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真っ白い棚には色とりどりのマニキュアの小瓶が並んでいた。辺りにはアロマオイルの優しげな香りが漂っている。店内にはダンサブルなラウンジ系の音楽が控えめに流れている。ここは心地良さだけで埋め尽くされた空間だった。
青山の外苑西通りにあるEXCELは、いきつけのネイルサロン。1階が美容室で2階はネイルやエステティック、ヘッドスパなどのスペースである。 私の両手両足の指は銀紙で包まれている。明日からの入院に備えて、ネイルカラーを落とさなければならないのだ。三日後に右足首の手術を受ける。手術部位である足はともかく、手のネイルはしたままでも良さそうなものだが、ドクターが爪の色で健康状態を判断することもあるとかで、ネイルカラーはすべて落とすように、看護師から指導を受けた。 顔見知りのネイリストが銀紙を剥がしてから、丁寧に指の爪をひとつずつ拭き取っていく。さっきまで、手はピンクと白のフレンチネイル、足はレインボウカラーのラメで彩られていたのに、あっという間にすっぴんならぬ素爪になっていった。手も足もネイルカラーなしという状態は、大げさでも何でもなく、何年ぶりか思い出させないほどだ。少し寂しいのと、非日常的な行動にまとわりつく高揚とが交じり合って、不思議な気分だった。 午後五時半頃。窓の外は既に暮れかかり、冬の空が広がっていた。ネイルカラーを落としてもらいながら、私は携帯電話を手に取った。明日からの入院生活では携帯電話とも疎遠になるのだろう。 かけた相手は松波さん。テニスの伊達公子さんのマネージャーを務める男性である。手術後二ヶ月間はテニスができなくなってしまう私のために、松波さんとアディダス・ジャパンの佐藤さんとで、今夜テニスにつきあってくれる予定になっていた。けれど、佐藤さんがいろいろ手を尽くしてくれたにもかかわらず、コートが取れなかった。真冬だというのに、インドアだけでなく野外のコートも予約でいっぱい。テニスが人気というよりも、地価の高い東京都心ではコート自体が少ないのだろう。私のラスト・テニス(というのも大げさだけれど)は叶わなかった。 「そんなわけで今夜は残念ですけれど、また足が治ったらテニスしてくださいね。ドクターには、ニケ月たったらテニスできるって、いわれてますから」 「もちろん。でも、甘糟さん、リハビリはしっかりやらなきゃだめですよ。あせっちゃだめ。ちゃんと治ってからじゃないとテニスは無理ですからね」 「は〜い。二ヶ月もボール打たなかったら、すっごい下手になってるんでしょうねえ。想像すると悲しいなあ」 そんな会話をしている最中、松波さんがこんなことをいった。 「そうだ。甘糟さんも、伊達みたいにリハビリで走り出して、そのままロンドンマラソン目指したらどうです?」 「ははは。10キロぐらいのロードレースなら出てみたいですけど、フルマラソンなんて無理ですよ。根性ないですもん」 会話の上では軽く聞き流したが、この松波さんの言葉は、なんというか、水面に石を投げたように、私の心に波を立てた。妙にひっかかった。 伊達さんにはじめて会ったのは、去年の三月。アディダス・ジャパンと私が連載を持っている女性誌フラウが共同で主催したトークショウで、伊達さんの相手を務めることになったのだ。いまだに語り継がれる96年のウインブルドンでの対グラフ戦をはじめ、TVで観ていたあの“伊達公子”が、あまりに華奢なので驚いた。 こんな細い身体でシュテフィ・グラフやセリーナ・ウィリアムズと打ち合っていたの?それもそのはず、伊達さんは、翌月に行われるロンドンマラソン出場のため、身体を絞りきった状態だった。走り込みはもちろん、かなり厳しい食事制限もしたそうだ。 その後、アディダス・ジャパンを通じて聞いた伊達さんの初マラソンのタイムは、3時間27分40秒。ゴールした後、「景色を見ていたらあっという間だった。もう終っちゃったのかって感じ。でも、楽しかった」とにこにこしていったらしい。一流アスリートの凄さを思い知った。遠い別世界の話のように感じた。