第十後回
 米軍基地での駅伝。男子の部は十二時半スタートだった。気温も湿度もぐんぐん上がり、ほとんど8月のような気候だ。アディダスから参加の4チームは部署ごとで構成されていて、なんでも焼肉をかけているという。参加することに意義があるという雰囲気だった女子とは違い、男子の部ではアディダス・ランナー全員が社内での優勝争いに燃えていた。チームで円陣を組んだり、ひそひそと作戦を練ったり。ランニングは孤独なスポーツと思い込んでいたけれど、駅伝となるとこうしたチームプレイの醍醐味が味わえる。
 男子の部は、第一走者から10キロ、5キロ、5キロ、アンカーも5キロだ。当然、第一走者は各チームのエースランナーが走る。スタートの合図とともに飛び出したのは、ヒラツカ・アスリートクラブと書かれたユニフォームを着た黒人選手だった。速い。とにかく、速かった。彼を目で追っていると、周囲の景色が輪郭を失っていくぐらいだった。先導車にも追いつきそうな勢いだ。これはもう、疾走という種類のアートである、なんちゃって。なんと、この選手は10キロを25分で走ったらしい。
 MYランニング師匠である萩尾さんは、三十六分で走って、第二走者にタスキを渡した。萩尾さんも、やっぱり感動的に速かった。なんといったらいいだろうか、身体の躍動感が一般人と違うのだ。皇居RUNの時、私やくぼまみに軽い嫌味をいっている人とは別人のようだった。さすが、トライアスロン元日本代表!
 そして、私が萩尾さんの速さ以上に驚いたのが、他のアディダス・ランナーたちの必死さだった。皆、次の走者にタスキを渡すと、芝生に倒れこんで、しばらく動けない。荒い息のまま、苦しそうに顔をゆがめて身体を放り出している。汗が染み込んだウエアは芝だらけ。み、みず……、と声に出すのが精一杯の人もいる。レースが終わった女子ランナーたちは、彼らの首の後ろに氷を当てがったり、水やスポーツドリンクを渡したり、と大忙しだった。
 氷をビニール袋に入れながら、自分のことが恥ずかしくなってきた。私は、いっつも、ちゃんと力を出し切っていない、エネルギーを使い切っていないままで、走り終えてしまう。レースでも練習でも。だいたい、考えてみれば、ほんの思いつきでマラソン出場を決めた私には、贅沢過ぎるほどの環境である。萩尾さんには燃え尽き症候群まで心配してレースや練習の計画をたててもらい、シューズは何種類も揃え、スントやらフォーモーションやら分不相応ともいえる小道具に囲まれ、足が痛いとR-bodyに連絡すれば、すぐに鈴木さんや大高さんが診てくれる。もしかして、私にはランニングに必要なハングリー精神みたいなものが決定的に足りないのではないか……。それは、決して貧乏くさいものではなく、ここで自分を甘やかしてしまおうか、という誘惑を断ち切るために要るものでないかと思う。じりじりと照り付ける太陽の下で、そんなことを考えた。
 レース後は、相模原の焼肉屋で打ち上げ。ほこりまみれのまま、ビールで乾杯する。ジョッキを傾けながら、大勢の人たちでひとつのことをやり遂げるっていいなあ、とシンプルに感動してしまった。作家という職業柄、あまり、いや、ほとんどこういう場面がないので。味方は編集者だけだ。
 こうしてレースと駅伝で脚を酷使した週末が終わった。この週末を境に気候はすっかり秋になった。月曜日の肌寒い朝、おそるおそるベッドから起き上がってみると、まともに歩けなかった。まあ、これは、“想定の範囲内”であるけれど。自分でオイルマッサージをする。もう多少の痛みにびびることもなくなり、小心者の私も少しはたくましくなってきたようだ。
火曜日は、久しぶりに外食の約束が入っていた。場所は四谷のオテル・ドゥ・ミクニ。せっかくおしゃれをしたので、無理をして久しぶりに9センチヒールを履いて出掛けた。'82のボルドーをいただき、ほろ酔い気分で帰宅する。
 その罰か? 夜中に自分の悲鳴で目が覚めた。右足がつってしまったのだ。ふくらはぎがひきつって、何かで切り込まれたような痛みが走った。触ってみると、ふくらはぎは石のようにかちんかちんになっている。時計の針が指しているのは午前四時半。急いでバスタブにお湯を張り、少しつかってから再びベッドに入ったが、不安でなかなか寝付けなかった。
