VIVA! 昭和
牛筋カレー
 第一回でもちょっとだけ触れましたが、我が家には炊飯器がありません。男の一人暮らしならば炊飯器はおろか包丁の一本もないなんてことは珍しくもない話ですが、かといって、僕が現代人らしく米離れしているのかというとこれはまったく逆でして、米がなければ生きていけないのが実情です。

 貧乏人と米について話をすると、必ず出てくるのが「なんて贅沢な」という一言。特に年配の方からはよく出てくる言葉ですが、これはかつて、池田勇人蔵相が『貧乏人は麦を喰え』というようなことを発言して話題になったことの名残に他なりません。これがいつの話かといえば、昭和二五年の冬。あれから数十年が経ち、とうとう、貧乏人でも米が食えるようになりました、めでたしめでたし、ということならば、きっと僕は喜んで米ではなく麦を喰っていることでしょう。でも残念ながら、この数十年という月日は世の中を変えてしまいまして、いまでは麦の方が高いのです。貧乏人は米を喰うしかないのです。平成の世の中にあっては、麦を喰える人の方が裕福だと言えましょう。ましてや、粟だの稗だのなんて主食として食べるだけの量を入手することすら困難です。

 というわけで、僕の常食は米であり、ここ数年は、方々で分けてもらうことで買わずに済ませていたりもします。炊飯器のない僕の台所で炊飯に用いられるのは、小鍋立てに使うような土鍋です。



 僕が炊飯に土鍋を使うようになったのは、とある老夫婦の引っ越しを手伝ったことに始まります。引っ越しといっても、道路拡張工事に伴う立ち退きですから、本来ならば業者が一気に運んでおしまいなのです。じゃあなにをしに行ったのかと言えば、娘夫婦の「足踏みミシンなどを引き取るついでに少し荷物も運んでしまえば楽だから」という計画の随員として「飯・酒つき」の条件の下に同行したのでした。たしか寸志と書かれた小袋も頂戴したはずですが、この家では、そんなのは些細に思えるほどのいいものを見られました。そこに昭和があったのです。

 朝食の際、炬燵の上に焼き魚や煮物などが並べられまして、みそ汁も用意されまして、最後にご飯が登場したとき、僕の中でなにかが崩れ、そこに新たなピースが加わりました。ご飯は、鍋ごと炬燵の中から出てきました。ホーローの鍋で炊いたご飯は、皆が揃うまで炬燵の中で保温されていたのです。

 当時、僕はまだ貧乏をはじめて丸一年という頃で、住んでいた長屋の台所は一畳もあるかどうかという狭さ。会社員の頃に買った電気炊飯器の置き場所には苦心した思い出があります。最初は冷蔵庫の上に置かれ、不便なので四畳半へ移すも畳の部屋に炊飯器のあることに違和感を覚え、どうにも釈然としない日々を過ごしていたのです。夜、帰宅して真っ先に目に入るのが炊飯器についている発光ダイオードというのはどうにも不似合いだったし、台所は炊事場とも言いますけれど、炊飯なんて言うのはまさに炊事であり、それが畳の上で行われることの不自然に納得できずにいたのです。畳敷きの台所というのもないわけではありませんが、じゃあ四畳半をまるまる台所にしてしまうかというわけにもいきません。そんな悶々の解決策は、老夫婦の営む昭和にあったのです。



 それ以来、僕の中では炊飯器は過去の物となり、土鍋で米を炊くようになってから、もう、六年になろうとしています。つまり、炊飯器という文明の利器がなくても、ちょっとだけ昔の人々と同じように土鍋で米を炊くことは、なんら苦にならないくらいの年月が経っていると思います。いま使っている土鍋は三代目ですから、毎日使っても、ひとつの土鍋で二年は保つ計算になります。手入れが悪くてひびが入ってしまっても、毎日米を炊いていると、ひびの中に染み込んだ米の煮汁が糊の役割をしてくれるのでなかなか割れません。さすがに完全なひびに成長してしまうとくしゃみをしただけで割れたりしますけれど、そんな状態でも、花粉に誘われてくしゃみさえしなければまだまだ使えただろうなあと思えます。土鍋は、ホームセンターで百円以下の買い物ですから、貧乏人といえどもそれほど苦もなく購入可能です。より具体的に金額と僕を結びつけるならば、七分ほどのアルバイトで、毎日使うに不足ない道具が手にできるという感じですね。このくらいの時間ならば、持ち場を離れて煙草を吸っていてもばれません。

