Webマガジン幻冬舎|長沼毅 “超訳”科学の言葉

#17 進化

キリンの首は、短くなる可能性があった!?

 よく「進化」という言葉を耳にする。生物学を離れて日常的な文脈で「進化」と聞くと、進歩的で楽観的なニュアンスと、その逆に、競争的で“キツイ"という感覚の両方を、私は抱く。
 つい先月の11月24日は「進化論記念日」で、まさに私はそんな感慨に浸った。

 いや、別にそういう記念日があるのではない。153年前のこの日、つまり、1859年11月24日にダーウィンが『種の起源』を上梓し進化論を世に問うたから(注1)、私がそう呼んでいるだけのことだ。

 今回は、そのダーウィンの進化論から「進化」を考えてみたい。
 そして、弱肉強食的な“競争進化"と、どちらかというとユルそうな“共生進化"を比べてみたいと思う。

 さて、今でこそ進化は英語でevolutionというが(注2)、ダーウィン自身は“descent with modification"と表現していた。
 descentは、親から子へ伝わること、つまり遺伝。
 modificationは変更・変化だが、いまでは「変異」mutationという。だから、全体として「変異を伴う遺伝」という(注3)

 たとえば、人はみな少しずつ違っている。その違いのなかには、目の色、髪の色、肌の色など、「遺伝する違い」がある。それがさらに変異したら、その変異もまた遺伝するだろう。それが「変異を伴う遺伝」である。

 変異は、ダーウィン進化論における2つの重要なキーワードのひとつだ。

 変異とは、“あらかじめ定められた方向への変化"ではない。“もともとはランダムで方向性のない変異"、というのがツボ。俗説的な「定向進化説」と決別するためにも、このツボは外せない。

 もし方向性がないのなら、たとえば、キリンの首は長くも短くもなるのではないか、と思う読者は多いだろう。ところが、キリンの首は、一方的に長くなる方向で進化してきたかのようにみえる。

 変異というのはもともとランダムだが、それに方向づけをするのが、すなわち「自然選択」natural selection。ダーウィン進化論におけるもうひとつの重要なキーワードである(注4)
 ダーウィンはさらに「性選択」についても述べているが、ここでは深入りしないことにする(注5)

 さて、教科書的にいえば、キリンの祖先集団には、長首の個体も短首の個体もいただろう。短首のほうが不利のような気もするが、実のところ、低いところの草を食べる分には短首族にアドバンテージがあり、水たまりで水飲みするのも、長首より楽そうだ。
 一方、長首族には、高いところの葉を“自分専用"に食べられるというメリットがある。総合的には長首族が有利だったのだろう。
 こうして、長首族のキリンがよりよく生存し、よりよく子孫を残すことになる(注6)
 これが自然選択による方向づけである。

 私たちはふだんから競争的な生活(そして人生)を過ごしているので、自然選択のことはよくわかると思う。では、“変異"のほうはどうか。

 ダーウィンは「変異を伴う遺伝」といった。それは「遺伝子の突然変異」のことを指していたのだが、ダーウィン自身は遺伝子も突然変異も知らなかった。

 現代の私たちは、「遺伝子の突然変異」により目に見える表現型(目の色、髪の色、肌の色など)の変異が生じ、それが自然選択に掛かることを知っている。
 これを「新ダーウィン主義」あるいはネオ・ダーウィニズムという。現代生物学とはネオ・ダーウィニズムである、と言ってもよいほどだ。

 ネオ・ダーウィニズムにおける突然変異には、たくさんの種類が知られている。世代交代するごとに、どれかの種類の突然変異が必ず生じ、必ず蓄積する。必ずどこかにミスコピーがあるようなコピーみたいなものだ。
 そんなコピーを何回も(何世代も)繰り返したら、オリジナルとはずいぶん違ったものになるだろう。また、コピー間の変異もずいぶん大きくなるだろう。

 平時なら、オリジナルに近いものが残り、ちょっと変わったコピーは捨てられる。
 ところが、環境変動などで選択の方向性が変わると、懐旧的なオリジナル派はむしろ捨てられ、ちょっと変わったコピーが新たに選ばれることもある。それもまた進化である。

 選ばれたものはやはり“逸材"best of the bestsなのだろうか。いや、必ずしもそうではないかもしれない。
 おそらく、「まあ悪くない」not too badという程度でも、運が良ければ、残るかもしれない。

 先ほどのキリンの例でいえば、低いところの草がなくなったら短首族は滅亡するが、高いところの葉があれば長首族は残る。
 でも、長首族だってbest of the bestsではない。たとえば、水を飲むとき、前脚を広げて体を下げる様子がとても難儀にみえる。が、それを淘汰するような選択圧(環境圧)はなかった。だから今もいる。
 水飲み時、長首デメリットは必ずしも致命的ではなかった。そのことが長首族にとって幸運なことだった。
 そう、自然選択の“勝ち組"には「運が良かった」という偶然性が効いていることが多い。逆に言うと、不運にも選ばれなかった、残念な負け組もあるということ。
 アンチ教科書的になるが、先ほどのキリンの例でいえば、もし、高いところの葉が激減し、低いところの草しかなくなったら、短首族のほうが勝ち残ったかもしれないのだ。

 人間界では、「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」という言葉がある(注7)。しかし、自然界では、不思議な勝ちもあれば、不思議な負けもある。
 いや、人間界だって、実はそうなのかもしれない。不思議な勝ちがあれば、不思議な負けもある。そう思えば、気が楽になることもあろう。
 勝ち負け、それは競争の産物であり、弱肉強食的なダーウィン進化(およびネオ・ダーウィニズム)について回る。
 その一方で、“競争進化"ではない、別の進化のカタチがある。それは“共生進化"である。

