第十七回
 横浜マラソンも終わり、年内はもうレースの予定はない。秋も深まってきた頃、私は青山のプラダ・ブティックに出掛けた。気温が低くなって身につけるアイテムが増えてくると、むずむずとおしゃれをしたくなる。今年は、1月の手術の後、人前に出る時やドレスコードのある食事会以外は、スニーカー&ジーンズばかりで過ごしていたから、その反動も大きいのかもしれない。足首に負担をかけるのはいまだに怖い。
 プラダにはブーツを見に行った。持っているブーツはヒールが高いものばかりなので、ヒールが低くてなおかつカジュアル過ぎず、適度にファッションしているブーツが欲しかった。すぐ目にとまったのは、きゃしゃなシルエットで、ヒールが3センチぐらいのもの。ベージュの表革。黒やグレー、ベージュや白が多い私のワードローブ(こうして書いてみると、地味だなあ)にも、かなりの頻度で対応可能だ。履いてみる前から、ほとんど購入を決めていた。
 ところが……。
 足を入れてみると、ファスナーが途中で止まってしまった。ふくらはぎの筋肉が邪魔をしているのだ。心の中で、きゃー! と叫んだ。プラダのスタッフは困った顔をしている。恥ずかしかったし、なんだか、ずいぶん遠いところまで来てしまったなあ、という気分だった。好きなブーツも履けなくなるなんて。本当にびっくりした。
 こういう事件は、私の中にあるストイック願望と前向きな相乗効果を生み出してくれるはずなのに、年末になるに従って、ランニングへのテンションはどんどん下降していった。理由は簡単。忙しさと寒さだ。
 十月末に刊行した『肉体派』のプロモーションが一段落するかしないかのうちに、年末進行が始まった。年末とGWとお盆には、印刷所が一斉に休みになり、そのためすべての締め切りが前倒しになる。出版業界の恒例だ。走る時間をなかなか捻出できない日々がやってきた。
 そうなると、走らない→走ることが非日常になる→面倒くさくなってますます走らない、この繰り返し。何事も習慣にしてしまうと苦にならない。逆をいえば、非日常を続けるのはストレスになる。
 そして、そんな面倒くささに拍車をかけたのが、寒さだった。シンプル過ぎる理由だけれど、これは大きい。秋はもちろん冬でも走り出して10分もすれば、身体は汗ばんでくる。だから少し寒いぐらいのウエアがちょうど良いのだが、これで外に出るのは、けっこう気合が要る。その上、寒くなったら、手術の傷口が痛み出した。
 ランニングは他のスポーツに比べて、時間が空いた時にマイペースで気軽にできる。場所の確保もいらないし、一人でも可能である。けれど、その気軽さの分だけ、中止にするのも簡単なのだ。テニスコートを予約していたら、多少やる気が出なくてもそこに行くだろうし、相手があるものなら自分の気分だけでキャンセルはしづらい。
 年末の私は、ランニングのいいところが、すべて裏目に出ていたような状態だった。睡眠薬も、毎日ではないが、かなり常用になってきている。R-BODYにも、なかなか通えない。久しぶりに行って、トレーナーの鈴木さんと話しても、愚痴ばかりが口をついて出る。
「まあ、甘糟さんの場合は、手術の直後に出場を決めて、1年以上も後の大会に出るんだから、モチベーションが下がる時もあるでしょ。選手だって、気持ちの浮き沈みがあるんだから。それが今で良かったんじゃないですか? 3月になってから、やる気がなくなっちゃったらまずいでしょう」
「……。ですかねえ……。今は本当に時間がなくって。そうだ、トレーニングに来られないのを補うのに、プロティンとか飲んだほうがいいですか?」
 苦し紛れの思いつきだった。
「まったく、必要ありません。それなら、忘年会の時のお酒を一杯だけ減らすほうがよっぽど効果ありますよ。あのね、甘糟さん、ものを買って解決しようとしちゃあだめです」
 反省。大人ってやーね、と思った。
 そんな最悪の時期に、アメリカに旅立つ前の萩尾さんから、新しいコーチを紹介された。白戸太朗さんという、萩尾さんの師匠だ。現役のトライアスロンの選手であり、スポーツナビゲーターという肩書きで、幅広く活躍されている。
 正直いって、この頃の私は、気が重いだけになっていた。
――こんなことやってみたいなんて、なんでいい出しちゃったんだろう……。
――もう後にはひけない。どうしよう……。
 そのふたつが心の中にどんより沈んでいた。
 白戸さんには、そんな心のうちは話さず、目標は「完走」だけれど、「完歩」というようなタイムではゴールしたくない、今は練習不足だけれど、年が明けたら何でもするので、きっちり指導して欲しい、と訴えた。そして、白戸さんや萩尾さんに、どこからが「完走」でどこまでが「完歩」なのかを聞いてみたりもした。多分、眉間に皴のひとつも寄っていたと思う。そんな私に、白戸さんは笑いながらいった。