 翌日、R-bodyに駆け込む。痛かったでしょう、と大高さんはいつもよりかなり優しい口調だ。疲れと急に寒くなったことによる冷えが原因で、すぐ湯船に使ったのは正解だという。知識があったわけではなく、とっさの判断だった。きっと、こういう場合は、身体が正しいことを要求するのかもしれない。足をつった時、もんでしまうと後が長引くそうだ。またつった時のために、ちゃんと覚えておかなければ。本格的に寒くなってきたら、就寝時用のレッグウォーマーを購入しようと決意する。痛みとひきつりは、2、3日残った。
 十月半ばぐらいから、急激に忙しくなった。十月末に、『肉体派』という小説を刊行するので、それについて取材を受ける日々が始まった。パーソナルトレーナーがつくスポーツジムを舞台に、肉体改造にはまる人々を書いた短編の連作集である。肉体を追い込むという地味で単調な行為に、どうしてこんなに熱中してしまうのか。自分の体験と疑問から書いた作品だ。
 最終章の『筋肉という名の宗教』は、自分をモデルにして、私自身の心と身体に起こったことを記録のように書いた。最初は、ラストシーンらしいラストもなく、わざと書きっぱなしで終えていたのだが、担当編集者に、小さくていいから何かきちんと終焉らしき場面を付け加えて欲しいと注文をされた。そこで私が書き加えたのは、私とおぼしき主人公が打ち合わせに遅れそうになり、小雨の中、246通りを走っていく、というものだった。走ることの快感も数行書かれている。執筆は靭帯手術の後の松葉杖生活の頃だ。強烈に走るという行為に惹かれていたのだろう。小説は、その時々の自分の生理や欲求が、無意識に物語に紛れ込むことがある、そんな気がする。
 書いた時は、自分のマラソン出場とこの場面が重なるなどと思いもしなかったが、取材を受けていると、どうしても私のマラソンの話になる。インタビュアーがこの連載などを読んで知っている場合もあるし、流れでその話になることもある。どちらにせよ、たいていは、どうして? と驚かれる。私は、この機会を積極的に利用しようと考えた。どんどん話して、自分にプレッシャーをかけるのだ。もちろん、今でも出場を取りやめようなどとは考えていないが、さらにさらに後にはひけない状況を作って根性なしの部分をカヴァーしようというわけだ。
 マラソンの話題になると、必ず、けれどおまけのように、目標タイムを聞かれる。さすがに、ここで身の程知らずのタイムを口にしては、セルフ・プレッシャーも逆効果だ。なので、私は必ず、にっこりしながらこう答えることにしている。
「目標は完走です。タイムは気にしません」

 三回目のレースとなる横浜マラソンを前に、ショックなことがあった。R-bodyの帰りに、アディダスの井原さんとランチを取った。そこで、井原さんから、萩尾さんの転勤を聞かされたのだ。萩尾さんの作っているアディゼロが日本限定からグローバルスタンダードとなり、アディダスのランニング部門の本社であるアメリカ・ポートランドに、来年の一月をめどに転勤するというのだ。もちろん、これは、萩尾さんにとっては喜ばしいことなのだろうが、私は、かなり落ち込んだ。
 正直いって、ここまで萩尾さんに依存していたのか! と思った。それを自分の落ち込みで自覚した、という感じだった。萩尾さんと一緒に走るのはせいぜい月に1、2度ぐらいだけれど、心のどこかで、何かあったら萩尾さんに頼ればいいや、と思っていた。何か、といっても、かなり漠然としているのだけれど。フルマラソン完走に向けて、自分が正しいのかどうか、判断してくれる人が側にいなくなるという不安は、自分でも驚くぐらい大きなものだった。その上、ちょうど距離を伸ばさなければいけない時期からいなくなってしまう。井原さんは、そんな私の心情をうまく察してくれた。
「よく判りますよ、その気持ち。納得できる人に大丈夫だっていわれて、前に進めることもありますよね。私も萩尾と相談してみるけれど、誰か代わりの人を見つけましょう」
 それでも、不安は大きくなるばかりだった。一難去って、また一難……。