内澤旬子(うちざわ・じゅんこ)

1967年生まれ。ルポライター、イラストレーター。
屠畜の現場を徹底的に取材した『世界屠畜紀行』(解放出版社/角川文庫)や、愛すべき男たちを描写する『おやじがきー絶滅危惧種中年男性図鑑』(にんげん出版、講談社文庫)、38歳で乳癌と診断されてからの心身の変化について綴った『身体のいいなり』(朝日新聞出版・講談社エッセイ賞受賞)など、著書多数。最新刊は『飼い喰い』(岩波書店)。
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 いつ頃だったか。たぶん私がヨガをはじめてすこしずつ面白くなってきたころだったと思う。仕事の打ち合わせの合間のおしゃべりで、ヨガをやってるんですと打ち明けると、実は私もなのよと、彼女もバレエを四十過ぎてからはじめていたことを知る。
 へえっ、バレエっすか。すごー。
 そんなことないの、私も内澤さんと同じで、これまでまったく運動したことなかったんだから。バレエに対する憧れとかも特になかったし。
 どこかに通って運動ができるんならば、何でも良かったんだそうだ。たまたまお子さんの幼稚園のママ仲間から誘われたのが、バレエだったと。おお、文京区っぽいな。
 自分もヨガをはじめていなかったら、他人事として聞き流していた話だったろう。39歳でヨガをはじめてみて、もちろんはじめのうちは、ひどいものだったけど、夢中になってやってるうちに、歳をとってからはじめてもなんとかなるものなのだということを、身体が知りはじめたばかり。
 これまで運動に縁がない人間であればあるほど、できるようになったときの嬉しさも大きい。で、この喜びを分かち合える人は大変少ない。
 ジャンルを超えて、山崎さんと私はいつのまにか身体が変わる気持ち良さを、喋るようになった。
 お互いやってるものが違うので、専門的な話はできないけれど、なんとなく話を聞いてるうちに、どうやら山崎さんの方が、バレエの方が、運動量が相当高いらしいということがわかって来る。
 わたし、ようやく膝がはいるようになったのよーと言いながらひょいとあげた足を見て、これはただ事ではないと、目を剥いた。踵が、甲が、膝頭が、バレリーナになってるやんか!!
 や、山崎さん、身体もともと柔らかかったんですね……。
 そんなこと、ないない。ものすごく固くて、バーに脚がかけられなかったんだってば!!
 えええええ。ほんとですかそれ。
 そうよー。全然できなかったんだからー。
 負けた……。ていうか、自分がヨガで身体が激変してなかったら、なんだかんだ言ってこの人は絶対運動神経がいいのだと、心の底では信じなかっただろう。
 とはいえ、彼女と仕事で逢っているあいだは、バレエをやろうとは思っていなかったし、誘われることもなかったのだ。
 昨年春ごろに、『クロワッサン』で森まゆみさんと病気についての対談をした折に、病後にはじめたこととして、ヨガをやっているところもちょこっと撮影していただいた。
 この写真を見て、山崎さんなりに思うところがあったのだろう。たぶん想像よりも私がずっと運動量の高いヨガをやっていて、身体も柔らかくなっていると、思われたのかもしれない。知り合って九年目にして声をかけてくださった。
 私は私で、ちょうど悩んでいた頃であった。ヨガをやめたくなったわけではない。むしろもっとたくさんしたいと思いはじめていた。
 ヨガスタジオでのレッスン料は、ドロップインといって一回だけなら3000円、期限付きなどの数回分のチケットを買えば2500円前後にはなる。スタジオによって多少は違うけれど、だいたいこんな感じ。
 ここ二年ほど、自宅から一番近いスタジオの割引チケットを使う他に、入会金のいらない都内の五つのスタジオの時間割をチェックして、仕事の合間に行けるところを探してきた。五つのスタジオは、ドロップインで通う。
 そのうちの一つのスタジオが、ドロップインの料金を値上げした。しかも事前予約が必要になった。いろいろ事情もあるのだろう。しかしそうなると、さすがに通いにくい。