 前回(第16回)で、深海生物チューブワームとイオウ酸化細菌の共生を例にとって共生進化あるいは「キメラ進化」について述べた。

 私たち人間は「真核生物」であり、体の構成単位は「真核細胞」である。真核細胞は、動物では一回、植物ではさらにもう一回の共生進化(キメラ化)を遂げて、いまの姿になった。
 つまり、祖先細胞に異種生物が侵入し、真核細胞の一部――細胞内小器官(オルガネラ)――になるという出来事が一回ないし二回あったのである。

 一回目は祖先細胞に「酸素呼吸」をする(アルファ)プロテオバクテリアが侵入してミトコンドリアになった出来事。これで動物細胞の原型ができた。
 二回目はそれに「光合成」をするシアノバクテリアが侵入して葉緑体になった出来事。これで植物細胞の原型ができた。

 二度にわたる共生進化(キメラ進化)は、今から十数億年前のいずれかの時期に起きた。約40億年の地球生命史の半分より現在に近いほうである。
 このおかげで、目に見えないほど小さい単細胞の微生物から、目に見えるほど大きな多細胞生物になった。このおかげで、体は複雑化し、生態系も重層化し、知能も発達したとさえいえる。

 いま、もしかしたら三回目のキメラ化が進行中かもしれない。それが深海生物チューブワーム。
 火山性ガス成分(硫化水素)の酸化による「化学合成」(光エネルギーを使う光合成に匹敵するもの)を行う(ガンマ)プロテオバクテリアがチューブワームの細胞に侵入しているのである。

 この侵入者はまだチューブワーム細胞内に“居つく"に至っておらず、オルガネラ化もしていない。しかし、いずれ近い将来か遠い未来か、オルガネラ化するであろう。
 それは地球生命史で十数億年ぶりの大一番である。過去二回のキメラ進化で生物界と生態系が大いに発展する素地ができたように、この三回目のキメラ化が成ったとき、どのような新世界が現れるか、大いに楽しみなところだ。


(注1)チャールズ・ロバート・ダーウィン(1809-1889)の進化論とほぼ同じアイデアは、同じ英国人であるアルフレッド・ラッセル・ウォレス(1823-1913)もほぼ同じ時期に考えついていた。そのため、ダーウィンや他の影響力のある科学者たちもウォレスのことを相応に遇したし、ウォレス自身も相応に満足していたようである。そして、ダーウィン没直後の1890年、英国王立協会が創設した「ダーウィン・メダル」の最初の受賞者となった。
(注2)evolutionの原義は「(巻物の)展開」であり、生物学においては、受精卵が胚発生して幼体になり、さらに成体になる「個体発生」に対して用いられていた。それはまるで“絵巻物"に描かれた発生物語のように思われたからである。
 つまり、“あらかじめ定められた個体発生"が粛々淡々と予定通りに進むことが本来のevolutionであった。これが後に血統(種族)の発生、すなわち「系統発生」(ほぼ「進化」と同義)に対しても用いられたのである。
 私個人的には生物進化について「生命の歴史物語」の絵巻物が展開されていくようなイメージをもっているので、進化=evolutionはぴったりくる。
(注3)Wikipediaには「変更を伴う由来」という訳が載せられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96%E8%AB%96
(注4)自然選択natural selectionについて“自然淘汰"と訳すこともある。選択の“拓"はたとえば“三者択一"(いわゆる“三拓")でもわかるように“選び取る"ことである。これに対して淘汰は“選び捨てる"ことである。英語にするとeliminationが近いだろうか。
(注5)自然選択のほかに「性選択」あるいは性淘汰がある(性選択は自然選択に含められることもある)。これはオスとメスの性差がはっきりした動物において、異性をめぐる競争を通して選択がなされることである。せっかく自然選択で勝ち残っても、異性に選ばれなければ、自分の遺伝子は残せない。そのため、異性にとって魅力的な表現型(きれいな羽根、美しい歌、力強さの誇示など)に相当のコストを振り分けることになる。
(注6)ダーウィンがいう「生存競争」struggle for existenceにおける最大の競争相手は、別種ではなく“同種の個体"というのが、ダーウィン進化論のミソである。
 同種の個体同士は同じ食べ物、縄張り、配偶者などをめぐって、いつも競争関係にある。これを「種内競争」という。いつも緊張関係にあるからそのプレッシャーは強く、いわゆる「選択圧」として作用しやすい。
 これに対し、“種 vs. 種"という「種間競争」もある。種が異なっても、ある何らかの資源が共通ならば、それをめぐって競争が起こる。ただし、他の、もっと多くの点では競争しないかもしれない。
(注7) 「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」はプロ野球の野村勝也氏の名言とされているが、実は、肥前国平戸候(平戸藩主)にして明治天皇の外曾祖父の松浦清(まつら きよし)の言葉とのこと。
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教科書には絶対載らない!“超訳”科学の言葉

長沼毅(ながぬま・たけし)

1961年生まれ。筑波大学大学院生物科学研究科卒業。現在、広島大学准教授。

専門は、生物海洋学、微生物生態学、極地・辺境等の過酷環境に生存する生物の探索調査。

酒ビン片手に、南極・北極から、火山、砂漠、深海、地底など、地球の辺境を放浪する、自称「吟遊科学者」。学名:カガクカイ・インディ・ジョーンズ・モドキ、あるいは、ホモ・エブリウス(Homo ebrius)「酔っ払ったヒト」。好きな言葉は「酔生夢死」。

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