底辺女子高生 豊島ミホ
第22回あの二月
 保健室にこもりっきりだった私が、どうして再び教室に行くようになったのかは思い出せない。
 第17回でもちょっと触れたように、出席が足りないために「このままで行くと今年の受験は無理」と十一月の時点で担任に言われた。意識している人はあまりいないだろうけど、大学の受験資格には「高校卒業見込み」(もしくは大検取得)というのが入っているのである。見込みのない人は入試の願書を出せない。つまり、私に「卒業見込み」はないのだった。留年するか、中退して大検を受けるか、もしくは補習をしまくってぎりぎり卒業させていただくか、になる。
 中退だろうなあ、と思った。で、変なところで楽天家な私は、「ふむ、では今年度残り数ヶ月は何をしてもいいのだな」という結論に達した。もう出席時数なんて関係ない。授業には出たい時出ればいいし、出たくなければ出ないで他のことをしていればいい。
 うーん、超自由! 周りがみんな受験生で不自由そうにしているので、フリー感もひとしおである。
 しかし、自由な状況に置かれた私がしたことは、「普通に授業に出る」だった。人間、義務は負担だが、やらなくていいことはそう負担でもないのである。劇場で見て気に入った映画のDVDを、いざ手にしてみると意外と見ないのは、「見なければならない」という義務感が生じるからだと新聞で読んだ。その逆で、義務が義務でなくなると、「まあ、やってもいいよ」という気になるもの……じゃないだろうか。
 十二月に入った辺りから、私の出席時数は右肩上がりで増えていった。
 その頃、教室でよく「新たなクラスメイト」を発見した。休み時間、教室の隅にたまってお喋りしている人々のなかに、見知らぬ男子が混じっているのである。他のクラスの人なのかなあ……とこっそり様子を見ていると、チャイムが鳴っても出ていかない。そこで初めて、「あ、クラスにこんな人居たのか」と気付く。三年の十二月にもなってひどい話だが、他の人はもっと私の存在にぎょっとしたはずだ。転校生が来たわけでもないのにクラスメイトがひとり増えているのだから。
 さて、そんなふうに真面目に授業に出ていると、再び担任から呼び出された。
「最近頑張ってるみたいだから、卒業させてもらえるかもしれない」
 と突然言われる。何でも、二月三月とみっちり学校に来て補習をすれば卒業できないこともない、らしい。学校の卒業式は三月一日と決まっているが、もし一日までに補習が終わらなくても、みんなと別に卒業するのは可能だというのだ(決まりとして可能というだけで、学校側がわざわざ問題児を助けるために、厚意でその補習をやってくれるかどうかはまた別の話。学校や年度によって違うと思います……念のため)。
 目の前にエサをぶらさげて走らせようとするなんてずるい、と思ったのだが、結果的に、私は十二月一月と真面目に出席を続けた。で、卒業のチャンス=補習権を得たわけである。
「三月一日には間に合わないが、毎日六時間補習すれば卒業はできる」
 そういう説明があって、補習の計画書を渡された。高校はだいたいそうだと思うけれど、三年生は普通、二月以降は自由出席で、授業がない。各自受験勉強しましょう(わかんないとこは先生に聞きにきてもいいよ)ということになっている。その二月、まるまる学校に来て、さらに三月を半分までやれば卒業証書はもらえるらしい。受験はおあずけのままだけれど、来年大検を取る手間が省ける分、トクである。受けさせてもらうしかない。

 二月、生物化学講義室にて補習は始まる。
 特別棟一階、教室棟まで続く廊下の突き当たりにあるその部屋は、ドアを開けると足元が寒かった。理科系の教室が集まった一角なので、そこはかとなく酢酸カーミンくさい気もする。
 私は文系クラスの二人の補習生とともにその部屋に入れられた。補習と言ったって、まさかひとりに教師が付きっきりで授業をできるわけじゃない。要は自習だったのである。部屋には生徒三人しか居ない。
 一緒に補習することになった二人のうち、ひとりは保健室友だちのPちゃんだった。残りはよく知らない男子である。イケメンだ。私のようにくさくさして授業に出なくなったわけじゃあるまい、と推察した。私はPちゃんと前のほうの席に陣取り、イケメンは私たちから距離を取って後ろのほうに座った。
