VIVA! 昭和
原稿用紙
 この連載は皆様もご存じの通りインターネット上で公開されていますから、雑誌連載に比べるとかなりの行程が省略されています。裏話的なことになりますけれど、こうして皆様の目に届くまでについて少しご紹介しましょう。
 僕も貧乏ながらにパソコンを持っておりまして、いま使っているのは友人が「もう遅くて使えないから」とタダでくれたものなのですが、僕にとってはまだまだ十分に使えますから助かっています。このパソコンで文章を打ち、写真もディジタルカメラで撮影し、電子メールで編集者さんに送れば、とりあえず〆切はクリアです。約束では掲載の二日前に入稿ということになっていて、これは、組版・印刷・製本・流通を経て皆様に届く雑誌に比べますと驚異的な早さなのです。ましてや、二日前の〆切がろくに守れず公開前日の朝に送稿している僕としては、命拾いとも言える作業効率を感じてしまうのです。この辺が、インターネットの凄さだなあと、〆切ひとつをとってもしみじみと惟てしまいます。

 パソコンの普及によりこれだけ便利な世の中になったわけですが、実は、入稿に関しては似たようなことをやろうと思えば一九五〇年代には可能ではありました。ただし、アメリカでは、という制約がついてしまうのですけれど。
 一九三一年、アメリカにテレタイプという機械で打った文字を電送する技術を用いた通信網が誕生しました。この通信網、五〇年代にはオフィスなどにも広く普及していたそうですし、この頃にはファクシミリも存在していました。一九三六年に開催されたベルリンオリンピックでは、ベルリンから東京へファックスによる写真電送が行われています。
 実際に電話線を通じて原稿を送った記録というのは、一寸調べたのですが詳しくは出てきませんでした。ただ、僕の手元にあるアルビン・トフラーの著書『エコスパズム』の冒頭に、“最後の部分はロンドンからニューヨークへ電話で送られ…”と書かれているのは確認できております。これがテレタイプだったのかファクシミリだったのかは結局不明なままですが、この本が出版されたのは一九七五年ですから、いずれにせよ日本では考えられない話です。この頃、日本でも通信社などがニュース速報を配信するのにテレタイプを利用していましたけれど、文章となると、とても難しかったはずです。アルファベット主体の欧米とは異なり、日本語の電送には大きな問題があったのですから。

 アメリカでは、十九世紀にはタイプライタによる清書が行われていました。英語圏ならば、文字はアルファベットと数字、それにいくつかの記号しか使いませんから、機械による文書作成は容易に実現できたのです。一応、日本語用のタイプライタも存在はしましたけれど、英文のそれとはまるで別物です。なにしろ、漢字ひとつひとつを拾ってタイプするのですから、活版印刷に用いられる植字機と大差はありません。一九八〇年代にパソコンが普及し始めたときも、安い機種では漢字を扱えず、パソコン本体とディスプレイ、フロッピードライブ、漢字の印刷できるプリンタを揃えれば百万円は越えるという有様でした。文章作成に的を絞れば、七〇年代の終わりにワープロ専用機と呼ばれる文書作成・印刷専用の機械が登場しましたけれど、これも最初は六百万円を越える代物でした。しかも、いまのように文章をすらすらローマ字で打って、最後に変換キーを押すと文脈まで判断して漢字を出してくれるような賢いものではなかったのです。
 僕のような貧乏人が、自宅で個人所有のパソコンを使って日本語の文章を書くというのは、ほんの二〇年前にはあり得ない話でした。実際、学校の配布物も、ワープロによって作られたものを手にするようになったのは高校の頃だった記憶があります。小学校ではガリ版印刷をした記憶もありますから、僕の育った時代、昭和の終わりあたりというのが、手書き原稿の終焉とワープロ原稿の始まりの交わる地点だったのかもしれません。
 日本で機械による文章入力が一般的になるのは、コンピュータの進化を待つしかなかったのです。

