしも大声を出されたらやっかいだな。あぁ、先に鍵を閉めといた方が良かったかな。今から走って間に合うかな? でも内側からだとどうせ開けられるから一緒か。まぁ大丈夫かな。片手じゃ力入んないかな? 両手でおもいっきりいったほうがいいかな? そんなんでうまく、深く奥まで刺さるかな? ……まぁ、仕方ないか、やるしかないな」
 色々考えながらナイフを再度、ギュッと握り締めた。
 大家さんの隙だらけの背中を見ながら、「別に今でもいいんだけど」とは思った。しかし、今だと確実じゃない。あいつの性器を噛み千切った時の様に、男性が射精する瞬間にひるんだ時を狙ったみたいに、大家さんが部屋のドアを開けた瞬間、あいつの無残な姿を見て思考がしばらく停止したその時に、その時に一気にいくのが、一番確実だと思った。
 ワクワクした。
 超ドキドキした。
 もう一度チラッと手に持ってるナイフを、どんなだったか確認した。
 ステーキを切る用の先の尖ったナイフだった。
 これを武者震いって言うのかな? 手足がプルプル震えていた。
 ナイフを握る手が汗ばんできた……。