底辺女子高生 豊島ミホ
第18回ぼくたちの屋上
 映画でも小説でもマンガでも、青春のワンシーンに「屋上」はつきものである。
 でも私は、屋上に出入りできる学校に居たことがまったくない。ここで話題にしている高校でも、屋上への扉はかたく閉ざされていた。出入り口はわかっていても、その扉を開いた先にある景色さえ、私は知らない。
 でも、私には、青春映画の屋上のような場所があった。特別棟の階段をのぼり切った先、校舎の隅の隅とも言える場所にある、美術室だ。
 全国トップレベルの劣悪な環境だ、と美術の先生が言うだけあって、とても美術室とは呼べないような部屋だった。なにしろ、普通の授業をする教室より狭いのである。狭い部屋には狭い机しか入らない、ということで、置かれているのは会議室にあるのと同じキャスターつきの机だ。絵を描くための机にキャスターがついているなんて、冗談じゃない話である。さらに、授業ではその机に三人で座るのだから、はっきり言って絵なんか描けない。絵の具など間違っても使えない。というわけで、ウチの高校では「絵の具で絵を描く」ような美術の授業が一切なかった(今もそうかも)。
 そんなギチギチの教室でも、放課後になってみると少しは広く見える。放課後、ここに来る人は一クラスの人数よりずっと少ないから、机なんてくっつけて使ってしまえばいい。椅子は簡単に積み上げられるプラスチック製だから、除けるのは簡単だ。ふたつの机をくっつければ、ひとりぶんの絵が置ける。絵を置かない時、机の上にはノートやマンガが置かれる。ここに集うのはほんとうに少しの数の生徒だけだから、好きに使っていいのだ。
 最前列の机の前を通って部屋の奥に行くと、美術準備室の扉がある。たいていは開け放されているその扉をくぐると、正面に三人掛けのソファとテーブルがある。ソファに座ると、右手には先生の机と、ブルーグリーンのマックがあって、先生が居てなにか作業をしている。左手は窓だ。春夏にはテニス部が猛練習を繰り広げているのが、冬には弓道部の一年生が雪かきをやらされているのが遠く見下ろせる。「大変だね」「よくやるよね」なんて、私たちはそれこそ屋上から覗くように、遠く遠く運動部のみなさんを眺めている。
 私たちは好きなマンガや雑誌を持ち寄ったり、お喋りをしたり、CDを貸し借りしたりしていればそれでよかった。やらなくちゃならないことなんてたいていひとつもなくって、ただ好きに、集まってきてそこにいるのだった。
 美術部が私の「屋上」だった。派手な子たちによる自己主張としての甲高いお喋りと、机を見つめるしかない地味な人間による無言の劣等感がうずまく教室から、ぽっかりと切り離されて浮遊する場所。私だって、教室にいる時や保健室に居る時は、十七歳的な焦りと劣等感にやられてひとりで勝手にうんうんうなっていなければならなかったのだけれど、美術部にいる時は違った。きっと、他のみんなもそうだったんじゃないかと思う。やまほどの風船に持ち上げられたように、ふわふわと足が軽くて、多少こころもとないけれども楽しかった。
 その「楽しかった」部活の話を、何故今まで書かなかったかというと、この部活ではなにひとつ大きな事件が起こらなかったからである。すべてのできごとが、短いスライドのようで、なんというか、起承転結のあるお話ではない。
 私は途中入部だった。ウチの高校は一年生いっぱいで「美術」の授業が終わってしまうので、なんかアレ面白かったよなあ、やめちゃうのもったいないなあ、くらいの気持ちで、一年生の時同じクラスだったサヨちゃん(仮)と一緒に美術部に入ることにしたんだと思う。二年生の二学期だった。インドア部の典型で、閉ざされたドアからむんむんと「排他のかほり」が漂ってくる美術室に入っていくのはとんでもなく勇気が要った。最初のうちは、サヨちゃんとふたりで隅っこにいて、羽生善治似の顧問の先生に言いつけられた課題を黙々とやっていた。なんだか、木片をやすりでみがきまくるという課題だった気がする。美術部の人たちは「なにやってんの? 木ィみがいてんの。へーえ」と言うくらいにして、あとは内輪で盛り上がっていた。果たしてこの場に馴染んでいけるのだろうか、と思った不安をかすかに憶えている。
