VIVA! 昭和
牛筋カレー
 やっと話は牛筋カレーへと向かいます。
 すじ肉であろうとも立派な牛肉ですから素直にビーフカレーと書いたほうが洒落た雰囲気ですけれど、ここはやはりすじ肉であることを強調したいなあという思いをタイトルに込めてみました。扱いが難しいと思われがちな食材ですが、他の部位では出せない味わいが引き出せるのがなによりの魅力です。
 とはいえ、さすがは牛肉の端くれといったところでしょうか、実はすじ肉といえども高いのです。ですので、僕にとっても運が悪ければ年に一回あるかないかの贅沢な料理だということを、まずはご理解頂ければと思います。

 牛筋カレー作りにおいていちばん時間と根気が必要なのが、牛筋を安く仕入れることです。こいつがまた、すじ肉のくせに一〇〇グラム九八円とか一五八円となどという値段で平然と売られています。これでは、とてもじゃないけれど買えません。あまり買い物に詳しくない方でも、鶏の胸肉ならば二キロで六八〇円で買えるという事実を申し上げれば、すじ肉の高さがわかるかとおもいます。筋張っていても牛肉なのです。
 結果として夕刻の値引きをじっと待つしかないわけですが、これもまた、なかなかうまくはいきません。関西のおでんにはすじ肉が入っているそうですけど、関東ではニッチな食材です。それゆえ流通量も少なく、けれどニッチであるがゆえに、値引きの瞬間を待っている人は必ず存在する、そんな食材です。さらに、どこかの雑誌やテレビなどですじ肉の煮込み料理なんかが紹介されたりすれば、午前中には姿を消してしまうほどのレアアイテムに早変わり。こういう状況の中、一〇〇グラム五〇円台を狙うのはなかなかに厳しいのであります。
 素材の準備からしてすでに贅沢感を醸し出してくれるのですから、安く手に入ったときの喜びは雀躍ものです。

 今回使用する牛筋は、一ヶ月ほど前に隣町のスーパーで見つけました一〇〇グラム五〇円のものです。懐具合も悪くはありませんでしたので、ほくほくと購入して冷凍しておきました。昨夜、冷蔵庫で解凍し、いまはまな板の上で処理されるのを待ってくれてます。あとは、玉葱と人参があれば最低限はクリアというところでしょう。
 ここで、馬鈴薯は入れないのかという問題があるわけですが、はい、馬鈴薯は入れません。クラーク博士の考えた米節約のための馬鈴薯ではありますが、この訳は、第八回あたりで明らかになるやもしれません。
 人参の皮をむいて乱切りにし、玉葱は薄切りにします。人参の皮は、あとできんぴらにでもしてください。人参は直接鍋に入れて煮ちゃいますけれど、玉葱は、飴色になるまでフライパンで丁寧に炒めましょう。あ、少しくらいなら焦げてしまっても大丈夫。ほんのりとした苦みもまた、隠し味になるのがカレーの気楽なところですから。あとは、あり合わせで大蒜と生姜があればばっちりです。これらを鍋に投入し、牛筋の処理を始めましょう。
 牛筋は一口大に切ります。すじ肉ですから、他の肉に比べて切りづらいので注意してください。あらかじめ、包丁は研いでおきましょう。無事に切ることができたら、これも炒めてから鍋に投入します。ものすごい灰汁が出ますから、時間を掛けて丁寧に取らなければなりません。肉の臭みが苦手な方は、茹でこぼしてから炒め、鍋に入れた方がよいかもしれません。逆に、牡丹鍋などが大好きな方でしたら軽く炒めるだけで十分です。
 とまあ、ここまでは、なんの変哲もないカレー作りですね。人参に竹串が通るくらいの頃合いになったらカレールーを入れて、牛筋から旨味が滲み出るまでじっくり静かに煮込むだけです。皆さんのカレーと僕のカレー、違いがあるとすれば、インスタントの固形ルーを使うか、カレー粉でルーを作るか、という点だけじゃないかなあと思います。