 自習課題はさほど難しいものではなかった。たいがいの科目はプリントが出る。授業前に職員室に行って課題をいただき、授業が終わる頃持っていって答えをもらい、丸つけをする。で、また職員室に行って先生に出す。
 プリントはだいたい三十分くらいで終わった。残りの時間はPちゃんと喋ったり、購買で買ってきたパンをむしゃむしゃ食べたりする。イケメンは時間が余ると、椅子を三つ並べて寝ていた。
 おそろしいまでにしんどくない学校生活だった。身体の具合も悪くならない。Pちゃんといつも一緒なので、むしろ楽しいくらいである。途中に私とPちゃんの誕生日(なんと同じ日なのだった)があったので、放課後に学校のそばにある商店から駄菓子を買ってきて祝ったりした。
 あれほど嫌だった体育の実技も、まったく苦にならない。下宿の友だちが、受験の合間に卓球の相手をしてくれた。石油のポリタンクみたいなものを持って通りすがった用務員さんと、体育の先生とを無理やり巻き込んでダブルスをしたこともある(仕事の邪魔ですね……)。実技の相手が居なくなると、保健の教科書の指定されたページを読んで感想を書け、という課題を出された。罫線ノートいっぱいに、その日のテーマにこじつけて好きな作文をした。先生が笑ってくれると満足した。
 私はもう一時間たりとも休まなかった。先生にかまってほしくて保健室に顔を出すことはあったけれど、それも休み時間や放課後だけの話。チャイムが鳴ると、まっすぐ生物化学講義室に走る。暗くて冷たい、どこか濡れているような気がする廊下。それでも迷わず駆けていく。「教室」がそこにあるからという、当たり前の理由で。
 あの二月の感覚を何と言ったらいいのかわからない。生まれて初めて自転車に乗れた瞬間のような、あの「あれ、漕いでも倒れないや」という不可解な気持ちでいる数十秒間、に似ていただろうか。
 ――今までのはなんだ? なんだったんだっけ?
 劣等感が遠ざかる。悪い夢を見た保健室のベッド、友だちに「大丈夫?」と聞かれて薄笑いで「大丈夫。」と返す時の居心地の悪さも。同じ教室に居るだけの人に向けた、むやみやたらな憎しみも。若干の陶酔を込めて日記帳にこぼした涙も。全部が後ろに流れていく気がした。
 それでも、講義室から出ていこうとする時、廊下から集団の笑い声が聞こえると、手を止めてしまう自分が居た。反射的に足がすくむ。笑い声が通り過ぎていくのをじっと待って、ドアを開ける。もう下級生しか居ないのに、なに情けないことしてんだ、と後から思う。
 自分はここから抜け出せるんだろうか。春が来て、雪が融けて、その時にはちゃんと別の場所に行けるんだろうか。
 
 まだ思い出せるのだけれど、二月のある日、ほんとうにある日としか言いようのない日に、私は階段をのぼりながらふと思った。
 ああ、生きてかなきゃいけないなあ、と。
 なんで突然そんなことを思ったのかわからない。でも、今でも特別棟の階段をのぼってふっとそう思った、瞬間の感覚を憶えているのだ。職員室か、美術室か、どっちに向かっていたのかは忘れてしまったけれど、とにかく講義室から出てすぐ横の階段、一つ目の踊り場の手前を駆けのぼっている途中だった。
 ――どんなになっても、生き残ろう。
 これから先、嫌なことはいくらでもあるだろう。二十八歳とか、三十六歳とかの私も、もうやめちゃいたいと思うことがあるだろう。どんな道を選んでも、当然のこととして。
 そういう時は、この劣等感まみれの高校生活を思い返せばいい。そしたらきっと生き残れる。
 頭の左上のほうで窓がひかっている。雪明かりか陽の光か知らないけど。
1982年2月秋田県生まれ。都内某大学在学中の2002年、新潮社「女による女のための『R-18』文学賞」で読者賞を受賞しデビュー。著書に『青空チェリー』『日傘のお兄さん』(以上新潮社)、『ブルースノウ・ワルツ』(講談社)がある。今春、無事大学を卒業。『告知板としまhttp://fengdao.exblog.jp/
書き下ろし小説『檸檬のころ豊島ミホ
1470円(本体定価1400円)
23歳! 今、最注目の女性作家による
痛くてまぶしい、青春7ツ。
□□□□□「いっそ痛いと思った、
その痛みだけは思い出せた」□□□□□
初恋、友情、失恋、部活、学祭、進路、受験、上京……。
山と田んぼに囲まれた、コンビニの一軒もない田舎の県立高校の四季を舞台に、誰もが通ってきた「あの頃」の、かっこ悪くて、情けなくて、でもかけがえのない瞬間を、ヴィヴィッドに描き出した傑作青春小説。