第二十回
 1月の終わり、白戸さんと皇居でラン。20キロを予定していたが、調子がよければもう1周(=5キロ)増やして、25キロに挑戦することになっていた。ところが、3キロも走ると右足の踵が痛みだし、1周も走らないうちに、走るどころか歩けなくなってしまった。距離を伸ばせば多少痛みが出ることは、頭ではもちろん、もう身体でも判ってきてそれほどあせらなくなったけれど、ほとんど走ってもいないうちにこれほど痛みが出るとは……。またもや大きな不安に包まれ、眉間に皺を寄せながら足を引きずって駐車場までなんとかたどり着いた。
 白戸さんはいう。
「フルマラソンを目指して練習していれば、何かしらの障害は誰だってあり得ることですよ。でも、障害があるからこそ、おもしろいんです。それは、ランニングだけじゃなくて、何でもそうでしょ。仕事だって恋愛だって。あんまり深く考えちゃだめ。それから、丁寧にケアをすることと、痛みが取れるまではきちんと休むこと。これはちゃんと守ってくださいね。」
 励ましの言葉で眉間の皺は薄くなり、R-BODYにケアに向かった。代表トレーナーの鈴木さんとケア・トレーナーの大高さんの二人に足を診てもらう。太ももの外側の筋肉がかちかちになって、そこから続く筋が引っ張られてしまい、痛みが出ている、という診断だった。踵に鍼を打ち、じゅうぶん揉み解してもらって少し楽になった。こうして理論的に説明されると、やはり気が楽になる。どうすれば、痛みを取り除けるのか、また今後予防できるのかを知るのは、大切なことだ。
 自分でも、とても恵まれた環境にいると思う。白戸さんもR-BODYやアディダスの人たちも、的確なサポートはもちろん、私の身体能力と練習環境に応じた励まし&期待をしてくれている。
 けれど、そんな人ばかりではないのだ、ロンドンマラソンの関係者は。もしかすると、甘やかされ過ぎかもしれない私の状況に、強引に大量のスパイスを降りかけてくれる人がいる。そう、この連載の担当編集者・石原さんだ。
 石原さんは、私に小説を書くきっかけを与えてくれた人。はじめて会ったのは十年ぐらい前だ。知り合いの編集者を介して、流行とかファッションとかに振り回される自分についての雑文を読んでもらった。
「この原稿は本にする価値ありませんね」
 あっさりそういわれて、その後少し雑談をした。意外に落ち込んでいない自分が不思議だった。会話の中で、石原さんが、突然、小説を書いてみたら? といい始めた。別に、小説について語っていたわけでもないのに……。
「もしかしたら、向いてるかもしれない」
 私は思い切り不信感を抱いた。
「どうして20分ぐらい話しただけで判るんですか?」
「僕も一応プロですから。あのね、甘糟さんは言葉が意識の外にあるタイプだと思う。そういう人は物語を作れるんです」
「言葉が意識の外にあるって、それ馬鹿ってことですか?」
「ああ、そういうこともあるかもしれませんね」
 小説を書き始めたのはずっと後だったけれど、この時の会話がずっと頭の片隅に残っていた。実際に書いてみて実感したのだけれど、物語の登場人物たちが自分の中に住み着くと、勝手に動く。それは私がコントロールできるものではなく、これこそ“意識の外”で行われている、という感じなのだ。
 いつだったか、高橋尚子さんがTVのインタビューで、練習しているうちに走っていることを忘れてしまう、といっていた。それを聞いて、ふと、十年前のあの会話を思い出した。
 今回、私がロンドンマラソンに出たい、それを一冊の本にしたい、といったら、石原さんは、快く(だったと思いますが……)OKしてくれた。編集者は、いの一番の読者である。いつもタクシーばかりで運動らしきものはまったくしていない石原さんが、私の原稿を読んで、ランニングの疑似体験をできるように書こうと思った。そこから、実際に走るようになって、ランナーが一人増えたらいいなあとも。
 ところが。そんな私の考えは甘かった。
 初レースに出た頃から、ものすごいプレッシャーをかけてくるようになった。
「判ってると思うけど、完走できなかったら刊行はなしだから。リタイアした人の書いたものなんて、誰も読みゃあしないでしょ。参考にもならないし。ああ、その場合は、web連載の原稿料一年分も返してもらおうかなあ」
 私は、真剣に完走できなかったら、半年ぐらいロンドンでバイトしていようかと思った。
 さらに、石原さんは、完走どころか、3時間ぐらいで走れないのか、などという。一般成人女子の初マラソンで3時間なんて、まずありえない。自分が一切走らないので、1分の重みがまったく判っていないのだ。今回の原稿で、先日の膝の痛みを書こうとしたら、こういい放った。
「もう、怪我の話はいらないよー。そんなのただの運の悪い女じゃん。もっとさあ、読んでおもしろいこと書いて」
「でも、本当に怪我したんだもん」
「あのさ、事実をそのまま書けばいいってもんじゃないでしょ。いったい、何してお金もらってんの」
 ただの運の悪い女! それ、私のことか?
 白戸さんも鈴木さんも、怪我の度、本当に真摯に励ましてくれる。そういう応援でやっと立ち直った私の心を、石原さんはすぱっと折ってくれる……。
 この本の最後の原稿は、もちろん、ロンドンマラソンを走った後に書く。それを、次の日に書けというのだ。
「そうだなあ。30枚ぐらい。走った感触が身体に残っているうちに、書いちゃってよ」
「そ、そ、そんなの無理です。42キロも走った次の日なんて、きっとくたくたに疲れていると思う」
「あのさあ、走るのと書くのとどっちが仕事なわけ?」
「それは……、書くことだけど」
「じゃあ、書きな。作家がマラソンを走るって、そういうことでしょ」
 ロンドンで客死するかもしれない……。