VIVA! 昭和
佇まい
 三月に入ると、寒さも和らぐといいますか、こう、深夜に外へ出た際の寒さがなんとなく、深呼吸したくなるような冷気と申しますか、肺に心地よさを与えてくれるように感じます。
 ひな祭りがおわればすぐに啓蟄を迎え、冬至の頃から畳の目ひとつずつ長くなってきた陽光も頼れるものになってきますから、冬の間に寒くて放置してきた作業をゆっくりとひとつずつこなしていかねばなりません。今回は、リハビリがてら室内を離れまして、僕の住処について書いてみようかと思います。

 僕が貧乏に降り、この田舎町へと移住したのが平成十一年。うどんを打ってくれたジジイが所有する、メンテナンスなんて言葉とは無縁の傾いた長屋で暮らしておりました。そこで二年と少しを過ごしたわけですが、ジジイが逝って程なく、新たなる住処へと移ることになりました。
 知らぬ土地にぽわっとやってきて二年ちょっと住んだだけですから、引っ越し先を探すのも難航するだろうなあと覚悟はしていました。なにせ、不動産会社を通じて敷金礼金斡旋料など納め真っ当な家賃を払って住む、という、現代社会においてはまったくもって当たり前の行為が、貧乏人には難題なのです。まさか不動産屋に出向いて「大家と直接交渉するから大家の住所を教えて」と頼んだって、相手も商売のことですし、プライバシーもあります。だいいち、貸し主だってそういう煩わしさを軽減したくて不動産会社を利用するわけです。システムのあることが当たり前となった平成で、大家を訪ねて物件を借りるなんていう古くさいことをやるのには、田舎といったって難しいものがあるのです。
 まあ、こういう場合は素直に他人を頼るのが筋でして、知り合いの親戚が所有している物件にちょうど空きができるという情報を元に、やや強引にねじ込ませていただいたのが、今ここに住んでいるきっかけなのでして、今でも無事、住み続けられております。社会的な秩序あるシステムに対抗するには、ひとという旧来からのシステムを利用すればよかったわけです。

 そんな調子で得られたのは、まるで時が止まったような、隠れ家のような物件でした。田圃と建築事務所に挟まれた未舗装の私道を数メートル行けばそこが現地ですから、意識すれば通りからも丸見えです。でも僕は、二年以上をこの町で過ごしていたし、何度も通った道であるにもかかわらず、そこに家のあることをまったく知らずにいました。木で覆われているとか、草庵のごとき小ささとかでもなく、六畳に四畳半、台所に風呂トイレ、それに事務所跡と思われる大きめの玄関まであるのに、です。確かに、車で通りすぎてしまうと、あまりに色褪せていてまるで存在を感じさせてはくれないのでした。
 選択の余地もありませんでしたけれど、これほどの好条件を気に入らぬわけはありません。家賃もそれまでの廃屋と同じ3万円にしてもらえましたし、もちろん敷金やらも勘弁してもらいまして、すぐに引っ越しを開始することもできました。細々したものは自分の軽自動車で運び、冷蔵庫と洗濯機だけは軽トラックと人手を借りて運搬し、住民票やら電気ガス水道電話の手続きを済ませれば、あっという間に貧乏暮らしの再開。あらかじめ荷物を少なくしておいたおかげで、住み替えはすんなりと終わったのでした。

 この家、もともとは板金屋だったそうで、巨大なガレージが隣接しています。ガレージまでは借りていないことになっていますが、車くらい駐めてもいいよ、との言葉に甘え、軽自動車一台と洗濯機を置かせてもらっています。古い家ですから、室内に洗濯機を置けるような設計にはなっておらず、逆に玄関先に水道が設置されていて、先住の人々も、どう見たってここに洗濯機、という暮らしをしてきたとしか思えません。もしかしたら、初期の頃はタライに洗濯板なんて姿だったかもしれませんね。
 家の西側には小さいながらも庭があり、移り住んだ翌年にはあれこれと育ててみましたけれど、どうにも種代を越える収穫には結びつきにくく、今では勝手に生えるものを採取するにとどめています。苺の繁殖力は春を甘く過ごさせてくれるし、馬鈴薯は堀り残しが勝手に増えるし、紫蘇は雑草のごとくわらわらと自生してくれます。他の野菜は趣味で畑をやっている人々からお裾分けが貰えますから、自分で収穫するのはこれだけでも十分なのでした。
 庭は、またの機会に紹介するとしまして、本日のメインとなる家屋に目を向けますと、ちょっとおかしなところがおわかりいただけるでしょうか。昭和の時代を過ごしてきた跡が、この一枚の写真からでもたっぷりと見て取れるのです。

 いちばん目につくのは、屋根の上にある物体でしょう。ご存じの方には昔懐かしの、ソーラー温水器の朽ち果てた姿です。一目見てわかるとおり、錆びているしずり落ちそうな傾き加減ですし、もちろん今では稼働していません。古めかしいメーカーロゴも色褪せていて、完全に過去を表現してくれております。
 田園地帯や山間部に行きますと、これが屋根に鎮座している姿は頻繁に見ることができますが、ここまで朽ちてはいなくても、動いているかどうかは怪しいなあと思えるものばかりです。いつ流行ったものなのか……僕の中の遠い記憶をひもといてみると、祖母の家にもこいつが載っていたのを思い出します。物心ついたときには載っていて、すでに使われていなかったはず。ほかにも、これのついている家に行った記憶はありますが、お湯が出た記憶は皆無です。ということは、いまから三〇年前にはブームも終わっていたのでしょうか。調べてみるのも面白いかな。
 なんて考えつつインターネットでこいつを検索してみますと、環境問題やらなんやかんやで再びだか三たびだかは知りませんが、いまだに売られているようですね。ただ、僕の家の朽ちているようなものではなく、もっと屋根に馴染むような薄型ですけれど。昭和の人々が使いこなせなかったと予想されるソーラー温水器。平成の人々はどのように使いこなすのか、見物ではあります。

 目線を下にずらしましょうか。赤いポストの脇にあるサッシが現在の玄関として機能しておるのですが、この玄関のついた箱型の一画、ちょっと違和感を感じないでしょうか。実は、増築された部分なのです。ここを入って右手に本来の玄関もちゃんと残っていますし、そこにはNHK受信契約を示すプレートなんかが貼ってありますから、増築された証拠としては十分でしょう。増築部分の広さは六畳ほどで、床はコンクリート敷き。たとえるならば、土間の感覚で増築された感じです。
 昭和の何年かはわかりませんが、高度経済成長が来るぞってな頃に板金業を始めて軌道に乗り、事務所が必要になったのだろうと想像させるつくりです。いまだったら、きっと増築するのではなくプレハブでも建ててしまうような気がします。土間のある暮らしを知っていなければ、このような増築はなかっただろうなあと考えられます。
 この一軒家が、時代の変遷と共にちくちくと改善されながら生き残ってきたことは外観からでも見て取れますけれど、平成の息吹は感じられないのも大きな特徴です。中に入りますますと、より、ありありと歴史が刻まれております。

 暖かくなってきましたから、冬の間に怠っていた掃除もしなければなりません。せっかくですから、掃除ついでにこの家の歴史跡と、そこでの僕の暮らしぶりを、何回かに分けて紹介していこうかと思います。
川上卓也(かわかみ たくや)プロフィール
1974年生まれ。全日本貧乏協議会会長。不況長引く現代を貧しくも力強く生きる貧乏人にとっての啓蒙を促し、21世紀における貧乏の定義を確立すべく活動中。著書に『貧乏神髄』(WAVE出版)がある。