VIVA! 昭和
事務所
 『出かけるときは鍵をかけましょう』なんて感じの立て看板を見たのは、確か、日光へ向かう途中だったでしょうか。車に同乗していた地元の方によれば、古い家は鍵をかけないところが多いそうで、そうはいっても最近は物騒なので警察も鍵をかける習慣を持って欲しいと頑張っているとかなんとか。まあ、僕の住む町も似たようなもので、「鍵なんてかけたことがない」という知人もおります。
 東京へ数駅という場所に住んでいたことのある僕としては、さすがに施錠せずに家を空けるのは不安に感じます。出かけるときは鍵をかけるのですけれど、この鍵が、ちょっと変わり物だったりするのです。
 お店、例えば時計屋さんなんかのショーケースを思い浮かべてください。中に時計が並べられていて、ガラスの引き戸には、スライド式の鍵がついていますよね。ちょっと見せて欲しいと店員さんに申し出れば、この鍵を外して中から時計を出してくれる、がちがちがちっと音をたててはめるような鍵です。僕の家の鍵、実はこれなんです。

 本来の玄関であったところに事務所として土間風の空間が増築された我が住まい。現在の玄関は、この増築部分への入り口ということになります。入り口を遮蔽する役割はアルミサッシの引き戸が担当しているのですが、これ、どう見たって窓用のやつなのです。当然、ついている鍵は内側から縦方向にくるっと回すタイプのものですから、家にいるときしか使えません。建てた当時はそれでもよかったのかもしれませんが、さすがに後から鍵を設置したようで、ショーケースの鍵を後付けしたようなのです。
 引っ越しの際、大家さんか不動産屋から鍵を受け取ることでその物件の主としての実感が得られるというシチュエーションは多く存在するでしょうけれど、鍵だと言われて鍵本体そのものを渡される経験なんてのはなかなかできるものではないでしょうね。

 さて、そんな玄関をくぐりますと、コンクリート敷きの空間が広がっています。事務所だったり物置だったりと、住む人の暮らしぶりで様々に使われてきたであろう空間です。ここへ移り住んだ当初、僕は物置代わりに使っていたのですが、一年ほど前から、事務所として使い始めました。
 事務所といっても、頻繁に来客のあるような商売をしているわけでもありませんし、文章を書いたり写真の整理をしたりなんてこともほとんどは書斎でやっていますから、これが必要なのかと問われたならば、たぶん不要です。でも、空間としての不要ってのは、とっても贅沢なものなのです。

 馴染みの喫茶店が閉店する際に貰っておいたテーブルと椅子を並べただけの事務所ではありますが、年季の入った雰囲気は落ち着きを持っていて、家の古びた感覚にも融け込んでくれました。玄関以外にひとつある窓は南東の方角に面していて陽当たりも良く、日中は灯りをつけなくても読書をしたり原稿を書いたりできます。
 家に作業スペースがあるのに、わざわざ喫茶店やファミレスに行って仕事をする人も居ますけれど、実際、気分転換というのはとても重要です。僕も、書斎で一晩中、なかなか厄介なことを考えていて煮詰まったときなどは気分転換をしたくなりますが、かといって、その度にファミレスに足を運んでいたら貧乏人の財政は破綻しますし、稼ぐためにアルバイトの時間を増やしてしまっては、結局、自分で使える時間を減らしてしまって余計に首を絞めることになるわけですから、本末転倒もいいところ。第一、僕は知らない人がわさわさと居るような場所では気が散ってしまうので、効率を落とすためにお金を使いに行くという結果になりかねません。そこで、家の中でも気分転換のできる事務所を設てみたところ、これがまたぴったりとはまってくれたのでした。

 この事務所は、第二の書斎としてだけでなく、小さな宴会場としての実績もあります。元が喫茶店のテーブルですから、この上に酒や抓みを並べてもなんら違和感はありません。そしてなにより、この事務所は七輪を使うのにとても適した空間なのです。
 あれは、まだ秋刀魚が出始めたばかりでしたから七月の終わりだか八月の始めくらいだったと思います。その時期の秋刀魚は安くても一尾三百円は下りませんけれど、そういう時期に、知人が秋刀魚をぶら下げて遊びに来たのです。こりゃあ嬉しいったらありゃしないと七輪に炭を熾して宴会が始まりました。
 事務所にある窓と玄関を開け、ぱたぱたと扇ぎますと、秋刀魚からもくもくと煙が上がります。室内で七輪なんか使った日には、窓を開けたところで煙は充満しますし、臭いも数日は残りますが、うちの事務所は増築された空間です。事務所と四畳半の間には、増築されるまで玄関として使われていた引き戸がありますから、ここさえ閉めてしまえば煙に包まれるのは事務所だけなのです。

 壁に後付けのコンセントがぼこっと付けられていたり、壁にいくつもの釘が打ち付けられていたり、物置時代の名残が残っていたりと、まだまだ僕を含め歴代の家主が刻んだ余計な傷痕も残っておりますけれど、それらを少しずつ気に入った様子に変えていくのも楽しみのひとつですし、ここでコーヒーを飲みながら詰碁をするのが最近ではお気に入りの遊びです。なくても生活に支障はないかもしれない、一見すると不要な空間ではありますが、僕にとっては大画面テレビとエアコンのあるリビングよりは心地よい遊び場所です。

 ところで、事務所と居間を隔てる元玄関、実はここの戸もアルミサッシで、鍵は内側からかけるものしかありません。この家にとっては、平和なんて空気みたいなものだったのでしょうね。
川上卓也(かわかみ たくや)プロフィール
1974年生まれ。全日本貧乏協議会会長。不況長引く現代を貧しくも力強く生きる貧乏人にとっての啓蒙を促し、21世紀における貧乏の定義を確立すべく活動中。著書に『貧乏神髄』(WAVE出版)がある。