VIVA! 昭和
蔵書印
 長かった梅雨も、どうやら明けたようですね。
 雨音を聞きながら眠りにつく心地よさを思えば梅雨もそれほど苦ではないのですが、今年のようにあまり長続きされてしまうとそれも飽きますし、各地で大雨による被害も出てしまいましたし、そろそろお日様に活躍していただかないと野菜の高騰や稲穂の成長が、などと思っておりましたから、これで一安心です。
 天候不順で米の収穫が少ない年はこれを貰える可能性も少なくなってしまうのですから、稲の生長は僕にとっても心配事のひとつです。幸か不幸か、僕の住んでいる地域で収穫される米は旨いのです。一度、これを味わってしまいますと、十キロ千八百円の安いブレンド米を喰うのはなかなかに寂しく思えてしまうものでして。贅沢な悩みではありますが、田舎に住んでいるのですからこのくらいは旨味があってもよろしいかと思うのです。

 もうひとつ、長雨で困るのはカビでしょうか。今年は、ちょっと油断をしていたら事務所にカビが……。ここ一週間ほど事務所を使わずにいた隙にやられてしまったのですが、運悪く、貰い物の本を何束か置いたままにしてしまい、ちょっとカビ臭くさせてしまいました。梅雨時は、雨が止んだらすかさず窓を開け、せめて二、三日に一回は拭き掃除をしなければと反省です。一応は文章など書いているわけですし、本は大切にしてやりたいなあと、まあ、多くの本に埃をかぶせている身ながらに感じてはいるのです。
 貧乏な僕のことですから、本は貰い物か古本屋での購入が主な入手手段となっています。つまり、本を書かれた方には一銭もお返しできないわけで、じゃあせめて、気に入った本、ためになった本などには感謝の気持ちを印そうと、蔵書印を捺すことにしています。使っているのは、趣味がてらに篆刻した自作の蔵書印です。

 蔵書印だの篆刻だのといった漢字が並ぶと高尚な感じがしますけど、写真を見ていただけると一目でわかるとおり、所詮は素人の作品ですからたいしたものではありません。白状すれば、使っている文字は自分で書いたものではなく、パソコンで適当なフォントを選んで印刷したのをカーボン紙で転記して彫っています。いや、最初は自分で字を書いて掘ったんですけれど、いざ捺したらまるで読めない印になってしまい、パソコンの力を借りて彫りなおしたのです。
 そもそも僕は手先が不器用で、この手の作業は不得意中の不得意。それがなぜ篆刻なんて話になったかといえば、遊び用の落款を作ろうとしたのが始まりでした。知り合いがみんな変人ばかりなおかげか、文化人のまねごとをして遊ぶことがありまして、そういうときに作るなんちゃって書画などでも、落款が捺してあると似非らしさが増すのです。先日、正岡子規と友人たちがおそらくは遊び半分で書いただろう半紙が百十九枚見つかったというニュースがありましたが、それからすれば天と地ほどというか比べるべくもない遊びであっても雰囲気としては似たような所もあるんじゃないかと思います。落款なんて落書きに捺すようなものではありませんけど、そこは、遊び用ですから堅苦しいことは抜きなのです。そんな調子で揮毫扇子など作って遊んでおります。
 僕の字は、人様にお見せできるようなものじゃないのですが、筆ペンでちょちょっと書いた落書きに落款を捺すと、字にも、落款にも、それなりに愛着が湧くから不思議ですし、なにより、もう少しまともな字が書けるようになろうと思うだけは思うので前向きな遊びと言えるでしょう。同様に、読後によかったなあと思えた本に蔵書印を捺してやると、その本に関する記憶とか思いやりが少しだけ増すように感じます。もちろん、蔵書印自体にも思い入れは増えてきていますけれど、これは、いずれ自分の字で彫り直そうと考えております。まあ、せめて読める字を彫れるようになってからになるでしょうけれど、きっと今の印に対する愛着も引き継いでくれるはずです。

 本に印を捺すという行為、最初の頃は緊張もありました。特に、ごく希に新品の本を買ったときなどは、作品への裏書きに比べればまだ楽ではあっても、カレーうどんを啜るときよりは遥かに緊張しました。なにしろ、間違って捺してしまえば取り返しはつきません。貧乏人に怖いもの無しなどとうそぶいてはいても、せっかく清水の舞台から飛び降りるような決心をして買った五千円の本に逆さの蔵書印では格好が悪いなあと思ってしまい、そうすると、捺す場所はどうしようこっちのほうが捺しやすいけど見栄えが悪いかもとか思考がうろうろしはじめてしまうのです。不要な本なら買いませんから、蔵書印を捺すと売れなくなるなんてところでの迷いは一切ないのですが、人に貸すことはあります。襤褸を着るのは平気でも、そういうところで見栄を張りたくなるなんていうのは情けないったらありゃしません。
 けれど、そんなおろおろも過去の話です。貴重に思う気持ちにかわりはありませんし、慎重に捺すようにもしていますが、変な緊張とか力みは一切ありません。“慣れ”ではない部分で、楽になれたのです。そうさせてくれたのは、川端康成の書でした。
 東京にある日本棋院、これは囲碁の組織ですけれど、ここの特別対局室には康成の書が掛けられているそうで、僕も本物は見たことがありませんが、棋院の地下一階にある『囲碁殿堂資料館』に複製が飾られているのは見ることができました。迫力のある、けれど崩し方はありがたいことに控えめなおかげで僕でも読める字で『深奥幽玄』と書かれている掛け軸には康成の署名と落款が捺されているのですが、二つ捺された落款のうちひとつは、逆さに捺された上から捺し直してあるのでした。
 こういう小さなネタであっても、知ると知らざるとでは気の持ちようがまるで変わってくるものです。間違えて捺してしまったということ自体が、作品の背景として語られ、それすらも作品の構成要素になってしまうわけですから、蔵書印の捺し間違い程度を悔やむなんていうのはばかばかしいだけじゃありませんか。写真の世界でも、結果オーライ的な逸話は残っています。ロバート・キャパがノルマンディー上陸作戦で撮った写真の多くは、現像ミスで失われています。仕方なく、僅かに残った焼き付け可能なコマを、戦場を渡り歩いたキャパですら手が震えたと称して発表したことが怪我の功名となったわけです。
 残る失敗ならば、それはそれでいいじゃないかと思えるようになったのですから、蔵書印ひとつでも人生をより楽しめるようになったと言えるでしょう。遊び落款にせよ蔵書印にせよ、捺印の習慣があったからこそ、川端康成の書を見て文字以外の部分でも感動できたわけですし、昔からある嗜みというのは捨てたものではありませんね。

 ちなみに、康成の書に関しては『川端康成「魔界」の書』(疋田寛吉・芸術新聞社)に書いてあるらしいので、古本屋で出会う機会があったら手に取りたいと考えております。落款の話が出ているかどうかまでは知らないのですが、もし、そのことも書いてあったならば、この本に関してはわざと蔵書印を逆さに捺してみるのも面白いかなあ、なんて思ったりして。
川上卓也(かわかみ たくや)プロフィール
1974年生まれ。全日本貧乏協議会会長。不況長引く現代を貧しくも力強く生きる貧乏人にとっての啓蒙を促し、21世紀における貧乏の定義を確立すべく活動中。著書に『貧乏神髄』(WAVE出版)がある。