 カレールーを作る、という段階で、ある程度の知識がある方は身構えてしまうかもしれません。でもそれは、まったくもって半端な知識が邪魔をしているに過ぎません。試しに、いわゆる赤缶と呼ばれている缶入りのカレー粉をスーパーなどで手に取ってみてください。カレーの作り方はちゃんと書いてありますし、その内容は、ルーの作り方も含め、そのへんの料理レシピとなんら変わりはないのです。ただ、レシピを読むのであれば小さな缶を手にとってくださいね。僕が台所に常備させている四〇〇グラム入りのカレー粉ですと、レシピの分量が五〇皿分で載っています。いきなり「肉二〇〇〇g」なんて書かれたレシピを見てしまうと、内容は簡単でも難しい物のように感じてしまうかもしれませんから。
 というわけで、やったことのない人もルーを作ってみてください。用意するのは、カレー粉、小麦粉、サラダ油です。フライパンにサラダ油を引き、小麦粉を入れて弱火できつね色になるまで炒めたら、カレー粉を入れてよく混ぜ合わせる。カレールーといっても、たったこれだけで完成です。小麦粉は必ず振るってから使う・火加減は弱火を維持する・分量をきっちり量って正しく使う。この三つのポイントさえ守れば、脱線することなくカレールーへとたどり着けるのです。

 ところで、インスタントの固形ルーが発売される以前には、どこの家庭もカレールーを作っていたのかと言いますと、決してそうでもなかったという事実があります。カレーライスは家庭料理として存在していたのに、カレールーは作っていなかった。現代人からすると頭の中にはてなが飛び交いそうな話ですけれど、その答えは、前回にも出てきた明治時代の『西洋料理指南』にあるのです。
 この本に書かれたカレーライスのレシピは、ルーを作りません。鍋にカレー粉を入れて煮込み、最後に水溶き小麦粉を入れると書かれているのです。なるほど、これならば現代の固形ルーと同様の感覚でカレーが作れたわけです。これを知ったとき、もちろん僕も試しました。……この作り方で、油揚げとか竹輪が入ったカレーを食べていた人々にとっては、固形ルーのカレーはまったく別物の旨さを感じたに違いありません。ルー作りが難しいと思われていたのか、ルーという概念を知らなかったからなのかはまだ調べている最中なのですけれど、インスタントの固形ルーが持て囃されるに至った歴史的背景は、漠然とながらも腑に落ちる部分だなあと感じてしまいます。
 だからこそ、牛筋の旨味と、自分で作ったカレールーによって生まれるカレーライスの味を、固形ルーが当たり前の今だからこそ試してみて欲しいなあ、なんて感じます。隠し味がどうのとか、玉葱を飴色に炒めてとか、魚介類の出汁がうんぬんとか、主婦向けのメディアで書かれてたり言われてたりすることの本当の意味って、すでに一定の味を付加されているインスタントのルーで試しても、多くの人の舌と脳では理解できないと思うのです。カレーの味は、カレールーによってもたらされるだけではないということを理解するためには、できるだけシンプルなところまでさかのぼり、そこに英知や経験を加えていく必要がある、なんてふうに思うのです。

 おっと、そうこうしているうちに、フライパンの中でさっくりとしたカレールーが完成しました。ルーを鍋に入れてよく混ぜ、砂糖、塩、醤油、コショウなどで味付けしたら、あとはひたすら、とろ火で煮詰めるだけ。そうですね、牛筋がとろけるほど柔らかくなれば完成ですから、食べるのは明日の夜になるでしょうか。ごく一般的なご家庭ですとガス代やら火の元が気になるところでしょうけれど、僕の場合、あとは火鉢に炭を熾し、乗せておくだけですからとても気楽です。

 こうして、明日の夜に豪華なカレーを喰うための下準備は幕を閉じます。明日の夜は、カレーの入った鍋を火に掛け、米を炊くだけで、旨いカレーが食えると思うと嬉しくて仕方がありません。
 僕の家には炊飯器がないわけですが、もちろん、コンビニで白飯を買ったりすることなく、自宅で炊いております。次回、いよいよカレーライスの“ライス”が登場です。
川上卓也(かわかみ たくや)プロフィール
1974年生まれ。全日本貧乏協議会会長。不況長引く現代を貧しくも力強く生きる貧乏人にとっての啓蒙を促し、21世紀における貧乏の定義を確立すべく活動中。著書に『貧乏神髄』(WAVE出版)がある。