超魔球スッポぬけ!
朱川湊人
かたみ歌
ほんとうにあった怖い話
 こんにちは、シュカワです。
 十月になると、なぜかこんな艶笑話(大人が聞いて、フフンと鼻で笑うエロっぽい話ですな)を思い出します。
「女ってのは、いったい何歳ぐらいまで女でいるものかねぇ」……つまり、女性には何歳くらいまで性的欲求があるものなのか……と物好きな人に聞かれたお婆さんが、モジモジと照れながら、ただ無言で火鉢の灰を火箸でかき混ぜていた……というだけのお話です。
 つまり、それが「灰になるまで」という答えだったわけなんですが、実は、この話を聞くたびに必ず思い出す忌まわしい記憶が、僕にはあるのです。
 それがどういうものかと言うと、つまり女性に襲われた記憶……しかも、灰になる日も近そうなお婆ちゃんに襲われた思い出なのです。
 そんなバカな……と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、掛け値なしの事実。
 今日は「世の中には、こんな恐ろしい出来事もあるのだ」ということをお伝えするために、僕のこのトラウマをお話いたしましょう。ちょうど季節も三十余前の今頃……僕が小学二年生の十月の夜のことでした(ここで怖そうな効果音を、イメージしてください)。

 その頃、僕は東京のある下町に住んでおりました。古い木造の家が、みっちりと押し詰まったように集まっている地域です。
 確か夜の八時を少し過ぎたくらいの頃合いだったと思いますが、僕の四つ年上の兄貴が、優しく僕に問いかけてきました。
「お前、俺の白衣知らねぇ?」
 ここで言っている白衣というのは、学校の給食当番の時に着込む例のアレです。今でもそうだと思いますが、週代わりで当番をやって、金曜日に家に持ち帰って洗濯してくるのが、良い子のお約束でした。
 兄の問いかけに対して、僕は誠心誠意答えました。
「知らねぇっす」
「じゃあ、これは何なんだ?」
 そう言う兄貴が手にしているのは、僕の学年とクラスが書かれた白衣袋でした。当然、中身も入っています。
「お前、今日、ランドセルに白衣をつけてたよな? 学校に持っていったはずのものが、何でここにあるんだ」
 導き出せる推理はひとつ……僕が間違えて、兄貴が家に持ち帰ってきたものを学校に持っていってしまった……ということです。この程度のことは、わざわざ、じっちゃんの名にかけなくてもわかるでしょう。
「お前、今から学校行って取って来いよ!」
 いわゆるDQN傾向を多分に含んだ兄貴は、鼻息荒く言いました。考えてみれば同じ小学校に通っているのですから、次の日に学校で受け渡しをすれば済むことなのですが、忌々しい兄貴めは、そう抜かしくさりやがりました(下町スタンダード表現であって、誤表記にあらず)。まぁ、小学校の頃は、学校で兄弟と会ったりするのが、何となーくイヤなものですから、そういう気持ちもわからないでもありません。
 僕はチャンバラ物のテレビを見ているところでしたので、絶対に行きたくなかったのですが、兄貴の言うことを聞かなければ、物理的制裁措置が執行されてしまう恐れがありました。仕方なく、心の中で「まったく小物はうるせぇなぁ」と毒づきながらも顔では笑って、夜の学校に行かざるを得ませんでした。
 当時通っていた小学校は、歩いて五、六分ほどのところにありました。急げば往復十分強、教室に白衣を取りに行く時間を含めても、二十分程度で帰ってこられるでしょう。チャンバラ物のクライマックスである『主人公の日本刀による大量虐殺シーン』には、間に合わせることができます(こう書くと、チャンバラ物も欝な感じ)。ずいぶん冷たくなった風に背中を恐れるように、僕は学校に向かいました。
 案の定、兄貴の白衣は、僕の教室のロッカーの中にありました僕はそれを回収すると、巾着状の白衣袋を意味なくブン回しながら、また小走りで家に戻ろうとしました。
 ところが、です。
  学校前の小さな公園の前を通り過ぎた時、中のベンチに小さな人影があるのを見つけました。ちなみにその界隈は古くて小さな家が無数に集まり、その間に細い路地が迷路のようになっている場所です。
 ベンチに坐っている影が気になった僕は、思わず足を止めてしまいました。そのとたん黒い影が呻き声をあげました。今思えば、ちょっとお色気系の雰囲気が入った呻き声だったような気がします。
(何だ、ありゃ)
 公園の入り口から様子を伺うと、それはどうやら、かなり高齢そうな女性のようでした。長袖のブラウスにモンペのようなズボンを穿き、髪の半分以上が白くなっていました。
「もしもし、お婆ちゃん……どうかしたんですか」
 見かけによらず優しい僕は、公園の中に入って行って声をかけました。
「うーん、苦しい」
 お婆ちゃんはお腹を押さえて、深刻な口調で言いました。
「えっ、それはいけない。大丈夫ですか」
 心配した僕が、思わずその人の顔を覗き込んだ瞬間……彼女は突然に牙をむいてきたのです。
