第十六回
 次の日曜日に三回目のレースである横浜マラソンを控えた週の月曜日、お世話になっていた編集者が亡くなった。ほんの三週間ほど前にお会いして、夜中までお酒を飲んだばかりだったので、連絡が来てもなかなか信じられなかった。突然体調を崩されたのだという。私は、その人に結局、一枚も原稿を渡すことができなかった。受話器を握り締めながら、申し訳ない気持ちと後悔でめまいがした。
 三冊目の小説である『真空管』を読んで、声をかけてもらった。二度目に会った時に、書き下ろしで500枚の長編をやってみませんか、といわれた。その際、今までの自分の価値観を自分で壊すこと、人物をたくさん登場させて、そのすべてに自分を投影させること、締め切りに惑わされずに書くこと、それが今の私に必要なのだと語られた。私は、わかりました、と答えたものの、かなりびびっていたと思う。なんというか、まだ10キロのレースしか出たことがないのに、アイアンレースを走ってみようといわれたようなもの、といったらいいだろうか。
 自分にどのぐらいできるか、まったく想像がつかない。でも、やってみたい気持ちは強くある。そういう心境だった。亡くなった編集者は、時々会う度に、もっと自信を持って大丈夫だから、といってくれた。自覚が足りない、といわれたこともあったけれど。
 距離を走れるようになって強く思うのは、走ることは小説を書くこととよく似ている、ということだ。
 相手が具体的に見えるわけではないし、ずっと同じ作業の繰り返しだし、ペースが出るまではおっくうでしようがないし、途中で何度も自問自答してしまうし(放り出してしまいたくなることもある!)、孤独だし地味だし果てしないし、結局は自分の感覚を信じるしかないし。でも、終わった瞬間のあの解放感は、何ものにも代えがたい格別なエクスタシーだ。味わったことがない人には、なかなか判らない感覚かもしれない。終わった瞬間に、それまでの苦しかったことがきれいさっぱり消滅してしまうのも、共通している。そんなエクスタシーを二種類も経験できる私は、幸運だなあとつくづく思う。編集者は、ランニング・パートナーであり、コーチであり、トレーナーであり、観客である、という感じだろうか。
 告別式は金曜日だった。それまでは、何か悪い冗談のような気がしていた。日常的に接していたわけではないから、余計に実感がわかなかった。告別式に行ってはじめて、現実なのだと身に染みた。もう原稿を読んでもらったり話したりすることもできない。批判してもらうこともない。御経を聞きながら、恩返しはとにかく小説を書くことしかないと、そればかりを考えていた。
人の命のはかなさを思うと、走る気にもなれず、横浜マラソンへの気力もへなへなとしぼんでいった。けれど、横浜へは両親が来ることになっている。
 FRaUの連載「ホテルジョグノート」でのスペシャル版で、ジョギングマップのないニューグランドホテルに宿泊して、ランニングコース&マップを作成した。その記事を読んだ両親が、久しぶりにニューグランドに泊まりたいといい出した。私たち家族は、両親の結婚当初から私が幼稚園にあがる前まで横浜に住んでいた。ニューグランドホテルは二人にとっては思い出の場所なのだ。どうせなら、私が走るのを見物がてら、横浜に遊びに行こうということになった。両親にとっては、小学生の時の運動会みたいな気分だったようだ。私はかけっこが得意だったので、毎回毎回見物に来るのを楽しみにしていた。
 横浜マラソン当日は、晴天。胸が痛くなるほど、青くて澄み切った空が広がっていた。
 前日から宿泊していた両親の部屋をたずね、メインダイニングにて、母とくぼまみと一緒に朝食をとる。私たちが部屋を出る時も、夜型の父は気持ちよさそうに寝息をたてて寝たままだった。朝食といっても、走る前なので、コンソメスープをほんの少しとヨーグルト、コーヒーのみ。くぼまみは、というと、しっかりトーストを食べていた。本当に、彼女の胃袋の強靭さは、超一流ランナーなみだ。
 この大会はアディダスも協賛しているので、萩尾さんや井原さんも会場に来ていた。萩尾さんと、今回はスントをはずして走ってみることも検討したのだが、練習不足の不安から、やはり装着して走ることに決めた。
 山下公園前のスタート地点は、今までのレースの中でも一番の渋滞。半袖&ハーフタイツで肌寒いはずなのに、人いきれでむせかえっている。満員電車のようだった。スタートの合図がしても、他人の足を踏んだり踏まれたりしないように注意しながら、ぞろぞろと塊で前進していく、という感じ。中には嬌声をあげる人なんかもいて、レースというより、お祭りという感じ。ウエアのおしゃれ度もかなり高い。
「ロンドンは、こんなもんじゃないですよ」