 これまでの体験上、今よりも身体を変えようと思ったら、週三回は行きたいのだ。週二回ならば、現状の筋肉なり柔軟性なりを維持することしかできない。
 ヨガをはじめて一番夢中になっていた頃は、まだ初級ではあったけど、週に三回以上、貯金を切り崩してでも通い詰めていた。あれはつまり、もうすぐ死ぬと思っていたことも大きかったのだ。
 あとさきのことなんか、まったく考えなかった。ただただひたすら自分の身体の不調とだけ向き合っていた。
 癌が転移したり再発したりするのはまあしょうがない。というか考えてどうにかなるものではない。でも身体の不愉快な感じはヨガをやればすっと消える。ならばやるしかない。という感じであった。
 しかし前回で宣言したとおり、どうももう病後という気分でなくなってきた。いつまでもジャブジャブと湯水のごとくヨガに金をぶっこんでいて、いいのか、私。まずいだろ、さすがに。
 仕事がプチバブル状態のときはまだ良い。しかしフリーランスは連載が終わればあっというまに現金収入が無くなる。
 昨年の私は、大きな連載を立てつづけに終了させ、これから単行本に仕上げるのに描き直しだの、追加取材をしなければならなかった。
 ドロップインを混ぜて週三回も通える予算の当ては、ない。近所のスタジオでなんとかしたいところだが、私が通いたいのはヴィニヤサというジャンルのヨガの中級。いや、初級に行っても行かないよりはいい。呼吸しながら胸郭と骨盤を開くだけでも体調は全然違う。
 しかしそれでは筋力はあがらんのだ。
 ちょっと遠いヨガスタジオでは、毎日早朝通い放題のマイソールクラスというものがあるが、これはアシュタンガヨガの自主練習。
 アシュタンガは私としてはイマイチ楽しくなれないヨガなのである。
 スポーツクラブの会員になることも考えた。比較的安くつく。んが、いわゆる機械を使ったトレーニングを試したけれど、まったく合わない。これも楽しくなれない。同じことを淡々とひとりで繰り返すのが苦痛で仕方がない。
 フロアクラスのヨガは悪くはないのだが、いつも満員だし、毎日受けられるわけでもなさそうだった。クラスのレベルも選べない。
 もっとお金のかからない方法として、昨年早春にはヨガとの相性が良いとされるランニングを試みてみた。ところがどうやら私は軽いアレルギー性喘息があるのかなんなのか、走っているうちに猛烈に咳が止まらなくなってしまった。それから二カ月くらい咳の発作を止めることができず、ステロイドの御世話になった。
 現在は空気が乾燥しすぎた夜中に咳き込む程度だが、さすがに怖くて本格ランニングは諦めている。
 家ヨガに戻ることも考えた。しかし千葉の廃屋とちがって、狭い部屋での家ヨガは、毎回かたづけからはじめて、ホットカーペットを引っぺがしてやらねばならない。面倒すぎて、なかなかできない。くそう。
 体調改善を超え、そこまで筋力に、運動量に、拘る理由。それこそは、あんまり言いたくないんだが、この連載の要となるので言わねばならない。いや、前回すでに書いている。
 尻だ。
 ずうずうしくも、加齢に逆らって尻肉をなんとかしてやろうと目論んでいるのだ。

 ヨガをやっていて、体調だけでなく、O脚が改善し、下半身は締まった。
 実は私はかなりの下半身沈殿デブだったのだ。ヒップも三十になったころには95センチを超えていた。上半身はガリガリなのにである。一度だけ測ってとんでもなく驚いた。
 二十代から三十代にかけて、あまりにも身体を見たことがなかったので、いつごろから尻や下半身がでかくなったのか、よくわからないのだ。気がついたらでかくなっていた。
 こう言っちゃなんだが、二十歳前後のころまでは、尻から太ももにかけて、結構綺麗な形をしていたはずなのだ。ていうかガリガリの身体の中で、そこだけ唯一、自分でも女らしく綺麗だなと思える部位だった。
 その当時つきあった男から褒められたこともある。そこしか褒められる部位がなかったからかもしれないのだが。
 それがいつのまにか尻の両脇に妊娠線のような亀裂がある。例の鏡で尻を見て仰天した。いつのまにこんなもんができとったんじゃあっ。
