第二十一回
 ロンドンの本番までの時間が刻一刻となくなっていく中、アメリカ・ポートランドの萩尾さんからメールが来た。慣れない赴任地で苦労しているのか、別人のように優しく包容力に溢れた内容だった。
――調子はどうですか? 日本は寒いみたいですね。体調に気をつけて。距離に抵抗を感じると辛くなってしまうから、気楽に考えましょう。こちらでは、誰かと一緒に走る時、必ず「HAVE FUN」って声をかけ合いますよ。
 足の痛みや微熱で走れない期間が長かったし、その上小説の新しい連載も始まって、勝手にプレッシャーだらけになっていた私は、不覚にも涙が出そうになってしまった。小説でプレッシャーを感じるのは当たり前だけれど、ランニングはあくまでも気分転換のために始めたもの。もっと適当に考えていいんだ、と今更ながら気がついた。万が一完走できなくても、石原さんに文句をいわれるだけだ。何も日の丸を背負っているわけじゃないし。HAVE FUNという画面の文字をしっかり心に焼きつけた。
 そんな時、事務所のマネージャーの隆子さんが、ふと、私もそのうち走ってみたいなあ、と漏らした。私はいった。
「そのうちって、いわずに一緒に走ってみようよ。5キロぐらいなら絶対に大丈夫」
「えー、5キロ? そんなの絶対無理です」
「無理じゃないって。というより、5キロを走れるぐらいのペースで走ればいいんだから。皇居を一周しようよ」
 不安がる隆子さんを半ば強引にランニングに誘う。僭越ながら、今度は私が萩尾さんや白戸さんの役割を引き受けようと思った。もしかしたら、隆子さんはほんの気まぐれでいったのかもしれないけれど、私がきっかけでランニングに目覚めてくれたら嬉しい。早速、日にちを決め、一緒にシューズを買いにいった。
 いつも通り、大手門の信号前でストレッチ。自分だけの時だとつい面倒くさくなってしまうこともあるけれど、自分が導く側だと思うと、念入りにせざるを得ない。みっちりと身体を伸ばした後、いざスタートだ。おしゃべりしながら、時速7キロ前後でゆっくりと走る。速度が安定するようにこまめに腕の速度計を観て、隆子さんの呼吸や足さばきに注意を払いながら進んだ。きっと、私と走る時、萩尾さんや白戸さんはこうして気を配ってくれていたのだろう。
 初めは最後まで持つかと心配していた隆子さんも、TOKYO FMの辺りで、もう半分ぐらい過ぎたと告げると、俄然明るい顔になった。スタートから38分後、隆子さんは無事大手門の信号前まで走り切る。
「私、走れちゃったんですね。嬉しい! ゆっくり走ってもらったから、全然つらくなかったです」
 喜ぶ隆子さんを見ていると、自分のための5キロとはまた別の達成感を感じた。新鮮だった。かりかりと距離や速度を気にして走っていたら味わえない感覚だと思う。
 そういえば、萩尾さんが、ランニングはある意味チームスポーツだといっていた。もちろん走るのは自分だし、結果も自分一人のものだけれど、一緒に走ってくれる仲間が必要なスポーツだという。それは、実際に走ってみて私も強く感じた。コーチをしてくれる人でなくてもいい、時々でいいから一緒に走る人がいるといないとでは大きく違うと思う。距離が伸びてくると、一人ではつい気持ちが折れやすい。けれど、一緒に走っている人がいれば、お互いを引っ張り合える。
 実は、私には、くぼまみ以外にも“チームメイト”がいる。まだ松葉杖をついていた頃、友人たちと飲んだ時にロンドンマラソンに出たいと意気揚々と語ったら、そのうち三人が一緒に参加したいといい出した。それぞれ飲食関係の会社の経営者であるマッケンこと松井件さんとイナケンこと稲本健一さん、インテリアデザイナーのモリちゃんこと森田恭通さんである。みんな、私とほぼ同年代の四十歳前後。若くないことは判っていても、まだまだ肉体の衰えを認めたくない、微妙なお年頃である。場所は、西麻布のカラオケ屋。私たちは、マイクを握るのも忘れて、42.195キロに挑戦する興奮に酔いしれたのだった。
 それにしても、元体育会アメフト部のマッケンと元陸上部のイナケンのエントリーは理解できるけれど(二人とも二十代にフルマラソンの完走経験がある)、まったくスポーツとは無縁のモリちゃんの参加は意外だった。スポーツジムのデザインを手掛けたというのに、シャンパーニュのグラスより重いものは持たないと公言しているのだから。もしかしたら、大量に飲んだドン・ペリニョンのせい?
 一応私がキャプテンということになったのだが、私は幹事能力ゼロ。働き盛りで海外出張も多い彼らのスケジュールをコントロールなどできるわけはない。そのうちみんなで練習しようね、といい続けたまま、結局、一緒に走るのはロンドンの本番が最初になりそうだ。私が行ったキャプテンらしいことといったら、アディゼロを贈ってウエアの相談にのったぐらいである。
 こんなていたらくでは、チームなどとはいいづらいのだけれど、それでも、やっぱり、彼らがいることは心強い。メールや電話で、胸の中の不安と期待を分かち合うだけでも、“チーム”なのだ。まあ、彼らには男同士のプライドなどもあるらしく、私を通してお互いの仕上がり状況を探りあったりしていたけれど。いかにも“男の子”という感じで、側で見ていておもしろかった。
それにレースはどう楽天的に見積もっても、4、5時間(もしかしたらもっと)以上は走り続けるわけで、そのあいだの話し相手がいるのも頼もしい。キャプテンとして、一人十問、なぞなぞを考えてくることにしようかとも、思案している。
 レース後、完走のあかつきには、ハイヒールを我慢している私に、マロノ・ブラニク本店で三人から靴を贈ってもらうことになっている。ラインストーンがたくさんついた、超きらびやかなものにしようと、今から決めているのだけれど、どうなることやら……。