 美術室に通うようになって間もなく、私たちは県の高校美術展(略してコービテン)に出展するため、初めて「水張り」をすることになった。木製のパネルに、水でふやかした紙をぴんとのばして貼り、端をホチキスで留めるのである。先輩の指導のもと、器用なサヨちゃんはすぐにシワのない完成品をつくったけれど、私はB1の紙を五枚もダメにして、先輩に「このバカッ」と怒鳴られた。
 コービテン直前になると、日曜日も学校に来て絵を描いたりした。そういうときはいつもよりお喋りが弾んで、私は「バカッ」と怒鳴った先輩と好きなバンドの話で盛り上がった。「あー、私、美術部に入ってよかったあ」と先輩は上機嫌丸出しで笑った。入りたての後輩と音楽の話で盛り上がることが「美術部に入った意義」になるのは微妙だけれど、まあそれだけ、美術部という場所が気のあう者同士の集まりだったということである。
 平日は平日で、遅くまで居残って作業をした。先輩が薬局からカフェインの錠剤を買ってきて部員に配り、みんな変なテンションで絵を描いた。学校を出る時は本当に最後だから、玄関の電気を消すのは私たちだった。私の高校では、玄関の照明スイッチが昇降口より手前にあるので、靴をはきかえる前にスイッチを押さなければならない。ただし、スイッチを切ってから十五秒間(たしかね)は照明が消えない仕組みになっていて、私たちはその十五秒の間にキャアキャア言いながらかかとに靴を押し込んで外に出る。
 いつのまにか「美術部の人たち」は「私たち」になっていた。私がサヨちゃんを「サヨちゃん」と呼び、サヨちゃんが私を「豊島(仮)」と呼ぶので、部員のみんなは、サヨちゃんのことは下の名前、私のことは苗字で呼ぶようになった。それと同じで、私とサヨちゃんも、部員のみんなをあだ名で呼ぶようになっていた。ひとつ下に「しゃちょう」と呼ばれている女の子が居て、苗字も名前も謎だったけれど、謎のまま「しゃちょう」と呼んだ。
 二月、部室にマッキントッシュがやってきた。私たちは普段触らないパソコンに騒ぎ、とりあえず交替でソリティアをやりまくった。初日に全員で二十七連敗して、慣れてくると、先生が入れた「シムシティ」で遊ぶようになった(パソコンのなかに仮想都市をつくるというシュミレーションゲームです)。興味のある子五人ばかりでそれぞれ市をつくったのだけれど、先生がなにかの合間につくっている「羽生(仮)シティ」に比べてなかなか大きくならなかった。私たちは腹いせに先生の市を火事にしてやった。そんなことばかりしていたので、春になっても、誰もマックで絵を描いたり色を塗ったりできなかった。
 羽生先生(仮)が異動することになった。好き放題状態を丸投げにしていた顧問が変わることになって、私たちはそれなりに不安だった。学校によっては、全員に静物デッサンを課し、油絵のタッチひとつまで強制されるところもあるのだという(ちなみに私はうちの美術部で静物の油絵を見かけたおぼえがない)。私たちは「そんな美術部になったら辞める」と陰で言い合った。けれどもやってきたのはミノリ先生(仮)という若い女の先生で、やっぱり丸投げだった。今までどんなふうに活動してきたのかを私たちから聞くと、「ふーん、いんじゃない」とコメントした。基本、羽生体制の美術部を維持することにしたらしかった。
 それでもミノリ先生はひとつ大改革を行った。それは、美術準備室の模様替えである。今まで、半分は倉庫、半分は羽生先生の魔窟になっていたところを、大掃除して、「サロン」と呼んでも差し支えないくつろぎ空間に変えてしまったのだ(前半部で描写したソファのある場所は、ミノリ先生体制になってから生まれた空間だ)。先生はこれで一気に部員のハートをゲットした。私たちは先生のそばのソファに溜まって、キャッキャとお喋りをするようになった。