 こんな亀裂があるということは、どうやら尻は急激にでかくなったようだ。生きている自分の身体のことなのに、地層に砂からここまで津波がきたことがあるらしいと類推するようで、かなり情けない。
 この亀裂はかなり悲しいものがあるが、調べてみると、できてしまったものを消す方法はかぎりなく難しいらしい。妊婦さんはみんな狂ったようにクリームを塗ったりして妊娠線を出さないようにしている。まあそうだよな。
 大変残念ながら、できたものは仕方がない。ま、身体にできた線としては、乳癌手術の縫合痕も双方の乳房にくっきりふたつついてるので、諦めも早いのだ。こんなもんしょっちゅう人に見せるもんでもないしね。
 しかし身体のシルエットはそうではない。日々ひと目に晒すものだ。しかも現在測ったらヒップは86まで落ちている。まあそうだとは思ったんだ。デニムを履いても腰が落ちるようになったから。
 これならスキニーパンツも履けないだろうか。改善しつつあるとはいえ、О脚気味であることは変わらない脚は、腿から見せた方がなにかとごまかしがきくし、脚のラインが全部見えたほうが、自分も気を付けて歩くようにするからいいのだ。
 んーまあ、履いて履けないこともない。けれども裸の尻を真横から見ると、あー、もー、往年の尻とは程遠く、四角いですよ。垂れてますよ。悲しいですよ。
 四十すぎると肉にサシがはいるようになるらしい。「ためしてがってん」でやっていたと三十代の男子編集者から、教わった。だからたよりなく、でろっと垂れてしまうらしい。
 で、それを解消するにはやっぱり運動しかないとのこと。運動して垂れが減るなら、運動しますよ。今や運動嫌いじゃないんだし。
 尻の脂肪を燃焼させたい。
 ヨガの下を向いた犬のポーズから片足を思い切り持ち上げるポーズは、尻上部の筋肉を使う。翌日の筋肉痛も半端ない。
 はじめのうちは、上からひっぱればヒップアップするだろうと思っていた。効果がなかったわけではないと思う。
 んが。サシの入った私の四十肉には、それだけではどうにもならないようなのだ。
 尻下部のたるみはいまいち上がらないし、ヨガをやっても筋肉痛になることがない。
 つい立ちポーズの時などに下部を締めると、お尻を小さくしないで、とインストラクターの先生に言われて、ハッとした。
 そういやヨガをやっていて尻下部が筋肉痛になったことがない。ないぞ。私のやり方がまずいのだろうか。いやでもこれまで三十人くらいインストラクターの先生におせわになってるけれど、尻下部が翌日痛くなることはないのだ。
 尻上部と腿、ウェストから背中にかけて、ならしよっちゅう筋肉痛になるのだが。
 そして話はバレエ勧誘に戻る。山崎さんはすかさず続ける。
 御月謝もすごく安いのよ。平日四日間、午前中行き放題で、五千円なの。
 ええっ。それは安すぎるくらいだ。予算的にはヨガを完全にやめずに、並行して続けることもできそうだ。
 私にどこまでバレエができるかどうかはわからない。けれども私はもう若くはない。教室に通う先輩と自分を比べて悔しくなったり恥ずかしくなったりすることはないだろう。上手くなりたいと渇望しすぎることもない。
 ポーズがうまくできればうれしいと思う気持ちは変わらないけれど、それができないとしても、どうして自分だけできないのだろうと、深刻に悩んで泣いたりはしない。
 ヨガをやってきたからこそ、はっきりわかるのだ。いや、ひょっとしたらヨガで身につけられたことなのかもしれない。
 自分がその動きをやっていて楽しいかどうか、身体の目的の部分をちゃんと動かせるかどうか。単純にそれだけに集中することができる。ヒメ体質かどうかなんてのも、関係ない。
 グループ競技でもないから、できないからと誰かに迷惑をかける恐れもないし。発表会の話は一度も山崎さんから聞いたことがないから、ないはずだし(さすがに発表会があったら二の足を踏んだだろう)。
 だから今なら大丈夫。子どものときには気恥かしくて、そして厳しそうで怖かったバレエにだって挑戦できる。大人の運動は、なんて楽なのだろう。
 今度ぜひ見学に連れて行って下さいと、山崎さんにお願いした。
 願いはただ一つ、尻下部が酷使できますように……。