超魔球スッポぬけ!
朱川湊人
わくらば日記
名前のないバンド
 こんにちは、シュカワです!
 六月の半ばになりましたが、みなさん、どうお過ごしですか? えっ、ワールドカップ初戦の日本の逆転負けが響いていて、何もやる気が起きない? 気持ちは十分わかりますけど、人間、いつでも前向きにいかなくっちゃ。とりあえず、みんな○○○さんが悪いってことで、ここは一つ……えっ、蒸し暑いし、不景気だし、モテないし、世の中が自分の価値を認めてくれない? だから毎日つまらなくって、一晩中パソコンばっかりいじってる? 誰かと思ったら、イイワケだらけの人生を送っているニートっすか。だから、働けって言ってるでしょ。生活を改めなさいよ。
 さて、高校生の頃のバンドの話も、今回で三回目になります。ちょっと引っ張り過ぎってのは自分でもわかっていますが、今回が最後ですから、よろしくお付き合いください。
 というわけで、前回前々回とバックナンバーをチェックしていただいたうえで、さっそくオハナシに突入しましょう。

 そもそも、バンドというのは何かカッコイイものです。
 ワタシが物心ついた頃、時代はまさにグループサウンズでして、ザ・タイガースを初め、スパイダース、テンプターズ、カーナ・ビーツなどが、人気絶頂だったのでした。ここでビートルズとかローリング・ストーンズの名前を出せればカッコイイのですけど、これが真実なのですから仕方ありません。まぁ、ずうとるびの名前を出さないだけ、いいのではないかと。
 ですからワタシは子供の頃から、バンドというものにとっても憧れていたのでした。別にフリフリの衣装が着たいというコトではなかったのですけど、みんなで一つの音楽を作るのって、とても楽しそうだと思ったのです。四人組とか五人組とか、仲良しグループっぽくなっているのも、いい感じです。
 いつか、そんなことをやってみたいと思っていたのですが、その夢が実現したのが、この高校生の頃のバンドでした。活動期間は一年弱、ステージに上がったのも一回きりでしたが、ワタシの十代の思い出の中で、今でも強い光を放っている記憶の一つです。
 思えば、このバンドには、初めから終わりまで名前というものがありませんでした。
 普通バンドを組んだら、真っ先に考えたくなるオイシイ部分ですが、いろいろな案を出し合うものの、「これだ!」という決定打になるものがなかったのです。暫定的にワタシのあだ名をかぶせた名前で呼んでいましたが、考えてみれば名前がなかったことが、すでにバンドの特質を語っていたような気がします。名前が決められないということは、つまり、みんなの志向を一本化できてないという何よりの証拠なのですから。
 メンバーは五人です。仕事がなくなってボーカルをやることになったワタシと、ドラムのホッちゃん、ベースのマルちゃん、ギターのヨウイチとホリさん――学校でも仲が良く、それなりに付き合いも長い友だちでしたが、実は音楽の趣味がバラバラなのでした。
 ワタシは、根っからのフォーク派です。今はさすがに治りましたが、当時は洋楽がダメな人でした。メロディーよりも歌詞にキャッチされてしまうタイプで、それゆえに歌詞の内容がすぐにわからない海外の曲には、あまり関心が行かなかった……というわけです。
 感覚的にワタシにいちばん近かったのは、ベースのマルちゃんだったと思います。彼は昔も今もフォーク派ですが、その頃は音楽全般への興味が強く出ていた頃で、アルバイトして小型のミキサーを買うようなマニアックなところがありました。おそらくフォークという一ジャンルに捉われず、音楽そのものが面白かったのでしょう。バンドの中にあってこそ真価を発揮するベースギターを買ったのも、その現われの一つだと思います。
 前からワタシと組んでやっていたように、ホッちゃんはフォークもいける人でした。けれどマルちゃん同様、音楽全般が好きで、フォーク以外はわからないということはありませんでした。ドラムに関心を持つぐらいですから、ハードなロックナンバーも好きだったりしたのです。
 ヨウイチとホリさんは、ギンギンのロック志向でした。中学の時には、短期間とはいえ一緒にフォークグループを作ったヨウイチでしたが、高校に入るとロックに傾倒する度合いが深まって、よりハードなギタープレイを好むようになっていました。
 さらにホリさんは、骨の髄からロックの人です。見た目は本当に穏やかで飄々としているのですが、ギターを持たせると人格が変わり、音速の指使いですごいフレーズを弾いてしまうのです。一度、かぐや姫の『二十二歳の別れ』のリードギターをやってもらったことがありますが、根本から世界が違うというか、はっきり言ってわかってないというか、まったく違う世界の演奏をしてくれたものでした。おそらく当時の彼の中には、ぬるいエイトビートなどインストールされていなかったのでしょう。ちなみに演奏中にノリノリになると、なぜか必ず右足をあげるというクセがありましたが、ホリさん自身は気づいていたかな?