もちろん、42・195キロを走りきることも。 ネイルカラーを落として自宅に戻り、入院の準備をする頃には、松波さんの気紛れな提案などすっかり忘れていた。入院ははじめてではないが、手術&入院は初。ほとんど遠足でも行くような気分で、あれこれと支度をした。 エアエッジで接続できるようにしたPCはもちろん、読みかけのままの文庫本数冊に仕事の資料(入院中に三本入稿がある)、アロマオイルとそれを焚くポットや病院食対策の岩塩とオリーブオイル、それにチョコレートとクッキーを少々。さすがにアルコール類を持ち込む度胸はなかった。パジャマも一着だけ用意したが、衣類は主にアディダスのトレーニングウエア。あんまり病人臭くなりたくなかったのだ。ベッド周りをなるべくカラフルにしようと、プッチのペンケースやラルフローレンのマグカップなど、小物にもこだわった。 準備を終え、買ってきたハーフボトルのヴーヴ・クリコを開ける。当分アルコールを飲めないので、一人で飲み収めをした。まあ、当分といっても、たかだか一週間だけれど。とにかく、今回の手術&入院は私にとって、大きな“イベント“だった。不謹慎にもかなり楽しんでいたと思う。ハーフサイズのシャンパーニュはすぐ空になってしまい、次は赤ワイン。イタリアのデイリーものだ。飲みながら、友達数人に電話。明日からの入院生活を報告する。大して深刻ではない不幸自慢はほとんどカラオケのようなものだ。イタリア車好きの壊れた自慢とかとも同じ。 就寝、午前三時半。 そもそも、なぜ私が手術を受けることになったのか。入院診療計画書に書かれた私の病名は「右距骨下関節不安定症」とある。 簡単にいうと、捻挫を繰り返しているうちに、足首の靱帯の大部分が切れ、ぶらぶらになってしまったのだ。靱帯はアキレス腱のように自然治癒はしない。一度伸びたり切れたりしたらそのままで、つまり、捻挫をすればするほど、さらに捻挫しやすい足首になっていく。 私の捻挫ぐせはかなり前からだった。子供の頃、アキレス腱の発達に骨が追いつかなくて炎症を起こし、診療所に通ったことがある。そのことも、無関係ではないと思う。よくこけやすい子供だった。 大人になってからの捻挫の主な原因はふたつ。ハイヒールとテニスである。まずは、ハイヒールの多用。7センチや9センチは当たり前、気に入ったデザインがあれば11センチヒールの靴も平気で履いた。ここまでくると竹馬に乗っているようなもので、そりゃあ、まともに歩けるわけない。加えて、そういうおしゃれ靴で出かける時は、アルコールが入る場面が多い。酔っ払ってこけては、軽い捻挫を繰り返していた。それも、両足首ともだ。 次はテニス。そして決定打となったのは、昨年九月のアディダス・カップだ。アディダス・ジャパン主催のテニス・トーナメントに出場したのだが、そのために六〜八月は部活動のようにテニスをした。週に五回はコートに立った。テニスは、とにかく足首に負担のかかるスポーツである。前後左右斜めとコートいっぱい走るし、ダッシュしては止まる繰り返し。テニスに夢中になればなるほど、足首の痛みは増していった。アディダス・カップでの私は満身創痍という感じで、テニスエルボー&腱鞘炎(これはもう職業病)の右肘と、両足首にテープをぐるぐる巻いて出場した。結果は……、一回戦でボロ負けだったけれど。 テニスのトーナメントを終えても、足首の痛みは軽くなるどころか、どんどん加速していった。秋が終る頃には、渋滞でクルマを運転していると、足首が痛くなるほどになってしまった。テニスやジョギングの時はぐるぐるとテープを巻き、終るとあせって氷を当て……。新しい小説の連載も始まって、私にはとにかく時間がない。面倒くさくて面倒くさくて、足首ごと換えてしまいたいと冗談半分で思った。 もう、テーピングとアイシングでは間に合わない。スポーツトレーナーの松井先生に相談に行った。松井先生はトータルワークアウト三田店のトリートメントルームを仕切るトレーナー。その前は、ヤクルトスワローズに三十年間勤めたその道のプロだ。肘なら誰それ、首は誰、腰は誰、という風に、故障の部位別にお勧めのドクターがいる。 