 ところで最近、炊飯用土鍋なんてものが千円弱で売られています。もし土鍋炊飯に興味はあるけれどちょっと難しそう……という奥手な方にはぴったりの入門編となるかもしれません。どうせ使っていればいつかは割れますから、使い続けるか、百円以下の土鍋にしてみるかはそのときに改めて考えればよいでしょう。炊飯用土鍋、僕にとっても少し気になる存在ではありますけれど、考えてみれば現状で困っていない僕が十倍の料金を支払うのも変な話です。お釜風の形状をしたそれで小鍋立てをするのも不便そうだし、汎用性は一般的な土鍋の方がありそうな感じ。よほど安く売られているのを見かけるか、人から貰うかしない限り、僕はこれからもありふれた土鍋でご飯を炊いていくことと思われます。



 きっかけは、炊飯器の置き場という些細なことではありましたけれど、いまにしてみれば、おそらく僕の生活が昭和的だと言われるに至る道のりは土鍋炊飯から始まったのでしょうね。家の中に多くの電気製品があることを当たり前と感じる生活と決別する意思表明みたいなものだったかもしれません。運のよいことに、それがほどよく馴染んでくれて、なにより電気炊飯器で炊くご飯よりも美味しく炊きあがることも裏付けになってくれて、現代文明によって得られる便利が当然になってしまったことを疑問に思わせてくれたのです。

 旨い飯が炊けたかどうかの目安に“カニの穴”があります。炊きむらのないご飯の表面には、カニの穴と呼ばれる小さな穴がぽこぽことできるのですが、土鍋で炊くとこれは労せず目にすることができます。高度なマイコン制御を内蔵した高い炊飯器ならばこれを謳ったものもありますけれど、片や九十七円の土鍋、片や数万円の炊飯器という価格の落差は噴飯物です。そしてなにより、炊飯器はお米に対してしてはならない罪を背負っておるのです。

 六号の土鍋だと、通常は米一合、ちょっと頑張っても一合半しか炊けません。僕もまだ数えで三二歳、このくらいなら一回の食事で食べきることができます。別に米を多く食べたからといって太りはしません。むしろ太れるのであれば、前述の炊飯用土鍋の三合炊きでも買ってきて無理にでも喰います。「お米を食べると太るから」なんて言う人がたくさんいらっしゃるようですが、どうかおかずから目をそらさないでください。僕の体脂肪率が一〇%を切っているという現実を咀嚼して頂ければと思います。話がそれましたが、ご飯は保温すると不味くなるのです。炊きあがってから食事をするまでの僅かな時間なら、土鍋であってもタオルでくるむなりすれば保温しておけますが、これで長時間放置するとべちゃべちゃに冷えてしまい、雑炊にでもしなければ喰えたものではありません。ところが、炊飯器だと、各社知恵を絞っておりまして、長時間でもそれなりに美味しく保温しようという機能が実現されているわけです。が、しかし、やはりどんなに技術を重ねたって、ご飯は保温され続ければ不味くなる。炊飯器だけの罪ではないにせよ、朝炊いた飯を夜に喰うなんてことをしていたら、そりゃあ「ご飯ってあんまり好きじゃないんです」なんて言う日本人が現れるのも道理です。

 そして最後に、土鍋炊飯は炊飯器よりも早く炊けるのがなにより嬉しいのです。沸騰まで五分、弱火にして一〇分。火を落として一〇分の蒸らしと、二五分あれば炊きあがりますから、米を研ぎ、土鍋を火にかけ、それから料理に取りかかれば、丁度、できた頃にご飯も炊きあがるという料理ペースを確立できます。ガスをひとつ占領されるといっても、蒸らしの一〇分間はコンロに乗せておく必要はないのですから、占有時間はわずか一五分でしかありません。冷凍食品を温めて終わり、なんていう食事でなければ、三〇分くらいは台所に立っているわけですし、慣れてくれば、目を離していても「そろそろ火を止める頃だな」とわかります。

 土鍋炊飯についてここまで納得してしまうと、高度経済成長で一気に炊飯器が広まった理由についても狂気じみたものを感じてくるから不思議です。いや、きっと炊飯器が当たり前な方々にしてみれば、僕の方がよほど狂気を帯びているように感じられるのでしょう。そこへ一石を投じてみたいというのが、この連載の核であり、つまるところ、僕が変人であることの羅列なのかもしれませんが、さてどうなることでしょう。



 さて、米が炊けました。一晩寝かせた牛筋カレーも火鉢で温め直してありますので、いよいよ感動の“カレーライス”が登場します。
川上卓也(かわかみ たくや)プロフィール
1974年生まれ。全日本貧乏協議会会長。不況長引く現代を貧しくも力強く生きる貧乏人にとっての啓蒙を促し、21世紀における貧乏の定義を確立すべく活動中。著書に『貧乏神髄』(WAVE出版)がある。