 と、くぼまみ。何事も練習と慣れだと思うことにする。合図からスタートラインにたどり着くまでは、いつも通り2分近くかかった。
 スタートラインで自分のスントのスタートボタンを押す。少しは流れるようになったものの、まだまだ速度をあげられるような状況ではない。時速5.5キロほどで、のろのろと足を動かす。だんだん人もばらけて、さあ、これから、という時、スントの時速がいきなり111キロになり、すぐに0になり、まったく動かなくなった。またか! 北海道の時といい今回といい、なんだか、私はスントとの相性が今イチのようだ。このままあきらめて自分の身体の感覚だけを頼りに走るか、それとも立ち止まってスントを直してみるか。数秒ほど迷って、私は後者を選択した。これが本番じゃないから。そういう思いもあったけれど、このあがらないテンションで自分の身体の感触を信じる自信もなかった。
「くぼまみ、私スントを調整し直していくから、先にいって」
「え、でも……」
「いいの、私のことは気にしないで」
「じゃあ、そうさせてもらいますね。甘糟さんも頑張って!」
 雪山で遭難しかけた登山者のように大げさな別れをしてから、私は道の端にいってしゃがみこんだ。スントのボタンをいくつも押して、フットポッド(時速や距離を測るにはこれが必要)を仕切り直した。けれど、再び走り出してから、すぐにまた時速0キロとなってしまい、さすがに今度はあきらめた。
 ニューグランドホテルをスタート地点に私がFRaUの記事で作成したコースは、山下公園はもちろん、みなとみらいや赤レンガ倉庫、横浜スタジアムに中華街に元町といった、観光名所が目白押しだが、横浜マラソンのコースは主に本牧埠頭を走る。がらんとした倉庫街で、景色にはあまり変化がない。その上、いつものように雑談の相手もいないので、ただただ前を走る人のゼッケンと道路のコンクリートを見つめながら足を動かす。
 この日ほど、自分の肉体を意識しながら走ったことはなかった。汗ばむのも息が切れるのも筋肉が硬直するのも、当たり前だけれど、肉体あってこそ、のものだ。人が亡くなっても魂の存在はあるとは思うけれど、肉体を介さなければ、私たちはそれに触れることができない。そんなことを考えていると、病的に涙もろい私はつい涙が出てしまう。大量の汗が頬を伝っているので、どうせ判りはしないだろうと少しのあいだ泣いたまま走った。そんな状態だったので、途中で何度か、棄権してしまおうかと思うこともあった。けれど、そういう苦しさも肉体があるから感じられること、と自分で自分にいい聞かせた。
 さすがに折り返し地点になると涙も止まって、身体も心も走ることに馴染んでくる。むくむくとレースに出ている自覚が芽生え始め、速度をあげていった。ところが、このレース、参加人数のわりに道幅が狭い。抜かそうにも、人がひしめいていて、足が絡まりそうになる。真横に出たり、斜め前に出たりと、ヒップホップダンサーのように素早く動きながら、けっこうな人数のランナーを追い抜いた。
 これは主催者側のミスだと思うのだが、「あと2キロ」という地点ではじめての給水所が現れる(せめて折り返し地点、できれば、3キロごとにあって欲しい)。その頃にはのって走っていたので、給水をするかどうか、かなり迷った。喉はからから、でも、前半のスローペースを可能な限り縮めたいし、あとたった2キロだし。結局は足をとめ、紙コップに手を伸ばした。私って根性ない! と痛感した瞬間であった。
 最後のコーナー前からは、ほとんど短距離走のようなスピードで走った。まだまだ足は小気味よく動く。沿道からは、井原さんたちが名前を呼んで声援を送ってくれているのが判ったので、笑顔で手を振ってみたりもする。けれど、最後の最後という直線で、足の動きが突然鈍くなった。これが筋力の限界なのか、と思った。日頃から、萩尾さんや鈴木さんには、とにかく筋肉を鍛えておかないかと足が前に出なくなるから、といわれている。私には、それが実感としてどういうことなのか判らなかった。思うように動かない足をもどかしく感じながら、ああ、この感覚なんだなあと、自分の肉体で理解することができた。
 最後はわずかに失速したもの、無事ゴール。ネットタイムは59分46秒。なんとか1時間を切ることができた。
 母は、ゴール付近をうろうろしていたが、私の快走(?)を見届けることはできなかったらしい。けれど、終了後にホテルで会うなり、はずんだ声でこういった。
「私も膝が悪くなければ走ってみたくなったわ! 大人の大運動会ね。公園じゅうに楽しそうで健康そうな人が溢れていて、そりゃあもう、いい景色だったわよ。こんなに幸せそうな人だけをたくさん目にすることって、そうそうないじゃない」
 それまでは私のフルマラソン挑戦をあまり肯定的に思っていなかった母も、この時からがらっと考えが変わったみたいだった。