超魔球スッポぬけ!
朱川湊人
かたみ歌
デビューするまでの話 パート1
 こんにちは、シュカワです。
 今ごろ何言ってんの、と思われるかもしれませんが、あけましてオメデトウございます。今年もよろしくお願いします。
 さて、新しい年が明けて、すでに二週間以上が過ぎました。みなさん、お元気ですか。ワタシはと言いますと、ここ数日間は、ちょいと多忙な日々を送っています。
 出版業界には、いわゆる『年末進行』というものがありまして、世の中がお正月を迎えるために、もう何でもかんでも早回し、という状態になります。雑誌の締め切りなどは一週間近く繰り上がったりして、なかなか過酷なのですが、ワタシは関係者各位に迷惑をかけまくりつつ、どうにかクリアすることができました。
 ホッと胸をなで下ろしてお正月を迎えたのですが、それからすぐにやって来たのが、第二弾の『年始進行』。それまで以上の締め切りラッシュが押し寄せてきて(まさしくジェット・ストリーム・アタック状態)、新年早々、前回で書いた不眠記録をアッサリ塗り替えてしまいました。当然、関係者各位には迷惑かけまくりで、みなさんホント、すみませんでした。いや、ここで謝ることでもないんですけど、つい。
 その間に四十三回めの誕生日を迎えました。
 四十三歳といえば押しも押されぬオヤジですが、ワタシは小学校の頃からオヤジっぽい雰囲気に満ちていたので、今さらどうということもありません。歳をとることに抵抗もありませんし、むしろ、とりあえず無事にやってこれて良かった……という気持ちの方が強いです。生々流転、諸行無常の世の中では、誕生日を迎えられるということは、幸せなことですよ(あ、さっそくオヤジ臭い説教だ)。
 誕生日は、どうも人生を振り返りたくなる日です。私の場合、年末に一年をしみじみ振り返り、その一週間後に人生そのものを振り返るので、『エクソシスト』のリーガンかメカゴジラみたいに、頭がクルクル回ってるみたいなんですが。
 それでつくづく思うのは、端くれとはいえ、小説家になれて本当に良かったな……ということです。やっぱり子供の頃から憧れていた職業でしたし、書いたものを人さまに読んでもらえるというのは、本当に幸せなことです。デビューするまでに、二十年くらいかかってますけどね。
 というわけで、今日はちょっとマジメに、デビューするまでの話をしようかと思います。

 国語の授業で書かされた『そうさく』を除けば、初めて小説らしきものを書いたのは、たぶん小学六年生の頃です。
 その頃の僕はシャーロック・ホームズと明智小五郎が大好きで、推理小説ばかり読んでいたのですが、将来の夢はマンガ家になることでした(女の子がどうしても上手に描けず、やがて断念しました)。本を読むことが好きでしたので、毎日のように近くの図書館に通っていたのですが、ある時、星新一先生の作品集を読んで、すっかりハマッてしまいました。それこそ『こんなに面白いものがあったのか』とショックを受けたくらいです。
 ご存知のように星新一先生の作品はショートショートで、奇想天外なアイディアの宝庫です。必要以上の描写や難解な言葉もないので、学力に難のあった当時のワタシでも十分に楽しめました。
 よーし、一つ自分でもマネしてみるかぁ……と、余っていたノートに書いたものが、ワタシの初めての小説です。タイトルもストーリーも忘れてしまいましたが、絵物語風に自分でつけたイラストが、フラスコや試験管などの実験器具だったことは記憶していますので、きっと科学者が出てくる話だったのでしょう。だいたい想像つきますね。
 それからショート・ショートをいくつか書いて、さらには推理クイズの問題に毛が生えたような推理小説も書きました。出来は、まぁ、推して知るべしですが、『物を書くのは楽しい』と感じたのは、その頃です。
そのまま行けば、たぶんミステリー方面に行っていたと思うのですが、いろいろあって中学の時に、突然、太宰治にハマッてしまいました。
 お好きな人は判るかと思いますが、太宰という作家は、非常に心に食い込んでくる作品を書きます。彼の作品を読んで「あぁ、これは俺(私)のことだな」と感じない人はいないでしょう。
 ワタシもそうでした。読めば読むほど彼に引っ張られ、まるで自分のために彼が作品を遺してくれたように思え、さらには自分のすぐ近くに彼がいるような気がしました。
 そうなったら、自分も彼のようになりたいと思わないはずがありません(心中したい……という意味ではありませんので、くれぐれも誤解なきよう)。 さっそく書きました――なんちゃって太宰というか、太宰モドキの小説を。
 若気の至りというか、赤毛のイタリア人というか(うわっ、くだらない)、どれも現存していたら、十分恐喝の材料に使えそうな恥ずかしい小説でした。それも、一本や二本じゃありません。記憶しているだけで、二十本はあります。若いって、本当に怖いですね。
 そういうことをしているうちに、決めてしまったわけです。自分は絶対、小説家になるんだと。

 高校にあがってからも、恥ずかしい小説を書き続けました。いえ、むしろ歳を重ねて恥ずかしさもパワーアップ! 文芸部に入り、部誌の三分の二を自分の作品で埋め尽くすという暴挙に出て、顰蹙を買ったりもしました(ちなみにワタシの最新刊『わくらば日記』は、この頃に書いた恥ずかしい小説のタイトルです。中身は全然違うのですが、気に入っていたタイトルなので、復活させてみました)。そういうコトばっかりやっていたので、志望の大学にあっさりと落ち、浪人することになるのです。
 けれど、ここで一つ、転機がありました。高校卒業間際に、ある文芸賞の公募に応募して、佳作入選したのです。