その松井先生に紹介してもらったドクターの診察を受けに、ある大学病院へと足を運んだ。足首をひねった状態のレントゲン写真を撮ってみると、私の足首は負荷がかかると4〜5ミリずれしまうことが判った。普通は2ミリずれても違和感があるそうだ。特に右足がひどいという。ドクターはあっさり「手術」という言葉を口にした。 「このままでも普通の歩行はできますし、日常生活に困ることはないでしょうね。でも、これからもスポーツを楽しみたいなら、思いきって手術で人工靱帯を取り付ける方法もありますよ。二、三週間したら、どうするか決めて、また来院してください」 「手術? どんな手術ですか?」 「まあ、簡単な手術ですよ。もし、受けるようでしたら、詳しく説明しますから」 簡単な手術というドクターの言葉を、私は鵜呑みにした。靴を履き替えるように足首が取り替えられる、そんなイメージだった。入院は片足で十日前後。二ヶ月もたてば、テニスでも格闘技でもできるようになるという。一生のうち、二ケ月なんて、あっという間だよな、と思った。私は、大して悩まずに、手術を受けてみようと決めた。 そんな私の選択に、多くの反対意見があった。スポーツトレーナーやテニス関係者など、スポーツの専門家はたいてい、プロの選手でもない私がそこまで負担を背負うことはない、という意見だった。私には、その負担が一体全体どれほどのものなのか、今いちピンとこなかった。プロじゃなくても、スポーツを楽しむための環境作りに凝ったっていいじゃない。そんな気分だった。 年が明けてすぐ、手術の日程を決めた。 片足の手術後、二週間おいてもう片方の足を手術する。どちらからでも良かったのだが、じゃあまずは症状の重い右足から、となった。私は、後々この決断に心から感謝することになる。 当日は一人で病院に行った。親とマネージメントを頼んでいる事務所にしか、病院を教えなかった。お見舞いに行くから、といってくれた友人や編集者も何人かはいたけれど、私は病院に「こもる」つもりだった。せっかく隔離されるのだから原稿に集中したかったのと、歯を食いしばってリハビリに励んでみたかったのだ。孤独で地味な入院生活に軽い憧れがあった。手術の時も一人で大丈夫だから、といい張ったが、さすがに母が「麻酔するんだから、親族がいなくちゃだめよ」と、手術当日だけ病院に来ることになった。 アロマオイルやらマグカップが入ったルイ・ヴィトンのキーポルと、大きな紙袋を二つタクシーに積み込んで、病院に向かう。病院の入り口で、私は自分の勘違いをちらっと予感した。タクシーから荷物を降ろしたはいいが、肩にかけたバッグを含めて四つもの荷物を、いったいどうやって持ったらいいのか、途方に暮れた。ここはホテルではない。ドアマンもベルボーイもいないのだ。守衛の叔父さんに泣きついて、病院の中まで荷物を運んでもらった。 何でも一人でできると思い込んでいたけれど、案外些細なことが無理だったりする。入り口から入院手続きの窓口までは、両肩にバッグと紙袋を抱え、キーポルを蹴飛ばしながら歩くという、乱暴この上ないスタイルでたどり着いた。ついこのあいだ、エレガンスについての原稿を書いたのは、誰だっけ? 部屋は四人部屋。個室に入りたかったけれど、延べ三週間近い入院なので経済的な事情もあったし、せっかくだから、右足の時に四人部屋、左足は個室と、違う経験をしてみようとも考えた。 荷物の整理をして、ベッド周りを整えると、することがなくなった。早速アロマオイルを焚いて、原稿を書き始める。マリ・クレール誌の「リゾート・ファッション特集」へのものだ。資料として渡されたコレクション・フォトを病院のベッドで眺めた。数時間もすると、看護師がやってきて手術やリハビリに関しての説明をする。明日の手術は午後三時からの予定だ。当日は朝食も昼食もなし、栄養点滴を受ける。午後は水も禁止。この辺で、ノーテンキな私も、事の重大さに気がついた。麻酔をかけるのも身体にメスを入れるのも大変なことなんだ、と。 |
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