 僕の両肩を老婆とも思えぬ力で掴んだかと思うと、彼女はいきなり顔を近づけてきました。そしてそのまま、何と僕に熱いディープキスをブチかましたのです。
「うわーっ」
 思わず僕は叫びました。
 おいシュカワ、ディープキスをされているのに叫ぶのはおかしいだろ……と突っ込んだあなたは鋭い。
 そうです……幸いと言うか何と言うか、そのお婆ちゃんは口と間違えて、鼻の穴に舌先を突っ込んできたのでした。
「いたたたたたたたたたたたたた」
 子供の小さい鼻に大人の舌が刺さったら、どれだけ痛いか想像できますでしょうか。まるで鼻の穴を、無理やり押し広げられるような痛さです(そのまんま)。
 僕は懸命に顔を背けましたが、舌先は的確に小さな鼻の穴を狙ってきました。
 それはさしずめジェットモグラかマグマライザー、あるいはゲッタードリルかライダーマンのドリルアーム。どーんなにどーんなにもがいても、舌は鼻からはずれないっ(『およげ! たいやきくん』のメロディーでお願いします)。 
 さすがに、温厚な僕もキレました。
「痛いんじゃあ、おらっ」
 必死に顔を振って猛り狂う舌先から逃げると、すばやく彼女の鳩尾あたりを軽くグーで殴りました。
 本当に、ごく軽く、ごくごく軽くです。せいぜい彼女が腹を抱えてうずくまり、五分ほど苦しげに咳き込んでいた程度です。いや、大事に至らなくて、本当によかったと今でも思っています。
 お婆ちゃんは形勢不利を悟ったのでしょうか、あるいは殴った僕の罪悪感に付け込もうとしたのでしょうか……しばらくすると、また呻き声をあげ始めました。
「うーん、うーん」
「苦しいなら、家まで連れて行ってあげますよ」
 鼻の痛みが引くと、割と学習能力に乏しい僕は、つい親切に言ってしまいました。ま、やっぱ殴っちゃったしね。
「じゃあ、僕につかまってください」
 お婆ちゃんに肩を貸してあげるような形で、歩き始めました。自ら相手の掌の中に入ったような危険な体勢だと気づいてはいましたが、やっぱり、ほら、殴っちゃったしさ。
「家はどこですか」
 尋ねると、お婆ちゃんは目の前の暗い道を指差します。僕は黙って、そこに彼女を連れて行ってあげました。角にくると、こっち、と指さします。
 そんな調子で二十分近く歩いたのですが、気がつけば、同じところばかりをグルグル歩かされていました。
 そして、再び公園の前に戻ってきた時……またもや舌先アタックが!
 今度はお婆ちゃんも考えていました。僕の背中をブロック塀に押し当て、しかも両方の二の腕を抱え込んで、動けないようにしたのです。もしかしたら、歩きながら冷静に作戦を練っていたのかもしれません
「いたたたたたたたたたたたたたたたたた」
 さっき同様のジェットモグラかマグマライザーか……という攻撃です。 
 僕は渾身の力を振り絞って彼女の腕を振りほどき、胸元で×印に腕を交差させると、それをそのまま、彼女の胸元に叩き込みました。数日前、テレビのプロレスで見たクロス・チョップです。
 彼女はそのまま地面に沈みました。僕は一目散にその場を逃げ出しましたが、ちょうどそこに通りかかったアベックが、何も知らずに僕に言いました。
「ボク、お婆ちゃん、あのままでいいの?」
 その時の僕の魂の叫びは……
「いいんだよぉっ、あんなババァ! うぇーん!」
 後半は号泣です。
 ちなみに後日、そのお婆ちゃんが学校の門の近くで、他のおばさんと楽しそうに立ち話をしているのを目撃しました。
 明るい昼間の光の中で見る限り、ごく当たり前の優しそうなお婆ちゃんで、僕は何となく人間の業の怖さみたいなものを、うっすらと感じたのでした。
 それにしても……あのお婆ちゃんが、口と鼻を間違えてくれたのは、本当に幸いでした。もしもああいう形でファーストキスを体験してしまったら、何だかものすごい損をした気分になっていたと思うのです。
 ところが、この話をある人に聞かせた時、こう言われました。
「いや、そのお婆ちゃんは、何も口と鼻を間違えたのではなくて……初めから鼻狙いだったんじゃないですか?」
「えっ」
 もしや……と思った瞬間、僕の耳の奥で、『トワイライトゾーン』のテーマ曲が鳴り響いたのでした。
朱川湊人(しゅかわ・みなと)プロフィール
1963年1月7日大阪府大阪市生まれ。81年東京都立淵江高等学校卒業。86年慶応義塾大学文学部国文学科卒業。出版社勤務を経て文筆業に。平成14年「フクロウ男」(『都市伝説セピア』文藝春秋刊=第130回直木賞候補所収)で第41回オール讀物新人賞を受賞し、デビュー。平成15年には「白い部屋で月の歌を」で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞、平成17年に「花まんま」で第133回直木賞を受賞した。他の著書に『さよならの空』(角川書店)、『かたみ歌』(新潮社)がある。