 サロンのテーブルには、なんとなくかっちょいいマンガが置かれた。冬野さほの「ツインクル」、魚喃キリコの「blue」や「痛々しいラブ」、そして黒田硫黄の「大王」。新しく入ってきた一年生のFちゃんが、「これおもしろいですよっ」と黒田硫黄をみんなに紹介したのだ。私はそれをいたく気に入って、秋田市まで行って購入した。私はFちゃんとマンガの話でキャーキャー言って(マンガ家になったらコミックキューで対談しようって言ったの、私は憶えてるぜ、Fちゃん)、去年の先輩と同じように「美術部に入ってよかったあ」と心から思った。
 あっというまに季節はめぐる。一年生がぼちぼち増えて、二・三年の男子部員も入った(私が入った時は女子しか居なかったのだ)。新入部員にはあだ名がついた。
 私は相変わらずデッサンひとつしないままで、教室には行かないくせに美術室には毎日通っていた。友だちが来ない時は備品の色ペンをつかってラクガキをしたり、マンガを描いたりしていた。あんまりにおだやかで、なにもなくて、永遠にこういうダラダラした日々が続くんじゃないだろうかと思った。卒業(とか中退とか)しても、また次の場所で、私はやっぱり自分の「屋上」に居るんだ、きっと――そうぼんやりと思い込めるくらい、美術室の居心地の良さは私の身体に馴染んでいた。

 二年目のコービテン前日、私たちは描き終えられなかった絵を抱えて校舎を出た。私と、サヨちゃんと、部長の稲ちゃん(仮)の三人である。もう夜の十一時で、校舎だけでなく、周りもまっくらだった。前庭の松の木だけが、くっきりと影絵になって浮かんでいる。玄関から出て、冷たい空気のなかを少しあるいたら、校舎の横の空を星がぴゅっと流れて消えた。流れ星が消えても、空には満面の星がちかちかしていた。
「こわい」
 とサヨちゃんが言った。
「こんなに星がきれいだなんておかしい、きっと明日地震が来るんだ」
 サヨちゃんの言葉に、私は漠然と「そうかも」と思った。こんなにもきれいな世界は、きっと明日には崩れてしまう。崩れてしまう前の輝きなのだ。そう考えても無理がないくらいの、静かな夜空が私たちの前に広がっていた。

 世界は崩れなかったけれど、私の「屋上」はそれから間もなく無くなることになる。予備校にも大学にも、そしてもちろん社会にも、私は「屋上」を見つけ出せなかった。
 あれは多分、高校時代にしかないものなのだ。素敵でフラットな、自由で特権的な、あんな場所は。
 時々思い出す。私は一番乗りで部室に居て、ソファに座って誰かを待っている。窓の外はおだやかな晴れ、快晴じゃなくて適当に雲の浮かんだ薄い水色の空だ。私は空を過剰に見つめたりしないで、目の端で気にするぐらいにして、ただここちよく友だちがやってくるのを待っている。
1982年2月秋田県生まれ。都内某大学在学中の2002年、新潮社「女による女のための『R-18』文学賞」で読者賞を受賞しデビュー。著書に『青空チェリー』『日傘のお兄さん』(以上新潮社)、『ブルースノウ・ワルツ』(講談社)がある。今春、無事大学を卒業。『告知板としまhttp://fengdao.exblog.jp/
書き下ろし小説『檸檬のころ豊島ミホ
1470円(本体定価1400円)
23歳! 今、最注目の女性作家による
痛くてまぶしい、青春7ツ。
□□□□□「いっそ痛いと思った、
その痛みだけは思い出せた」□□□□□
初恋、友情、失恋、部活、学祭、進路、受験、上京……。
山と田んぼに囲まれた、コンビニの一軒もない田舎の県立高校の四季を舞台に、誰もが通ってきた「あの頃」の、かっこ悪くて、情けなくて、でもかけがえのない瞬間を、ヴィヴィッドに描き出した傑作青春小説。