 一九九〇年に公開された『ミザリー』という映画は、僕の中に少なからず影響を残しています。原作が発表されたのは一九八七年、昭和六二年ですね。事故を起こした作家を保護した女性がたまたまその作家のファンで、連載を続けさせるために街の道具屋でタイプライタを買い与えるという内容を、違和感とともに観たことははっきり覚えています。映画館に足を運んだわけではなく、テレビ放映を観ただけですからいつ頃だったのかは定かではありませんけれど、その当時、作家が文章を手ではなく機械で書くということに対して違和感を持ち、それがずっと頭に残っていたのです。
 今でこそ、筒井康隆や京極夏彦といった作家陣によってコンピュータによる執筆というイメージもできあがってはおりますけれど、当時は、日本の映画やらドラマに出てくる作家といえば、書斎で万年筆片手に原稿用紙を睨みつけるという姿しか想像できませんでしたし、これがステレオタイプだったように思えるのです。ついでに、書斎に隣接する応接間で出版社の人が腕時計を眺めつつそわそわしているのもセットで連想されますけれど、ともかく、物書きと原稿用紙、それと万年筆という組み合わせは絶対的なものだと感じておりました。昔の作家の手書き原稿には歴史的価値の他に商品的価値もついてきます。はたして、原稿の保存されたフロッピーにも同様の価値が認められるかどうかは、今後、数十年してみないとわからないことなのでしょうか。

 そんなわけで、最近、僕も原稿用紙を調達しました。いや、別に自分の書いた文章に価値を求めるとかではないのです。パソコンに向かってもなんにも書けないときにはメモを大量にこしらえたりノートに下書きしてみたりはしていましたけど、原稿用紙ならば、さらに気分も変わるかなあという願いにも似た思いと、ちょっとだけ背伸びしてみたいという気構えみたいなものから出た行動なのです。既製品は持っていましたが、真っ白な紙を前にしても今ひとつ感じが出ない性分なので、藁半紙に近い質感だと思われるザラ紙を買い、副業で印刷をやっている知人に刷ってもらいました。なんと、一丁前に名入りの原稿用紙です。
 ネットで調べますと、名入り原稿用紙を受注している印刷所もすぐに見つけることができますけれど、どうしても自分の使いやすいように線から引きたいと考えまして、パソコンで版を作りました。用紙の大きさはB5にして、バランスのよいように線を引き、左隅に“川上卓也用箋”と小さく入れただけのことではあっても、原稿用紙を自分の好き勝手に設計できるってのはパソコンがあってこその気軽な楽しみです。印刷もタダでやってもらえたので、かかった費用は紙代のみ。一枚当たり五十銭でできてしまいました。
 惜しまれるのは、藁半紙を使えなかったことでしょうか。安い紙の代名詞だと思っていた藁半紙も、平成の世にあっては本物の入手は難しいようです。いま、藁半紙というとザラ紙のことだったりしまして、安い紙の代名詞としてだけ名前が残り、本来の藁半紙自体は消え去る寸前という状況。ザラ紙というのはパルプの再生紙ですから、環境保全という観点からすれば藁半紙とたいして変わらないのかもしれません。でも、パルプの紙が贅沢品だったという歴史の記憶は、藁半紙と共に消えるのでしょうね。もしかしたら、僕が子供の頃に藁半紙と呼んでいた紙も、すでにザラ紙だったのかもしれませんが、現物が残っていませんから、今となってはわからないことのひとつです。

 桜の便りが聞こえ始めた柔らかな日差しの季節に、事務所でひとり、原稿用紙に向かって原稿を書くのも楽しいものです。まだ万年筆は持っていないのですが、こればかりは、一度だけ握らせてもらったことのあるモンブランに「万年筆は値段に比例する」と教えられてしまいましたので、どこかから転がり込んでくるのを待ちぼうけすることに決めました。百円のボールペンでも楽しく書けておりますし、何百枚も書くわけじゃありませんから。
 さて、あとはこの原稿をパソコンに打ち込んで送信するだけです。原稿用紙の上で完成した文章をわざわざパソコンに打ち込んで電子メールで送るという作業には便利どころか煩わしさが伴いますが、じゃあ原稿用紙を郵送して済ませようとなれば……〆切が公開の四日前くらいになってしまいそうですから、やはり素直に打ち込むことにします。
 こうして、便利さのために失われていくものもあるのです。
 編集者が隣の部屋で腕時計をちらちら、という状況がなくて済むのは大変に喜ばしいことではありますけれど。
川上卓也(かわかみ たくや)プロフィール
1974年生まれ。全日本貧乏協議会会長。不況長引く現代を貧しくも力強く生きる貧乏人にとっての啓蒙を促し、21世紀における貧乏の定義を確立すべく活動中。著書に『貧乏神髄』(WAVE出版)がある。