「甘糟さん、もっと楽しみましょう。ランニングは修行じゃないんですから。オリンピックに出たいわけでもないでしょう? それに、あんまりすごいタイムでゴールしちゃったら、嫌味ですよ。読者が反感持つかも」
 そういわれて、つくづく、私は見栄っ張りなんだなあと思った。あれだけいっちゃったんだから、あんまりみっともないタイムは嫌だ、という気持ちが強すぎた。他人に得意気な顔をしたいから走るわけじゃないのに。というより、別に、何かのために走るわけではない。しいていえば、自分で自分の身体を実感したいから。それだけだ。だいたい、私に過剰にタイムを期待するのは、1キロも走ったことのない、この連載の担当編集者だけだ(この人は、軽〜く、伊達さんのタイムぐらいで走れないの? とかいう。自分で走ってみてから、人にプレッシャーを与えて欲しい)。
 白戸さんはとても話しやすい人だった。適度に熱血で適度に論理的、そのバランスが大きな安心感を与えてくれる。お互いの年末のばたばたが落ち着いてから、一緒に走ることになった。

 クリスマスも終わった暮れのある日、皇居の周りを走った。大手門の信号で待ち合わせをする。白戸さんの指導は、私にとっては新鮮なことだらけだった。まずは足裏のストレッチ。かかとだけで歩き、次につま先だけで歩き、足の外側だけで歩き、最後に内側だけ歩く。ストレッチとは、止まってするものだと思っていたので、驚いた。この日は、久しぶりということもあって、ゆっくり2周=10キロ走る。いろんな話をしながら、なんというか、“お茶している”ように走った。
 白戸さんにスントのデータをPCに落とすのもいいけれど、ランニング日誌をつけたらどうかと提案された。メモ帳か何かに、走った日の感想を一言二言書いておく。きつかったとか寒かったとか、そういう単純なものでもいいし、景色のことでも体調のことでもいい。後で読み返すとけっこうおもしろいですよ、とのことだった。
 最後の数キロになると、目標の位置を決め、それに向かってスピードアップするようにいわれる。目標を過ぎたら、自然にスピードを落とす。これは、感覚を刺激するため。その後は、後ろ向きで走ったりスキップやサイドステップをしたりして終了。どうしても身体が同じ動きで固まってしまうから、それをほぐすためだという。走り終えてから、また足裏のストレッチを行う。
その後、私がクルマを止めていた駐車場に戻って、うがい。いろいろなものを吸い込んでいるから、走った後は必ずうがいをした方がいいそうだ。着替えも、羽織っているものは多少汗で濡れていてもいいから、インナーは必ず終了直後に着替えるように、との指導も受ける。よく考えてみれば(よく、でもないか)当たり前のことだ。体調管理も大事な練習のひとつ。熱が出たり風邪を引いたりしたら、走れない。これも、当たり前。
 この日をきっかけに、停滞していた私のテンションがやっと戻ってきた。
 お正月は鎌倉の実家に帰っていた。
 元旦も走る。お昼過ぎ、超々渋滞している車線を横目に見ながら、海岸線を江ノ島方面に向かう。たくさんのランナーとすれ違った。ちらっと目線をよこす人や自分に集中している人がほとんどだけれど、ひょい! と手をあげたり、首をかしげて笑顔を向けたりして、軽い挨拶をしてくれる人がいると、ちょっと嬉しい。ランナーだらけの皇居周りでは、あまり見かけない光景だ。2006年1月1日から、ランニング日誌もつけ始めた。
 ところが、その後、腹痛に襲われた。外を走って冷えたせいかもしれないが、年末から何度も吐き気と腹痛を繰り返している。急に不安になり、思い切ってお正月明けに、鎌倉のホームドクターで血液検査と腸の内視鏡検査を受けた。いつもなら適当な常備薬を飲んで済ませていたかもしれないが、とにかく今は自分の身体にちょっとでも起こった異変に敏感になっている。4月23日までは、風邪ひとつひきたくない! という気持ちだった。
 結果は、大したことはないばかりか、なんと中性脂肪が3年前の三分の一になっていた。元々ぎりぎり正常値以内だったが、その三分の一。これはランニングの賜物としか考えられない。肝機能も相変わらず、正常値の半分ぐらい。お酒もあんまり控えなくていいかな、とすぐ調子に乗ってしまう私。でも、安心するとやる気も起こる。吐き気と腹痛は薬を飲んで、二、三日で治った。
 東京に戻ってすぐ、白戸さんと練習。初の20キロに挑戦した。前の晩は、原稿も書かなければならないし、多少の緊張もあって、なかなか寝付けなかった。白戸さんからは、多少の睡眠不足はいいけれど、睡眠薬が身体に残っている状態は絶対に避けるように、といった内容のメールがきた。迷いに迷って、青い錠剤を一錠飲む。朝八時半に起きて湯船につかり、ホテルオークラで取材をふたつほど受けてから、午後2時皇居に向かった。半日行動していたせいで、睡眠薬特有のぼうっとした感触は、すっかり頭からも身体からも消えていた。良かった。