 まさしく、天にも昇るような気持ちでした。賞金十万円(十八歳には、大金ですぜ)もらったのも嬉しかったのですが、何より、「もしかしたら、いけるんじゃないのか」と思えたことが、嬉しかったのです。
 よーし、このままの調子でがんばるか! と思ったのですが、実際はそうも行きませんでした。
 一年の浪人を経て大学に入ったのですが、家が裕福ではなかったので、親は授業料以外は出してくれませんでした。そうなると、食べるためには当然アルバイトをしなくてはなりません。
 結局、大学の四年間は 学校とバイト先の往復ばかりだったような気がします。職種も、家庭教師、本屋、道路工事のガードマン、お茶屋、塾の先生、レストランの洗い場など、本当にいろいろやりました。今思い出せば楽しい日々ですが、当時は結構キツかったかもしれません。
 ですから小説の方は、あまり書けませんでした。言い訳に過ぎないかもしれませんが、さすがに余裕がなかったのです。けれど、小説家になるという思いだけはガッチリあって、友だちにも吹聴していました。つまり、書いてないくせに言うことだけは大きい、ビックマウス野郎だったわけです。ちょっとイヤなヤツですよね。
 大学を卒業した後は、ある小さな出版社に就職しました。時間的にとても厳しい会社で、前日に深夜二時まで残業しても、翌日には必ず朝九時に出勤していなければならないのが決まりでした。体力はあったので、そんな生活にも耐えられたのですが、それ以上に辛かったのは、仕事にやり甲斐がなかったことです。
 小さな会社にはよくある話ですが、そこは社長の意向がすべてでした。
 若かったせいか、社長自身もかなりの気分屋で、物事の判断基準が日々変わるような面がありました。そのために社員が独自の判断を下せず、どんな些細なことでも社長の許可を得なければなりませんでした。
 つまり、やれと言われたことだけやって、自分では何も作るな、というわけです。それって社長の道具になれ……と言われているようなものですよね。少なくとも当時のワタシには、そう思えました。いろいろ自分で面白いことをやりたがる人間にとっては、かなり辛いことです。
 そのうえ拘束時間も長いのですから、ワタシは恐ろしいスピードで消耗してしまいました。少なくとも三日に一度は、会社を辞めたいと思いましたよ。
 そうなると、死守すべきは自分の夢です。
 小説家になる夢は持ち続けていましたが、大学生の頃よりも激務な日々でしたので、実際には、一行たりとも書いていませんでした。
 コレではいかんと、休みの日にペンを執ってみますが、ある程度の長さがあるものを、たった一日で書けるはずがありません。翌日からは再びハードワークで、結局は、書きかけのものばかりが増えました。その中には、いったい自分がどんな話を書くつもりだったのか、少しも思い出せないものまであります。
 そのまま夢が死んでいく気配を、ワタシは感じました。
 きっと小説家になる夢を果たすことなく、このまま激務の毎日を繰り返して、いつかはそんな夢を持っていたことさえ忘れてしまうんだろう……と思いました。
 それが悪いこととは言いません。
 ただ闇雲に前進しようとするより、時には一度やめてしまった方が、後でいい結果に繋がることもある……ということを、この歳になった今なら十分にわかります。
 でも、その頃のワタシは、そんなことは知ったこっちゃありませんでした。前進しないことイコールすべての終わりだと思えたのです。
 そうなると、ちょっと必死になりました。
 社会人になって二度目の冬、某文芸雑誌に投稿すると決めて、ある作品に取り掛かりました。何が何でも完成させよう、そのためには少しずつでもいいから毎日書くことだ……と悟って、昼休みに会社の倉庫の片隅で、パンを齧りながら書きました。
 倉庫は日当たりの悪い古いビルの一室にあり、暖房の類は一切ありません。ワタシはそこで息を白くしながら、百枚の小説を書き上げました。結構がんばったと思います。
 その作品で、みごと入選!……と来ていれば、何だかカッコイイ話にもなるんですが、世の中はそんなに甘いものではありません。結果は一次予選さえ通過できず、玉砕です。
 ヘコみましたよ、当然。一週間くらい口も利きたくないくらいに落ち込んで、この世には神も仏もないんかな……とヤサグレもしました。
 けれど、忍耐力ばかりが美徳とされる山羊座の性格が幸いしたのか、そのままで終わる気はありませんでした。玉砕の痛みを忘れるために一番いい方法は、再び挑戦することです。
 それから、何回落選しましたかねぇ(遠い目)――当時出ていた文芸誌の新人賞は、一通り落ちていると思いますよ。それも、ほとんどかすりもせず。
 さすがに温厚なワタシも、ちょっとアタマにきました。
 こうなったら一年でもいい、小説を書くことに集中しよう。その間に芽が出なかったら、キッパリあきらめよう――無謀にもそう考えて、やっちまいました。
 会社、辞めちゃったんです。
朱川湊人(しゅかわ・みなと)プロフィール
1963年1月7日大阪府大阪市生まれ。81年東京都立淵江高等学校卒業。86年慶応義塾大学文学部国文学科卒業。出版社勤務を経て文筆業に。平成14年「フクロウ男」(『都市伝説セピア』文藝春秋刊=第130回直木賞候補所収)で第41回オール讀物新人賞を受賞し、デビュー。平成15年には「白い部屋で月の歌を」で日本ホラー小説大賞短編賞を受賞、平成17年に「花まんま」で第133回直木賞を受賞した。他の著書に『さよならの空』(角川書店)、『かたみ歌』(新潮社)がある。