 こんな風に、志向がまったく違う人間がメンバーとして集まっていたのですから、どんな曲をやるか(基本的にワタシたちはコピーバンドでした)という根本的なことさえ、なかなか決められませんでした。やりたい音楽に合わせるより先に、「身近で楽器ができる人間」という視点でメンバーを集めたバンドですから、それは仕方ありません。メンバー同士は本当に仲良しでしたが、だからこそムリを通せない部分もあったのです。
 バリバリのフォーク派とギンギンのロック派の両者が納得してできる曲ということで、ようやく決めたのは『甲斐バンド』でした。
 ご存知、甲斐よしひろさんが率いていた大人気グループです。フォーク路線ともロック路線とも取れる微妙なラインで(当時は、ニューミュージックという便利な区分もあったのです)、ワタシも大好きでした。特に『裏切りの街角』や『ポップコーンをほおばって』あたりの曲は、今でもカラオケで歌ってしまうナンバーです。
「基本さえ押さえれば、間奏で何をやってもよい」という決まりを作ったので、ロック志向のヨウイチやホリさんも納得してくれていたようでした。つまりイントロと歌の部分は原曲どおりにやって、後は好きな風にプレイする……ということです。 結果、妙にハードロックっぽい甲斐バンドになりましたが、それは、まぁ、結果オーライ。
 ヨウイチの家は地元でも有名な材木屋さんでしたので、その作業場を貸してもらって練習場所にしました。もちろん貸しスタジオなどでできればカッコよかったろうと思いますが、貧乏高校生のワタシたちに、そんなところを借りるお金があるはずもありません。逆さにブン回してもムリです。
 けれど、その作業場も、かなりいいところでした。大きな国道のすぐ横でしたので人家も少なく、アンプの電源も簡単に取れました。もちろんヨウイチのお家の人のご好意があればこそですが、日曜日ごとにワタシたちはそこに集まって、思う存分音を出したものでした。あえて言えば冬はメチャメチャ寒く、夏は際限なく暑かったという弱点がありましたが、そんなものはたいした苦労とも感じませんでした。いいわね、若いって(←誰だ)。
 本当の苦労は、実は別のところにありました。楽器を置いておける場所がなかったので、ドラムセットやギターアンプを、練習のたびに運ばなければならなかったのです。当時は誰も自動車免許の取れる年齢になっていませんでしたので、運搬手段は人力&自転車でした。実際、ホッちゃんの家から練習場所までの八百メートルほどの距離を、むき出しのバスドラムを抱えて何回往復したことでしょう。自転車の荷台にアンプを括りつけ、ハンドルを取られながらも、どれだけの距離を走っていたことでしょう。本当に無茶よね、若いって(←だから、誰なんだって)。
 そのメンバーで一度だけステージにあがったのは、高校二年の夏のことです。別の高校に進んだ友だちに誘ってもらい、その学校の人たちが企画した合同コンサートに参加させてもらったのです。
 さすがにもう名ナシというわけには行くまいと、再びバンドの名前を考えたのですが、やはり直前まで意思の統一を図ることができませんでした。本当はマルちゃん発案のしょっぱいのがあったのですが(現在のマルちゃんは強力に否定していますが)、あまりのしょっぱさに、ステージに上がる直前、ワタシが勝手に変えてしまったのでした。けれどステージでも名乗らなかったので、結局は名ナシのままと同じだったのかもしれません。
 ステージでは五曲やりましたが、録音を頼んでおいた人のミスで、三曲目の途中からのテープしかありません。あれから二十五年も過ぎたので、完全に失われているはずだと思っていたのですが、几帳面なマルちゃんがちゃんと持っていて、わざわざCDに焼いたものを、先日久しぶりに集まったメンバーに配っていました。
 そりゃあ、みんなは楽器だからいいけどさ、生身の声で歌ってるワタシの身にもなってくださいよ……という気分ですが、楽しい思い出だからいいでしょう。ちなみに、それを聴いたワタシは、すぐさま過呼吸の発作を起こしましたけどね(やっぱり、チョイ嘘)。
 そんな楽しいバンド活動でしたが、やはり志向の違いを内包したまま、いつまでもやれるというわけには行きませんでした。
 当時のワタシは小説らしきものをチョコチョコ書いたり、自分で作詞作曲した歌をノートに書きとめたりしていましたが、相変わらずのフォーク志向で、むしろ中学の頃より磨きがかかっていたと思います。
 かたや他のメンバーは、よりハードなプレイを目指すようになりました。その流れとして、『カルメンマキ&OZ』をコピーしたいという声が出てきたのです。
 そいつはちょっとムリな相談だ、とワタシは思いました。ただでさえ女性ボーカルの曲を男が歌うのは変なのに、ましてやカルメンマキです。声を出して歌詞を読んでいればいいというものではないでしょう。
 自分のやれることが、このバンドではなくなってしまった……とワタシは思いました。強引に別の曲をやろうというのも、みんなの足を引っ張ることになるでしょう。
 ですから高校三年に進級する頃、大学受験の勉強をするという理由で、ワタシはバンドを抜けました。みんなはとっても恐縮してくれたのですが、居残って迷惑をかけるのもイヤでした。とりあえずワタシのバンド活動は、ここまで……ということです。
「どうせやるなら、女性ボーカルと鍵盤パート入れた方がいいよ」
 置き土産のつもりで提案した言葉でしたが、ワタシが言うまでもなく、メンバーはすぐに、二人の女性をバンドに参加させました。けれど、ピアノパートとして参加したのが、ワタシが中学の頃に憧れまくっていた××さんだったというのは、ホントにシャレになっていませんでした。
「ホッちゃん!これはどういうコトなんだよぉ」
 ワタシが彼女に首ったけだったことを知っていたホッちゃんに、思わず詰め寄りました。
「いや、他にピアノできる人が見つからなくってさ」
「××さんが入るなら、俺も復帰する!」
「でも、もうボーカルもいるし……何の楽器やるの」
「リコーダーとか」
「リコーダーって、学校のタテ笛でしょ? どんなバンドさ」
「じゃあ、カスタネットとかトライアングル」
「もっとワケわかんないよ」
 もっとも、当時はとても彼女と会話することさえできませんでしたから、どだい一緒に音楽をやることなどムリだったでしょう。仮に復帰してもミスばかりして、きっとメンバーから、こんな声援が飛んでいたに違いありません。
「しっかりしろよ、根性ナシ!」
「恥ずかしいと思うからダメなんだよ!」
 復帰を断念したワタシの肩を叩いて、ホッちゃんが優しい声で言いました。
「とうとう三回とも、同じオチにしちゃったね。少し強引だけど」
  すみません、これまたウソです。
朱川湊人(しゅかわ・みなと)プロフィール
1963年1月7日大阪府大阪市生まれ。81年東京都立淵江高等学校卒業。86年慶応義塾大学文学部国文学科卒業。出版社勤務を経て文筆業に。平成14年「フクロウ男」(『都市伝説セピア』文藝春秋刊=第130回直木賞候補所収)で第41回オール讀物新人賞を受賞し、デビュー。平成15年には「白い部屋で月の歌を」で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞、平成17年に「花まんま」で第133回直木賞を受賞した。他の著書に『さよならの空』(角川書店)、『かたみ歌』(新潮社)がある。